たいして孝行もできないままに帰ってきた。
何が親孝行なのかはわからないが、とりあえず息子である夫をそばにおいて、ゆっくりと安心して夜を過ごせるということがひとつの親孝行ではないのかと過ごした三連休。
姑は本当に疲れている。
健全な魂は健全な肉体に宿る、という言葉があるが疲れている姑にはやせた魂が宿っているようだ。
色々なひとからの善意を善意とは受け止められず、自分を苦しめるものとしか思えなくなって来ている。
長くは続かないであろうが、いつ終わるともしれない舅の看病に疲れ果て、あたれるものにあたってみる。
最初はあんなにほめちぎっていた担当外科医にも
「あのセンセかて、白衣を脱いだら全然カッコええ訳でもなんでもないおっさんやのに、えらそうにしてから!」とまったく筋違いな罵詈雑言を吐いてみたり、お見舞いに来てくれる親類に
「場合が場合やのに、なんでそんなことしにくるんやろか。そんなんこられたら、うち(私)がまた色々気をつかわなあかんのに。」とか、元気な頃には絶対言わなかったような言葉を並べる。
私たち家族にも、帰る頃になると
「また、今晩からひとりやねんなぁ。さびしいなぁ。こわいなぁ。」
と、切なくなるようなことを言う。
自分が姑くらいの歳になり、同じような立場に置かれたら、きっと同じことを言うだろう、と思うと尚更のことつらくなる。
そんな姑なのだが、今晩、舅が心配して病院から電話を入れてきたらしい。
「お父さんが、うちのこと心配して電話してきてくれてん。“わしが外泊で帰ったから疲れたやろ。すまんなぁ。今晩からまた一人やけど、気ぃつけてゆっくり寝ぇや。”て言うてくれてん。」
と嬉しそうに電話してきた。
その夫からの感謝と労わりのひとことで、姑のパワーは蘇る。
ああ、夫婦ってそんなものなんだなぁ、と思う。
息子がどのように優しい言葉をかけようが、嫁が手料理で労わろうが、そんなことは彼女のなかではほんのわずかなビタミン剤でしかないのだ。
なによりも、夫の一言がどんなカンフル剤よりもよく効く注射なのだ。
私たち夫婦はどうなんだろうか。
あと30年たって同じような夫婦になれるのかな・・・。
何が親孝行なのかはわからないが、とりあえず息子である夫をそばにおいて、ゆっくりと安心して夜を過ごせるということがひとつの親孝行ではないのかと過ごした三連休。
姑は本当に疲れている。
健全な魂は健全な肉体に宿る、という言葉があるが疲れている姑にはやせた魂が宿っているようだ。
色々なひとからの善意を善意とは受け止められず、自分を苦しめるものとしか思えなくなって来ている。
長くは続かないであろうが、いつ終わるともしれない舅の看病に疲れ果て、あたれるものにあたってみる。
最初はあんなにほめちぎっていた担当外科医にも
「あのセンセかて、白衣を脱いだら全然カッコええ訳でもなんでもないおっさんやのに、えらそうにしてから!」とまったく筋違いな罵詈雑言を吐いてみたり、お見舞いに来てくれる親類に
「場合が場合やのに、なんでそんなことしにくるんやろか。そんなんこられたら、うち(私)がまた色々気をつかわなあかんのに。」とか、元気な頃には絶対言わなかったような言葉を並べる。
私たち家族にも、帰る頃になると
「また、今晩からひとりやねんなぁ。さびしいなぁ。こわいなぁ。」
と、切なくなるようなことを言う。
自分が姑くらいの歳になり、同じような立場に置かれたら、きっと同じことを言うだろう、と思うと尚更のことつらくなる。
そんな姑なのだが、今晩、舅が心配して病院から電話を入れてきたらしい。
「お父さんが、うちのこと心配して電話してきてくれてん。“わしが外泊で帰ったから疲れたやろ。すまんなぁ。今晩からまた一人やけど、気ぃつけてゆっくり寝ぇや。”て言うてくれてん。」
と嬉しそうに電話してきた。
その夫からの感謝と労わりのひとことで、姑のパワーは蘇る。
ああ、夫婦ってそんなものなんだなぁ、と思う。
息子がどのように優しい言葉をかけようが、嫁が手料理で労わろうが、そんなことは彼女のなかではほんのわずかなビタミン剤でしかないのだ。
なによりも、夫の一言がどんなカンフル剤よりもよく効く注射なのだ。
私たち夫婦はどうなんだろうか。
あと30年たって同じような夫婦になれるのかな・・・。