名古屋での上映館はシネマスコーレ。51席の小さな劇場だ。ここのロビーは5~6名しか入れないから、入れ替え前は劇場前の歩道に人が溢れる。名古屋の映画好きにとってはお馴染みの光景だ。その満員御礼状態の中、僕も『太陽』を観たわけである。
先に書いておくと、これは観ておくべき価値が充分にある映画です。ぜひとも時間を作ってご覧ください。途中ちょっと退屈に感じる部分があって眠気に襲われます(僕の隣の席の人は明らかに寝ていました)が、その退屈さこそが昭和天皇の日常を象徴しているのだ、と解釈すべきでしょう(違う?)。
以下、ネタバレありです。
最初は戸惑った。イッセー尾形の演じ方が「ひょっとしてギャグ?」と思えるようなものに感じたからである。しかし、それが次第に味わい深いものに思えてくる。と同時に、こんなにモタモタと描いていて大丈夫なんだろうか、とも思えてくる。
舞台は太平洋戦争末期の日本だ。広島と長崎に原爆が落とされ、もはや日本には降伏の道しか残されていない。少なくとも、天皇はそう考えている(この映画の中では)。しかし、そんな状況であるにもかかわらず、天皇の日常は奇天烈なほど平穏であり、あらかじめ決められている予定を淡々とこなしていく。「こんな時、なんで生物の研究?」と多くの者は思うだろう。僕も思った。だが、それが昭和天皇の日常だったのだろう。「浮世離れしている」というよりは、「浮世離れしていることを強いられてきた」毎日だったのだろう。
無論、天皇は苦悩している。自分が普通の人間であることを世に知らしめたい。だが、それによって多くの日本人が心の支えを失うことも分かっている。実際、映画の最後では、「人間宣言」を録音した技師が自害したことが明かされるのだ。
最初から最後まで、昭和天皇は「善なる存在」もしくは「純朴たる人物」として描かれる。人を食ったような奇矯さも見せるが、それがまた何とも言えぬ親近感を抱かせるのだ。側近や使用人と接する時の「軽やかな傲慢さ」は、まるで古畑任三郎のようでもある。無邪気に知識を披露する「生物学オタク」という一面も、これまた愉快だ。
おそらく、この映画を観た者の大半は、昭和天皇を好きになるだろう。もしくは、こういう風に昭和天皇が描かれたことに安堵するだろう。僕自身、観ていて幸福な気分になった。いや、昭和天皇を悪辣な存在として描いた作品でないことはポスターの写真などから推測できたが、ここまで「愛すべき好人物」として捉えられているとは思っていなかったのだ。久しぶりに会った皇后とのやり取りなんて、微笑ましいことこの上ない。
実は、昭和天皇が無類の好人物として描かれていることに安堵した自分が、ちょっと意外でもあった。というよりも、自分は天皇が好きだったんだ、ということに改めて気付かされた。おそらく、これは僕だけではないだろう。日本人の多くは実は天皇が大好きなのではないか。そして、その日本人にとって「こうあってほしい」という昭和天皇の姿を、驚くほど現実的に描いた作品が『太陽』なのだ。この作品がロシアで誕生したことは実に興味深い。
人を「右翼か左翼か」で二分化するのは無意味なこと(というより時代錯誤)であるが、どちらかと言えば僕は左翼に近い人間だった。いや、ほんの短期間とはいえ民青(日本民主青年同盟)に所属していたことがあるから、世間一般の基準から考えれば明らかに左翼陣営だろう。実際、天皇制存続には異議を唱えてきた。だが、そんな僕でも、やっぱり天皇を「自分の身内」のように感じており、好意と親近感を抱いていたのだ。
この映画が何らかの政治的策略に利用されることがあれば、それは作品にとっての悲劇であろう。無論、論議が巻き起こるのは有意義なことだろうが、これは強大な権力を持つ男が下した決断の正否を問う作品ではないのである。世にも稀な境遇に生まれてしまった平凡な男の苦悩と葛藤を描いた作品なのだ。
この作品を作り上げた人たち、日本公開を実現させた人たちに、敬意を表します。
※画像は前売券とパンフ、8/5の中日新聞夕刊。
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