道東を発見する旅 第3の人生

愛憎の果て、好奇心か恐怖心か、新しいステージ

今日は週刊誌風にしました。

手配写真とは別人だった、菊池容疑者

先日、オウムの菊池容疑者が逮捕された。その日の夜、NHKのニュースで、顔を出さずに「ATMでお金を出したとき、手配写真のポスターが貼ってあって、それを見て近くを見たら、そっくりな人が立っていた」と話した人がいた。

この人について、テレビでは何も説明しないまま終わってしまった。後で、N子さんと2人で、あれはいったい誰なんだろうと話していたのだ。

次の日、マスコミに出た本人の写真では、手配写真とは全くの別人であった。どこがそっくりなのか全く分からない。NHKの画面に出てコメントしていた人物が警察に通報した人物だとすれば、何か裏があるのかもしれないと思った。

菊池容疑者に続いて高橋容疑者も逮捕され、警察による取り調べ情報がボロボロと漏れ出てきている。そして、大きなカギを握る人物の存在が明らかになってきた。菊池容疑者にプロポーズしたという同居人である。

脅迫と窃盗

菊池容疑者にプロポーズして、本人からオウムであることを告白された同居人は、「オウムであることをばらすぞ」と、高橋容疑者を脅していたらしい。また、家に忍び込んで隠してあった1000数百万の半分くらいを盗んだそうだ。

さらに、菊池容疑者を警察に通報したのは、同居人の兄であったという。テレビに出てきた人物が、兄だとすると、辻褄合わせのコメントをNHKが提供したことになる。だったら、何故NHKがその人に取材できたのだろうか。色々ツッコミどころはあるのだが、不問にしておこう。

結局、この逮捕劇の背景には、男女関係のもつれが深くかかわっているようだ。教団内での位置は、高橋容疑者は使い走りの運転手役程度の人物だったようで、菊池容疑者はそれよりもずっと高い地位にいたらしい。

ところが、潜伏中に立場が変わる。菊池容疑者は、高橋容疑者から強姦のような形で性行為を強要されたようで、高橋容疑者を嫌っていたという。そして、新しい恋人が出来て事態は大きく変化した。

愛憎関係のもつれが、脅迫や盗みにつながっていき、そして懸賞金目当ての兄による通報で逮捕へと至った経緯が読めてきた。

分からない事が明らかになって、快感を感じる事を知的カタルシスという。最初のテレビのコメントから始まった今回の事件は自分の中では一件落着だが、いったい自分の好奇心はどこから来るのだろう。

ここで好奇心についておさらいしてみる。

好奇心とは何か(Wikipediaより引用)

好奇心(こうきしん)とは、物事を探求しようとする根源的な心。自発的な調査・学習といった知的活動の根源となる感情を言う。

分からないものに対して、その理由や意味を知りたいと考えるのは、ヒト(人間を含む)の根源的欲求であると思われる。その意味では、ワイドショーで芸能人の生活をほじくり回そうとすること(cf. 野次馬)と、素粒子の行動を解き明かそうとすることに差異はないと考えられる。

一応、後者を知的好奇心として分け、前者は俗じみた行動であるのに対して後者を尊いとする判断はあるが、客観性には乏しいかもしれない。

目新しいものに出会ったとき生まれるその他の心情としては恐怖が挙げられる。ヒトが目新しいものにぶつかった場合は、まず驚愕が先に立ち、それから好奇心が生まれるか恐怖が生まれるかのどちらかである

本質的には、好奇心とは未知の物事に対する行動や精神的な働きを示す言葉であり、自然環境や周囲の出来事の情報や関連するものを求めようとさせることにつながる。

引用終わり

生まれるのは好奇心か、それとも恐怖心か

素粒子の研究も芸能人のプライバシーも、好奇心の観点からは大差ないようだ。その一方で、新しい出来事などに対して、驚愕の後、好奇心が生まれるか、あるいは恐怖心になるのか、どちらかに分かれるのだという。

自分の場合、幼い頃は、臆病で小心者だったのである。しかし、大人になり、医者になり、研究者になり、外国に住み、大学で議論し、さらに離島に行きといった経験のおかげで、新しい状況や環境に対して、常に好奇心が湧き出てくるように成長できたのだと思う。

それで気がついたのが朝礼の事である。

4月2日に今の病院に就職して以来、毎朝、黙とうし聖書の話を聞いて、信者さんのメッセージを聞かせてもらっている朝礼は、自分にとって、好奇心がわき出る対象である。

一方、普通の医者にとっては、キリスト教の宗教活動が病院で行われる事への驚愕、そして恐怖心の対象になってもおかしくないのだろうと思い至った。

オウム信者逮捕とチャペルでの朝礼を同一視するのは、とんでもないことのようだが、好奇心の定義からすれば差異はないということである。

冷めてきた朝礼への好奇心

最初は、何が起こるか、どんな話が出るか好奇心いっぱいだったが、3ヶ月も過ぎてしまうと、さすがに今は、そのレベルから新しいステージに入ったようだ。毎朝、何が起こるか、どんな人がどんな話をするのか、ある程度、パターンが読めてきたので、真っ赤に燃え上がっていた好奇心が冷めてきている。

これから、自分自身の中で、朝礼がどんな意味を持っていくのか全く予測がつかない。明日から、出るのを辞めるかもしれないし、ひょっとして洗礼を受ける事になってしまうかもしれない。どちらも有り得ないまま、出席し続けるのだろうと思っている。

多分、自分は聖書の事を、ちょっと知っただけで分かったような気分になっているだけである。聖書の話から広がる信仰の世界は、そんなに小さくて狭いものではないだろう。もっと、もっと奥深いものなので、今よりも、もっと楽しめるようになると思っている。

週の真ん中

今日は週の真ん中である。台風は去ったが、次の台風が来るらしい。暑い夏が近づいてきている。涼しい夏を3年も過ごしてきたので、大阪の夏に耐えられるのだろうか、ちょっと不安だけど、何とかなるのだろう。
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