今日、図書館で雑誌ミセスを読んでいた。
「ミセス」は今年で創刊35周年なのだそうで、中は35周年にまつわる各界の人々の思い出などが綴られている。
一般読者からの投稿もあり、自分自身が昔からの読者だったという高齢者の方、祖母の代からの読者です、という若い方までさまざまな年代のひとの文章が載せられていた。
おおよそ、手作りがそこここにある家の中で大きくなりました、というようなものだ。
かくいう私も、母が読者だったので子どもの頃から「ミセス」と「暮らしの手帖」は時折開いて見ることもあった。
昔の「ミセス」には、ほとんど巻末にカラー記事で載せられた洋服の作り方があって、文化式の原型さえひとつもっているだけで、全てそれを基本に自由自在に作ることが可能だった。(ちょうど、現在のミセスのスタイルブックみたいな感じ)
子供服もよく載っていて、洋装店をやっていた叔母からはぎれを譲受けた母は、私たち子ども3人の服を作って着せていた。
はぎれから作られる服なので、必ずしも子どもが好むようなものではなく、また、既製品のようなキチンとした形でもなかったりで、私はそんな手作り服が嫌だった。
「ミセス」に載っている様な、シンプルで上品な香りが漂うような子供服を、その本通り忠実に作って欲しかったのだ。
たぶん、子供心にも手作り感いっぱいのものがあんまり好きじゃなかったのかもしれない。
あの時代、家で母親が手作りすることは比較的普通のことでもあったので、自分が特別恵まれて育ったとも思ってはいなかった。
反対に、私たちの食事を作ることすら後回しにして、家中散らかして服作りに没頭する母が嫌いでもあった。
だが、この歳になって振り返ってみると、そんな自分の環境というものが、比較的恵まれたものであったことを知ることがある。
先日、友人がネットの友だちに手作りのお菓子と、手作りの小物を送ったら、
「自分のために手作りなんてしてもらったことがない。」
と、その友だちがとても喜んでくれたのだという。
その友人も、私も、あたりまえのように手作りのもののなかで大きくなったので、そんなあたりまえのことでさえ感激するということに驚き、そして自分たちの育った環境に感謝した。
いま、私が作るものは誰かのため、というわけではなく自分自身のためのものだが、そういう手作りをすること、手作りができることの喜びを私の中に植えつけてくれた母のことを少しは優しい気持ちで眺められるようになった気がする。
「ミセス」は今年で創刊35周年なのだそうで、中は35周年にまつわる各界の人々の思い出などが綴られている。
一般読者からの投稿もあり、自分自身が昔からの読者だったという高齢者の方、祖母の代からの読者です、という若い方までさまざまな年代のひとの文章が載せられていた。
おおよそ、手作りがそこここにある家の中で大きくなりました、というようなものだ。
かくいう私も、母が読者だったので子どもの頃から「ミセス」と「暮らしの手帖」は時折開いて見ることもあった。
昔の「ミセス」には、ほとんど巻末にカラー記事で載せられた洋服の作り方があって、文化式の原型さえひとつもっているだけで、全てそれを基本に自由自在に作ることが可能だった。(ちょうど、現在のミセスのスタイルブックみたいな感じ)
子供服もよく載っていて、洋装店をやっていた叔母からはぎれを譲受けた母は、私たち子ども3人の服を作って着せていた。
はぎれから作られる服なので、必ずしも子どもが好むようなものではなく、また、既製品のようなキチンとした形でもなかったりで、私はそんな手作り服が嫌だった。
「ミセス」に載っている様な、シンプルで上品な香りが漂うような子供服を、その本通り忠実に作って欲しかったのだ。
たぶん、子供心にも手作り感いっぱいのものがあんまり好きじゃなかったのかもしれない。
あの時代、家で母親が手作りすることは比較的普通のことでもあったので、自分が特別恵まれて育ったとも思ってはいなかった。
反対に、私たちの食事を作ることすら後回しにして、家中散らかして服作りに没頭する母が嫌いでもあった。
だが、この歳になって振り返ってみると、そんな自分の環境というものが、比較的恵まれたものであったことを知ることがある。
先日、友人がネットの友だちに手作りのお菓子と、手作りの小物を送ったら、
「自分のために手作りなんてしてもらったことがない。」
と、その友だちがとても喜んでくれたのだという。
その友人も、私も、あたりまえのように手作りのもののなかで大きくなったので、そんなあたりまえのことでさえ感激するということに驚き、そして自分たちの育った環境に感謝した。
いま、私が作るものは誰かのため、というわけではなく自分自身のためのものだが、そういう手作りをすること、手作りができることの喜びを私の中に植えつけてくれた母のことを少しは優しい気持ちで眺められるようになった気がする。
私も自分のために手づくりして貰った記憶がなく育ちました。
教えてくれる人もなかったので独学でやってしまったので間違ってるのかもしれないけど。
でも頂く立場の時は私の事を考えながら丁寧にわざわざ作って下さった心が一緒に届くのでその方の気持ちは勿論、時間も一緒に届けられたようで温かくなります。
なのに、私が差上げる側になると「やっぱりちゃんと買った方が良かったのかも・・・」と思う事もあり 矛盾してるな~私(笑)
私も、プレゼントするのは大好きで、つい、何か、って思っちゃうのだけど、送ってしまってから後悔することもしばしばで。
その人のため、って思いを込めることが、人によっては怨念がこもっているように受け取る人もいたりするしな~、とかって思い始めると、あり地獄に落ち込みますよね。
でも、その友人が送った相手や、かお。さんのように思ってもらえたら、送った人は本当に嬉しいと思う。
いまのハンドメイドブームは、ひょっとしたらそういうぬくもりに飢えていることの裏返しなのかもしれませんね。
私もCITROENさんと似た環境でしたので、既製品への憧れは強かったような気がします。
かお。さんのように人から頂くと嬉しいのに、自分がするときには迷いが出てしまいます。
時代が似ているからでしょうか。
人間、ないものねだりというのか、自分が手にしていないものがよく見えたりするんですよね。ことに子どもの間は。
私も自信を持って、「はい、どうぞ!」と差し上げられるハンドメイドができればなぁ、って思います。
でも、アプリコットさんのケーキとかパンとか、とっても美味しそうですが???
いつでもカモーン!ですわよ(笑)