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ときの備忘録~黎明編

ブログ創設時からの砂時計

夫婦の絆

2004-09-20 20:03:01 | 砂時計
たいして孝行もできないままに帰ってきた。
何が親孝行なのかはわからないが、とりあえず息子である夫をそばにおいて、ゆっくりと安心して夜を過ごせるということがひとつの親孝行ではないのかと過ごした三連休。

姑は本当に疲れている。
健全な魂は健全な肉体に宿る、という言葉があるが疲れている姑にはやせた魂が宿っているようだ。
色々なひとからの善意を善意とは受け止められず、自分を苦しめるものとしか思えなくなって来ている。
長くは続かないであろうが、いつ終わるともしれない舅の看病に疲れ果て、あたれるものにあたってみる。
最初はあんなにほめちぎっていた担当外科医にも
「あのセンセかて、白衣を脱いだら全然カッコええ訳でもなんでもないおっさんやのに、えらそうにしてから!」とまったく筋違いな罵詈雑言を吐いてみたり、お見舞いに来てくれる親類に
「場合が場合やのに、なんでそんなことしにくるんやろか。そんなんこられたら、うち(私)がまた色々気をつかわなあかんのに。」とか、元気な頃には絶対言わなかったような言葉を並べる。
私たち家族にも、帰る頃になると
「また、今晩からひとりやねんなぁ。さびしいなぁ。こわいなぁ。」
と、切なくなるようなことを言う。
自分が姑くらいの歳になり、同じような立場に置かれたら、きっと同じことを言うだろう、と思うと尚更のことつらくなる。

そんな姑なのだが、今晩、舅が心配して病院から電話を入れてきたらしい。
「お父さんが、うちのこと心配して電話してきてくれてん。“わしが外泊で帰ったから疲れたやろ。すまんなぁ。今晩からまた一人やけど、気ぃつけてゆっくり寝ぇや。”て言うてくれてん。」
と嬉しそうに電話してきた。
その夫からの感謝と労わりのひとことで、姑のパワーは蘇る。
ああ、夫婦ってそんなものなんだなぁ、と思う。
息子がどのように優しい言葉をかけようが、嫁が手料理で労わろうが、そんなことは彼女のなかではほんのわずかなビタミン剤でしかないのだ。
なによりも、夫の一言がどんなカンフル剤よりもよく効く注射なのだ。

私たち夫婦はどうなんだろうか。
あと30年たって同じような夫婦になれるのかな・・・。

仁義なき戦い

2004-09-16 20:01:11 | 砂時計
いやなに別に健さんや文さんのハナシではないのだが。
私の住む街は中国に勝るとも劣らないほどの自転車王国である。
朝夕の通勤ラッシュ時には、ここは天安門広場前かと思わせるほどのチャリンコ族が銀輪を光らせる。
私の出勤時間は、この辺りではちょっと遅めなのでそれほどでもないのだが、帰宅時はやはりこのラッシュにもまれる。
自転車はバイクと違ってどこでも気ままに走ることができる乗り物、というイメージが強いが本当はそうでもないらしい。
原則クルマと同じ左側通行であるし、歩道を走ってはいけないし、信号も当たり前だが止まらねばならない。飲酒運転も本来はダメ(笑)。
しかしながら、この地では老若男女が傍若無人に自転車を乗りまわしているので、自分もついついそれに乗っかってしまう。
たとえば、夏はシミをこれ以上増やさぬために、なるべく日陰を走ろうとする。そうなると私の通勤路では逆走しなければならなくなる。自分の意識のなかで、自分の走っているほうは違法なのだからなるべく正規の走者の邪魔になってはいけないと遠慮がちに走ったり、車道に大きくはみだして対向したりとそれなりに気を使っているつもりだ。
しかし、そんなことはお構い無しに真っ向から戦いを挑んでくる者もいるのだ。
それは私が正規のルート(左側)を走っている時に、である。
絶対道を一歩も譲らんぞ!とばかりに前だけを見据えて飛ばしてくる自転車。だいたいは女子高生に多いのが特徴だ。普段、車の運転では赤信号でも突っ込んでくることの多い主婦は、自転車界においては意外に礼儀正しい。これは、おそらくドライバーと自転車愛用者がクロスしない為であろうと推察できる。
そんな場合、私は怒鳴りたくなってしまうのだ。
「もっと遠慮がちに走ったらどうなのよ!」と。自分が普段反対を走行する時の行動が正しいなどと言うつもりはさらさらないが、それなりに仁義ってものがあるだろうが!と思ってしまうのだ。

今日もそんな無法者の自転車にぶつかりそうになりながら、家まで無傷でたどり着いた。
来週からも負けないぞ。

土産物にうまいものなし?

2004-09-15 19:59:01 | 砂時計
出張土産に旅行土産、と本日は土産物の展覧会だった。
東京土産は「東京ばな奈」に草加せんべい、北海道土産は「白い恋人」、浜松土産は「夜のお菓子うなぎパイ」、そして京都みやげの「おたべ」。
この中で、私を一番がっかりさせたお菓子は「東京ばな奈」。

巷で話題の東京土産、きけば大層美味しいらしい。
美味しいと聞けば、一度は食べてみたい、と思ってしまう私である。
いつだったか忘れたが恋焦がれて初めて口にしたその日。
「ん?これ??」というのが第一の感想。
つまり、私の口には感動は呼ばなかった、というのが正直なところ。
期待が大きすぎたのかもしれない。
和菓子でも洋菓子でもない中途半端な味と食感。お土産というにはうやうやしく包装され、それなりのお値段。これが、花のお江戸を代表する銘菓なのか。
人の好みなので、私がとやかくいう筋合いのものでもないだろうが、私にとっての東京ばな奈はブーなお土産。
それなら思わせぶりなコピーを冠した「夜のお菓子」に軍配をあげるか、な?

友だちという存在の大きさ

2004-09-14 19:57:23 | 砂時計
私にとっての友だちという存在は、今更いうまでもないが本当に大きな存在だ。
普通なら、親にまず相談するようなことでもまず友だちに相談していた。
自分の親とは馬が合わない、ということもあるし、生き方、考え方が私には肯定しがたいものであるからだ。

そんな私なので、友だちにはかなりな部分で精神的に依存してきた。
具体的に何ができるというのではないが、話すことで随分と心が落ち着き、くじけそうになる自分を奮い立たせることもできた。
それだけに友だちの大きな悩みを聞いた時、自分のことのように頭がまっしろになってしまった。
どうすればいいのか、私に何ができるのか、考えても考えても答えなど導きだせるわけではない。
ただ、彼女の話したいことを黙って聞くこと、そして負担にならない程度に励まし続けていくことだけが
私にできることなのかもしれない。
あれだけ世話になってきた友だちに、自分がしてあげられることの小ささが本当に情けない。
彼女が悩む時間を、私も分かち合えたなら、と思うのは思いあがりなのかもしれないが。

子どもをなくすということは

2004-09-14 19:55:55 | 砂時計
このところ国内外で、子どもが死に至らしめられる事件が相次いで起きている。
自分に子どもがいることもあるかもしれないが、本当に胸がしめつけられるような出来事だ。

「死」という問題は軽軽しく口にできるような問題ではないのだが、やはり色々と考えずにはいられない。
今が一番充実していて、生きていることが楽しくて楽しくて仕方がない、という人の「生」への執着はなみなみならぬものがあるだろう。
また反対に、生きていること自体が、苦しい状況下にあるひとでも「生」への執着はあるだろう。

だが、小さな幼い子どもたちには、頭で考える「生」というものはまだ意識下ないように思う。
それは、身体全体がいまから大きく、力強く生きていこうとするエネルギーに溢れているからではないか。
それは、子どもという存在が「生きている」ことが当たり前だからじゃないか。
おそらく本能で備わっている死への恐怖、その手前に「生」という意識が言葉としてではなく存在しているのかもしれない。
そんな、まだあらゆる意味での未発達な、可能性を大きく内に秘めた者たちを、何ゆえに死への恐怖を味あわせるのか。
虐待、戦争、テロ行為など、大人としての理性で止められるものをどうして止めようとしないのか。
あとを絶たない子どもたちの死、それは大人たちが身体をはってでも止めなければならないことなのではないのか。

先の9.11ニューヨークでの追悼集会でのブルームバーグニューヨーク市長のことば。
「親に先立たれた子どもは孤児、夫に先立たれた妻は未亡人と呼ばれる。
だが、子どもに先立たれた親につけられる呼び名はない。それほどに子どもの死は深く哀しいのだ。」




包丁とぎ

2004-09-12 19:54:28 | 砂時計
トマトのスライス、ねぎの小口切り、たまねぎのみじん切りをすると気になる包丁の切れ味。
テレビの料理番組で、プロの料理人が下ごしらえをしていて、いつも思うのは包丁の切れ味のよさ。
小気味いいほど、すぱっと切れて、さっさと材料が形を変えてゆく。
あれこそがプロのプロたる所以じゃないかと思う。
そして、我家の包丁。
結婚してすぐは、友だちが結婚祝にくれたヘンケルスのステンレス万能包丁ですべてを切っていた。
そのうち、まずパンきりナイフを買い、刺身包丁を買い、出刃包丁が包丁たてに並んだ。
すると今度はステンレスの包丁の切れ味が気になりだした。
ステンレスの包丁は、家では砥ぐことができないという。
それでは、砥ぎに出している間の調理に困る、というのでモリブデン鋼の包丁を買った。
これだと自分で砥ぐこともできる。
ところが、包丁の砥ぎ、という作業が困難を極める。下手に砥ぐとかえって切れ味が悪くなる。
物の本によれば、角度は十円玉をはさんだくらいの角度に傾けて、一方向にしゅっしゅっと砥ぐのがいいらしい。

以前女優の沢村貞子さんだったかが、自著の中で
「包丁は、毎日の食事の後片付けが終わったら、必ず砥ぐことを日課としている。」と書かれているのを読み、なんだかかっこいいな、と思ったおぼえがある。
が、一方で向田邦子さんの「大根の月」という作品には、包丁砥ぎを趣味のようにしていた主婦が、自分の息子の指を誤って落としてしまう、という背筋が寒くなるような話があった。

包丁の切れ味、というくらいだから食物の「味」自体もかわってくるらしい。
押し切りにした、トマトの切り口や、舌触りの悪さにイラつきそうになった今晩。
そろそろ包丁を砥がねばならない。
上手く包丁が砥げる様になれば、私も筋金入りの主婦ってことなのかもね。

PMS

2004-09-11 19:51:53 | 砂時計
たぶん、このイライラ感はPMSのなせる業なのだろう。

掃除していて、夫が実家から持ち帰ったギターと、友人からかりたエレキギターが目に留まる。
それをどけると、綿ぼこリ。
どけようにも、安定が悪いから何かに持たせかけないと倒れてくる。
それに、見かけの割りに非常に重い。
(んもー!!たいして弾きもしないのになんでこんな邪魔なものを持ち込むかな?)
と、心のなかでぼやく。
同じ部屋には、私の洋裁グッズやら、はぎれの山が八百屋さんしている。
それには目をつぶり、人のものにはイラつく私。
ギターの奥に潜んでいた綿ぼこりも、私が洋裁をするせいだというに。

そんな自分にも腹が立つ。
あー、やだやだ。
閉経が近いからかもしれないが、周期が短くなってきている。
なのに、若いころよりPMSはきつくなっているような気がする。
あ~あ、もっと他のことに目をむけようっと。
自分のことを棚にあげて、ひとをあげつらうのはやめておかないと。

お気楽夕飯

2004-08-28 12:07:27 | 砂時計
夫がいない週末。
彼がいないと、何時までも好きなことに打ち込んでいられるのでお気楽だ。
けっして口うるさいタイプのダンナではないけれど、それでも一応は気を使う(こんな私でも)。
そもそも、彼の実家では夕飯にご飯物の単品メニューがでてくることはなかったそうだ。
舅が虚弱体質だったこともあり、体力をつけるべく姑は食卓いっぱいにおかずを用意していたそうだ。
ご飯は、あくまで添え物で、お茶漬け程度の量しか口にせずに育ったらしい。
しかし、大学で下宿生活を経験し、一般家庭が皆自分の家のように品数の多い食事ばかりだとは限らないことを学んだ夫は、結婚した私にも姑のような品数を要求したりはしない。
が、晩酌をする彼には、ご飯物メニューや、品数の少ない夕飯はNGらしい。
子どもと二人だけだと、適当にちゃちゃっと作って、さっさと片付けて、自分の時間にはいって行ける。
この週末は、先の企画のプレゼントを用意しないといけないし。

そういうわけで、本日のメニュー「ゆずコショウのペペロンチーノ」
グッチ裕三氏のレシピから。
彼のレシピは、お酒に合うメニューが多くて、簡単な割りに美味しい。
ゆずコショウといえば、冬の鍋物にしか出番がなかったが、このメニューのおかげで通年香辛料に格上げ。
冷蔵庫で眠らせているお宅があれば、ぜひお試しあれ。

言葉は難しい

2004-08-27 12:06:01 | 砂時計
「結構です」という言葉がある。
「いらない」という意味も、「それでかまわない」という意味もある。
実は、その言葉の受け止め方で、仕事上でおつきあいのある人と行き違いがあった。

わが社の業務委託をお願いしているその人が、家庭の事情で仕事を辞めることになった。
急なことで、後任者への引継ぎもできていない状態だったので、とりあえず後任者が決まるまでは仕事をお願いすることになっていた。
ところが思いのほか、すぐに次の人が決まったので今週のはじめに
「次の方が決まりましたので、今週のお仕事をしていただかなくても結構です。」という文書を送った。
その文の前後では、長い間の労をねぎらった言葉と、寸志とはいえないほどの物を届けている旨を書いてあった。
しかし、本人は「結構です」という意味を「もういらない。」と言われたように受け止めて別の人に
「こんな風に言われた」と泣きついたそうだ。
泣きつかれた人から電話があり、初めて事の次第を知った。
けっしてそんなつもりで書いたわけではなかったのだが、他にちょうどよい表現が見当たらなくて、不用意に使ってしまい誤解を招いてしまった。

会社の同僚も、先日こんなことがあった。
今年結婚した長男夫婦の新居で、お盆休みに次男さんのお誕生祝いをすることになったそうだ。
お嫁さんからメールで
「15センチのバースデーケーキを頼んだけど、大人4人で食べるのに小さいかしら?」と尋ねられたので
「そうね、ちょっと質素かもしれないね。もう頼んでしまっているなら、まわりに果物を飾って華やかに見せればいいんじゃない?」と返したそうだ。
すると、お嫁さんは「質素」という言葉に過剰に反応して、ダンナである息子さんに泣いて訴えたそうだ。
「どうせ、私がすることは質素でしょうよ!質素で悪かったわね!!」と。
お義母さんである同僚からすれば、その前にお嫁さんのお誕生日を家族でお祝いした時に、今回の主役である次男坊が21センチのケーキを用意していたということが頭にあったので、何気なくそれとくらべると小さいなと思って「質素」という言葉をつかったそうだ。
しかし、口頭で言うのと違い、メールにすると言葉がいつまでも残るのでお嫁さんにすればきつく響いて、何度も何度も目に入って傷ついたそうだ。
その一件以来、同僚はお嫁さんにも、息子さんにも気を使って、何も喋れなくなってしまったそうだ。

そういえば、先日も某bbsで「いただく」という言葉をお客さんが使うのはおかしいのじゃないか?ということで波だっていた。
お金を出して買っているのに、へりくだった言い方は変だ、というわけだ。
厳密に言えば、それが正しいことなのかもしれないが、そんなに目くじらを立てるほどのことでもないのじゃないか、と私なんかはお気楽に思ってしまったのだけど、まぁ、今回のことを持ってしても、やはり言葉は難しい。
このブログを書きはじめた頃に書いた「言霊」の存在をあらためて思い知ったできごとであった。

オリンピックに思う

2004-08-26 12:04:25 | 砂時計
非国民と指差されそうだが、オリンピックにはあまり興味がない。
自分なりにその原因を分析してみると、自分が体育会系ではなかったことに起因していると思われる。

子どもの頃は、かなりのお転婆で、男の子に混じって遊ぶことが多かった。
草野球こそしなかったが、基地づくり、おにごっこ、戦争ごっこ、探検などなど。
高学年になってからも、お転婆仲間とあちこちを探検したり、野や山、川をかけめぐっていた。
ちょうどそのころ、少女漫画でバレーボールが流行りはじめた。
月刊りぼんの「ビバ!バレーボール」や、週刊マーガレットの「アタック№1」。
そして週刊少女フレンドの「サインはV」である。
この、バレーボールはかなりハマって、自分たちでネットを麻紐で編んでつくったり、ひざあてを作って回転レシーブの練習をしてみたり・・・。
だが、いざ部活年齢に達すると、根性が無い上、理不尽な上下関係を強要されるのが嫌で部活はせずに、ひたすら帰宅部だった私である。
「エースを狙え!」や、「スマッシュを決めろ」を読むとテニスにも手を染めた。

そう、スポーツはけっして嫌いじゃないのだけれど、スポーツ観戦に興味がないのだ。
自分が身体を動かして楽しめるものがスポーツ、と、私の中で定義づけているようだ。
一秒でも速く、わずかなミスもない美しく完璧な演技、それぞれに求めるその姿は素晴らしい。
見る者をも感動の波で包み込む。それは理解できるのだけど・・・。

食欲の秋、読書の秋、もの想う秋、スポーツの秋、と色々な秋があるけれど、私の秋はやっぱり食欲の秋、かな。