引用部分が長文になって、ひとつの記事に収まらないので
こちらに引用文のみ掲載しておく
「神道の生き方」は絶版、現時点で古本は存在するようだが、やはり数は少ないのでいつ入手困難になるかわからない
故山蔭基央氏は戦後の日本を憂慮しておられた
僭越ながら一助となるべく
山蔭神道家第79代故山蔭基央氏の著書「神道の生き方」学研パブリッシング社
心より哀悼の意を表し、敬意を持って引用させていただく
p278 9行
霊界は直感では見えない
見出しのとおり、霊界は直感能力では見ることができない。
ここで重要なことは、霊界は幾十層もの階層に分かれている世界であり、そのうち一階層も横に広がりがあり、山あり谷ありで花園もあれば湖もあり都会もあるわけだから、ある霊能者が「私はあそこの世界を見た」と言っても、その階層のことごとく一部の部分にすぎないということである。
霊界については、上層世界が二十一層で、下層世界が十四層に分かれており、下層世界は地下世界とみればよい。
上層世界にいたっては、最上層は“透明融合”の世界だから、訪れても自分一人の世界になってしまう。つまり、仲間や社会がほしい人は、下層世界の社会、つまり、個別の人格が必要な世界を訪れて、満足し理解するしかないわけである。
明治の神仙・宮地水位みやちすいいの訪れた神仙界は「幽界」だから、薄明旦暮で静寂が漂う世界である(幕末の仙童寅吉せんどうとらきちや明治の神仙普明ふみょうや河野至道しどうなどの話も伝えられているが、彼らは天狗界の住人で、神仙界の人ではない)。
幽界の上位層は、太陽は輝いてはいないが、五色の花が咲き乱れる春景色の世界であり、きわめて心地よい世界である。さらに上層にいたると、そこはすべての物体が淡い光を発している世界で、色は淡色である。さらにその上位層に入ると、透明感が漂う世界がある。もうそこは、融合の世界に入っているので、たとえ私たちが招かれても、そのあたりに神人がいることすら感じられない孤独な世界である。
かく見るとき、神霊とは融合体であり、巨大エネルギーを発する存在で、行動を起こすときは、分離することもあり単独のときもあるわけで、いかなる悪魔の猛霊といえども反抗することはできない。
『西遊記』の孫悟空は、一時間に十万八千里(五万四千キロメートル)を飛べる觔斗雲きんとうんで走り回り、ここらでよかろうと、大きな一本の柱に「斉天大聖せいてんたいせい(孫悟空)ここに到る」と書いて飛び帰り、釈迦如来に報告した。釈迦に「ここか?」と示されたので、見たところ、それは柱ではなく、釈迦の中指に書いていたという。
孫悟空は、釈迦の掌の中を飛び出してはいなかったというのである。暴れん坊の孫悟空も一握りに締め殺されるところであったわけで、高貴な神霊とはかくも広大なものである。
これらのことを法則世界の実相というのであって、断じて自分の霊能を世界一などと思わぬことが大切であろう。
しかし、法則をよく知って、霊界各層の神霊に敬い奉り、志篤あつく礼儀正しく法則に背かぬように願い奉るならば、各種の祈願が通達して奇蹟が起こるというわけである。