務のよしなしごと

ハンプトン・コート宮殿の人々(完成時期未定)
「オペラ座の怪人」勝手に解説
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ハンプトン・コート宮殿の人々 — ヘンリー8世と周囲の人々-1

2021-10-19 | うんちく・小ネタ

トーマス・ウルジー (Thomas Wolsey, 1475-1530)

トーマス・ウルジーはヘンリー8世の治世初期において彼に大きな影響を与えた側近の一人で、当時のイギリスの政界及び宗教界で最高の地位まで上り詰めた人物である。生年については諸説あり、1472年、1473年という説もある。イギリス東部イプスウィッチの肉屋の息子として生まれた下層階級の出である。

下層階級の出ではあるが、学問に関しては才能を発揮し、15歳までにはオックスフォード大学の学位を取得した。大学では神学の他に財務管理も学んだようで、後にヘンリー8世の統治に役立ったとされる。

下層階級出身者が王位を除く最高の地位に簡単に上り詰めることができないのはウルジーについても言えることであるが、彼が自分の地位を上げていくことができたのは、彼の知的能力の高さが権力者の注意を引き彼らの期待通りの成果を上げることができ、運が運を呼んだという側面もある。25歳頃に司祭の地位に就き、その後オックスフォード大学を構成する神学校の学部長、学長を務め、1502年にはカンタベリー大司教下の牧師として働いた。そして1507年にはヘンリー8世の父であるヘンリー7世(1457-1509)に宮廷付き司祭として仕えることになる。ヘンリー7世に仕えたのは約2年であるが、その間、スコットランドとの関係改善に外交手腕を発揮したりして王に重要な人物として認識されるようになった。

1509年にヘンリー8世(1491-1547)が王座に就くと、ウルジーは枢密院(Privy Council)の議席を与えられた。若いヘンリー8世は戦士王(worrior king)としての実力を誇示するために外国と戦争をしたがっていたが、ヘンリー7世時代からの枢密院議員は多くの者が戦争に慎重な態度であった。ウルジーも最初は戦争に対して慎重な考えを持っていたが、戦争することに賛成すればヘンリー8世は自分を更に重要視すると考え、枢密院の会議では王の意向に沿う発言を多くして他の議員たちを説得した。また、この間1512年から1514年にかけての英仏戦争においてウルジーは兵站を滞りなく担当するとともに外交的手腕を発揮しフランスとの間に一時的平和を確保した。これが功を奏したようで、1515年には大法官(Lord Chancellor)になり、官僚としてトップに上り詰めた。この間聖職者としても、1511年にウィンザーのカノン(ミサを仕切る立場)、1514年にリンカーンの司教、同じ年にヨークの大司教になり、1515年にはローマ教皇レオ10世によって枢機卿(Cardinal)に任命された。

この時代までのハンプトン・コートは14世紀に建てられたマナー・ハウス(荘園領主の邸宅)で、賃貸物件だったようだ。ウルジーは1514年に賃貸を引き継いだらしいが、1515年から1521年にかけての大改修の規模から、そしてその後の使用状況やヘンリー8世への献上の経緯から、結局ウルジーが買い取ったと考えるのが妥当である。彼は財力に物を言わせて、それを宮殿のような豪華な造りに変え、後にヘンリー8世などイギリスの王が実際に宮殿として使用した(王の所有物になった経緯は後述)。

 

 

 



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