務のよしなしごと

ハンプトン・コート宮殿の人々(完成時期未定)
「オペラ座の怪人」勝手に解説
住んでいる近辺の紹介

ハンプトン・コート宮殿の人々 — ヘンリー8世と周囲の人々-1

2022-01-23 | うんちく・小ネタ

トーマス・ウルジー (Thomas Wolsey, 1475-1530) その3

ウルジーの成功は1520年が頂点と考えられるが、それ以後はイギリスを取り巻く国際情勢が目まぐるしく変化する中で、彼自身の野心を成就しようとする目論見やヘンリー8世の意向を実現させるための施策が困難に遭遇したり裏目に出たりしてめぼしい成果を上げることができなかった。例えば、1520年の金襴の陣以降フランス、スペインとの外交関係が安定しなかったこと、行政官として王に次ぐ強大な権力の座に上り詰めようと、王の近くにいた他の者たちの失敗をあからさまに利用してきたために多くの貴族に嫌われたこと、それを背景にヘンリー8世のための戦費調達がうまく行かなかったことがある。最も大きいのはヘンリー8世の離婚問題でローマ教皇の認可を得ることができず、王やアン・ブーリンは王の離婚問題解決を故意に遅らせていると不信を抱くようになり、1529年にウルジーはヨーク大司教の座を除き全ての役職から追放されてしまう。それと同時に、それまで王がほとんど自由に使っていたハンプトン・コート宮殿ははく奪され実質的な献上品としての状態から正式に王の財産となった。

1529年の夏も過ぎた頃、宮廷から追放されたウルジーは、1514年に既にその地位に就いていたが、ヨーク大司教としての任地へ生まれて初めて向かい、ヨーク手前のカーウッドにある大司教の邸宅(Cawood Castle)に落ち着いた。そこで彼は大規模な補修と改修を始めた。しかし、1930年末に反逆罪で逮捕される。その時、ウルジーは部屋で食事中であったが、逮捕の命を帯びたノーサンバランド伯爵が来たことを知ったウルジーは儀礼的な訪問だろうと思い、伯爵と従者の一人を中に招き入れ食事を提供する旨を口にしたが、伯爵は大司教を前に震えながらも小さな声で逮捕を告げたとウルジー側近の執事が記している。(https://www.landmarktrust.org.uk/news-and-events/latest-news/wolsey-and-cawood-history/  https://thetudortravelguide.com/2019/11/09/cawood/)ウルジーは裁判にかけられるということで、周囲の従者たちに別れを告げた後、ろばの背に乗って冬の夕方をロンドンに向かってカーウッドを出て行った。

 

 


ハンプトン・コート宮殿の人々 — ヘンリー8世と周囲の人々-1

2022-01-19 | うんちく・小ネタ

トーマス・ウルジー (Thomas Wolsey, 1475-1530) その2

約3か月ぶりの投稿です。

さて、話をウルジーに戻す。

1518年にウルジーは教皇レオ10世からイギリスにおける教皇特使に任命され、教皇の希望どおりヨーロッパの国々20か国が参加する平和条約の締結へと漕ぎつけた。このことはイギリスのヨーロッパにおける地位向上に役立ち、大陸からの孤立を避けることにもなりフランスとの条約成立にもつながった。また。1520年にはヘンリー8世とフランス王フランソワ1世の壮大な会見(金襴の陣)を取り仕切った。しかし、その会見は華やかな宴会や馬上槍試合などのイベントを通じてイギリスの富と権力をヨーロッパ中に顕示する機会ではあったが政治的に得るものは少なかった。そして確執があったフランスとスペインがイギリスとの同盟を争っていて、ヘンリー8世やウルジーはどちらに与するか揺れ動いていた。結局イギリスは1521年、ウルジーの考えを基にスペインとの同盟を選んだので、フランスとの一時的ではあったけれど良好な関係が崩れてしまった。

その後、ウルジーは大陸への関与を保持しようとするヘンリー8世のために戦費調達策を考案したが増税案は議会に拒否され、一種の義援金を募集するという案も強烈に反対された。スペイン王であり神聖ローマ皇帝でもあるカール5世は、国内ばかりでなく外交においても揺れ動くイギリスに対して業を煮やし、1525年にイギリスとの同盟を破棄するとともにフランソワ1世を捕虜にし監禁してしまった。ウルジーは再びフランスと交渉を始め、フランソワ1世の監禁中に、彼の母親である摂政のルイーズ・ド・サヴォイによる暫定政府と条約を結び、イギリスはフランスにある領地主張を取り下げる代わりにフランスから毎年2万ポンドを受け取り、フランスはイギリスと険悪な関係にあったスコットランドとの同盟を棚上げにするというものであった。しかしこれらの施策はスペインとフランスが和平に向けて動き始め、うまく働くことが期待できなくなった。金襴の陣以降、内政と外交に置いて失策続きのウルジーに対してヘンリー8世は次第に不満を募らせるようになり、これを感じ取ったウルジーはこの頃ヘンリー8世の機嫌を取るためハンプトン・コート宮殿を王の意のままに使用できるよう実質的に献上した。

1526年頃になるとヘンリーは男子の世継ぎが望めない王妃キャサリン・オブ・アラゴンと離婚し、王妃の侍女アン・ブーリンと結婚しようと考えるようになり、ウルジーにローマ教皇から離婚の許可を取り付けるよう命じた。一方王妃の甥であるカール5世は当時のローマ教皇クレメンス7世を1527年に事実上捕虜にしてしまっており教皇に大きな影響力を持っていた。カール5世は叔母キャサリンとヘンリー8世の離婚問題に関して反対の立場を取り、教皇に離婚を許可しないよう圧力をかけたので、クレメンス7世はカール5世とヘンリー8世との間でジレンマに陥り、できるだけ結論を先延ばしにしようとした。

1527年ウルジーはヘンリー8世の離婚問題に関してクレメンス7世に最終陳情(訴訟)をした。結局は失敗に帰したが彼の戦略は次のようなものであった。まず、かつて短期間ではあってもヘンリー8世の兄アーサーと婚姻関係があったキャサリン・オブ・アラゴンとヘンリーの結婚の際にローマ教皇が与えた特別な許可は、兄弟の未亡人と結婚することを禁じたキリスト教の教義に反しており、無効であると主張することであった。第2に婚姻に関する文書に誤りがあったと主張することであったが、後にスペインで誤りのない文書であったことが確認された。第3に離婚訴訟に対する最終決定を自分ともう一人の教皇特使カンペジオによってイギリスで下すというものであった。この最終決定はカンペジオが1528年から長い時間をかけてイギリスに到着し、更に彼は手続きを大幅に遅らせたために1529年に訴訟を一時停止せざるを得なくなった。そしてカール5世とフランソワ1世が1529年に交わした和約が成立し、ウルジーの外交政策は完全に失敗し、ヘンリー8世の離婚実現も進展が望めない状況になった。このような状況でアン・ブーリンと既に彼女と同棲を始めていた(とされている)ヘンリー8世はウルジーの忠誠を疑うようになり、1529年に彼の行政上の全ての役職を罷免し、ヨーク大司教の座にとどまることは許したが、既に意のままに使用していたハンプトン・コート宮殿などを没収した。

大法官としての14年間、ウルジーは王の次に権力を発揮できた人物として様々なことをした。ヘンリー8世が外交問題に大きな関心を持つようになり、当然ウルジーは彼の意を汲んで、あるいは積極的に自らの施策を進言してその方面の実務を担当した。同時に王が専ら外に目を向けている状況下で国内問題のほとんどを差配し、行政組織の整理、情報の管理、税制改革、教育、司法などあらゆる分野に関わり良くも悪くも行政官としての能力を発揮した。例えば、枢密院議員の数を削減して、彼に反対の立場の人間を別な職を与え大陸に追いやったり、累進課税のような制度を考案して貧しい人々の負担を減らすと同時に国王の海外戦費を調達したりした。更に公平な裁判を目指す改革をするとともに貧しい人々のために裁判費用を無料にする仕組みを導入した。一方で囲い込み廃止を目指す法案を何度も提出したにも関わらず、それを撤回し、ヘンリー8世のフランスでの戦費調達のための税金を議会で通過するよう妥協することもあった。