戸田智弘のブログ

ライター&キャリアカウンセラー

『強欲資本主義 ウォール街の自爆』(神谷秀樹、文春新書)

2008年12月29日 | レビュー

強欲資本主義 ウォール街の自爆 (文春新書) 強欲資本主義 ウォール街の自爆 (文春新書)
価格:¥ 746(税込)
発売日:2008-10-17

 この本、かなり売れているようです。

 
 ウォール街にいると、まことに人間の強欲さが手に負えないところまで来ていると痛感する。
 

 と振り出し、
 
 著者の住友銀行時代の元上司・森川俊雄氏の言葉
 

 金融機関は、基本(脇役であること)をうしなってはいけない

と言う言葉を引き
 

 主役である実業を営む方たちの事業構築を助けるのが金融本来の仕事のあり方であり、それこそが見分相応なのである
 

と続ける。
 
 いくつか気になったところを引用する。
 

「成長」とはいった何を目標とするものなどだろうか。
「何のための『成長』なのか」、「何をもって『成長』と考えるのか」
といった基本的な議論が十分になされないままに、数値目標を追いかけた結果は、より強欲な者に富を集中させ、お金以外の価値あるものがないがしろにされ、社会全体としては格差が拡大し、決して幸福とは言えない状況を生み出しているのではないだろうか。

 ある文明史の研究家によれば、上位1%の人に富の30%が集中するとき、だいたい大きな崩壊が起こる臨界点となるようである。
 
  お金よりも大きな問題は「心の問題」ではないかと思う。私がもっとも心痛めているのは、バブルの崩壊からその後の経済の立ち直りにおいて、社会の中で人と人、人と会社との間の「信用の輪」が切れてしまったことである。
  
 日本に課された課題は、現実を直視し、アメリカの子分であることも止め(子分であるということは、従属するとともに面倒を見てもらうことでもある)、身の丈にあった新しい生き方を見つけることではないだろうか。「ゼロ成長時代の生き方」、「ゼロ成長時代に目標とする新たな指標」、「何を以て成功とするのか、その成功の定義」を自ら考え見出さなければいけない時代にいま我々はいるのである。
 
 

また、著者の友人たちの言葉
 

「もう、要らないものを消費者に買わせたり、買わせたものはできるだけ端役陳腐化させ、新製品に買い換えさせるというビジネスモデルは崩壊したのではないかと思う。消費者は明らかに、もっと精神的な満足を求め始めている」(大手エレクトロニクス・メーカー社長)

「金融資本が産業資本を牛耳り、これを振り回すこと自体がそもそもおかしなことだ。金融とは産業を支援する役回りだというもとの姿に戻さなければならない」(不動産会社B社社長)

を引用する。

そして最後に「資本主義そのものが、これまでとは異なる価値観で再建される必要がある」。そのとき「日本から『万民のためになる資本主義』というものが提案されてくる可能性は十分にあるのではないか」。しかし、現状(とくに政治状況)を見る限り「アメリカ以上に将来のビジョンが見えてこない。未だ『過去のアメリカ』を追いかけているようにさえ見える」というように結んでいる。

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東谷暁「グローバリズムの呪縛から目を覚ませ」(中央公論 2009年1月号)

2008年12月28日 | レビュー

 著者の東谷は、素朴な金融至上主義を批判する。最初のページで
 

 小泉政権で経済閣僚を歴任した人物は、ほんの半年ほど前まで「日本の金融立国」を大々的に唱えていた。また、ある著名な経済学者は、モノづくりは捨てて金融工学による利益率の高い金融業にシフトすることを主張してきた。いずれの論者も、世界金融に破綻をもたらした、投資銀行を中心とするアメリカ型金融を賞賛し、日本もあのばくちのような金融による利益追求を至上のものとせよ、と論じていたのである。

 と竹中平蔵氏(?)と野口悠紀雄氏(?)をちくりと刺す。そして『経済はナショナリズムで動く』(中野剛志著、PHP研究所)から
 

グローバリゼーションは、世界経済の自然発生的な流れなどではなく、アメリカという強大な〝国家の政治意志の産物〟なのだ
 
 

と引用する。
 
日本はどうすればいいのか。
 

「金融かモノづくりか」ではなくて、多様な産業構造を。「海外進出か国内維持か」ではなくて、多様な産業展開を。「ハイテクかローテクか」ではなくて、多様なイノベーションを。

・・・外科医が多様性を増加させていったとき、その多様性の一部になるのではなく、内部に多様性を生み出して対応するというのが、これまでの歴史で、日本が成功した危機脱出法だったことは重要だろう。

 というように、日本は多様性に回帰するべきという処方箋を示している。
 
 この記事を読んで、『経済はナショナリズムで動く』(中野剛志著、PHP研究所)と、東谷さんの書いた新書を二冊購入しました。

世界と日本経済30のデタラメ (幻冬舎新書) 世界と日本経済30のデタラメ (幻冬舎新書)
価格:¥ 798(税込)
発売日:2008-11
世界金融経済の「支配者」―その七つの謎 (祥伝社新書) 世界金融経済の「支配者」―その七つの謎 (祥伝社新書)
価格:¥ 788(税込)
発売日:2007-04
経済はナショナリズムで動く 経済はナショナリズムで動く
価格:¥ 1,365(税込)
発売日:2008-10-25

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『続・働く理由』の構造はこうなっている

2008年12月27日 | 日記

 本書を見ると、雑然と12の章が並んでいるようにも見える。まあそう見えても仕方がないんだけど、いちおう読者が読みやすいようにグループ分けした上で並べているつもりだ。

 『働く理由』やこの『続・働く理由』でもたびたび出てくるのが「仕事とは自分の能力や興味、価値観を表現するものである」(ドナルド・E・スーパ-)という名言である。1章から4章はこの名言に対応する形で構造化してある。
 
1 可能性を見つける → 自分の能力
2 「やりたいこと」と「できること」 → 自分の興味
3 自分の価値観を知る → 自分の価値観
4 仕事で自分を表現する → 表現する

というように対応している。

5章と6章は、働くことを考える上で必須の言葉を定義したり、その言葉の概念を整理している。

5 幸福 vs 成功
6 仕事 vs 労働

成功を目指して働くのか、幸福を目指して働くのかを考えてみたり、労働と仕事の違いについて整理したりしている。

7章と8章は1章から4章の固まりを受ける形になっている。「仕事とは自分の能力や興味、価値観を表現するものである」と言われても「そんなこと誰にも簡単にできるはずないんじゃないか?」という反論が出るだろう。その反論に対して「それをやりきるには5つの力を身に付けなければいけない」ということをここでは言いたい。

7 迷う力、決める力
8 挑戦する力、持続する力、適応する力

という「5つのちから」である。

9章と10章は自分探しという言葉にフォーカスして論を進めている。
「自分のやりたいことが分からない」という言葉があるが、『働く理由』では「やりたいこと」に焦点を当てて論を深めていったのに対して、『続・働く理由』では「自分」に焦点をあてて論を深めていった。「自分とは何か?」「そもそも自分なんてものはあるのか」という哲学的な話を書いている。『続・働く理由』では表面的な議論ではなく、そもそも論というか根本的な議論を展開している。

9 よい自分探し VS 悪い自分探し
10 自分探しと〝世界探し〟

自分探しは否定的にも肯定的にも論じられる。このあたりも含めて、自分探しという言葉についてはがほぼ整理できたと思う。

11章「豊かさのパラドックス」は、起承転結でいえば「転」にあたる。
どういう会社に入ってどういう仕事をするのかを考える際、今の社会をどう捉えるかを考えることは非常に大事である。なぜならばそれは大前提だからである。今の社会を肯定的に捉えるか、今の社会を批判的に捉えるかで生き方は微妙に違ってくる。私の立場は今の社会状況を批判的に捉えないといけないという立場である。そのポジションを取らない限り、にっちもさっちもいかない状況に追い込まれているという現状認識を持っている。

12章と13章は人生論(ジンセイ論)である。働き方を損得のレベルで考えれば人生論まで突き進むことはない。しかし、働き方を良い悪いのレベルで考え出すとついついうっかりと人生論まで入りこんでしまう。

12 人生の意味
13 生きるとは自分の物語をつくること

以上

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『建築家 安藤忠雄』

2008年12月26日 | 名言あれこれ

建築家 安藤忠雄 建築家 安藤忠雄
価格:¥ 1,995(税込)
発売日:2008-10

400ページ弱で1995円は安い! 読み応えありです。

「仮に私のキャリアの中に何かを見つけるとしても、それはすぐれた芸術的資質といったものではない。あるとすれば、それは、厳しい現実に直面しても、決してあきらめずに、強かに生き抜こうとする、生来のしぶとさなのだと思う」(p381)という文章が心に残った。

以下、お気に入りの言葉をメモしておく。

 モノづくりは根気のいる仕事であるが、モノに生命を与えるという尊い仕事であり、モノに触れて生きているという充実感がある。
 
 都市の豊かさとは、そこに流れた人間の歴史の豊かさであり、その時間を刻む空間の豊かさだ。人間が集まって生きるその場所が、商品としての消費されるものであってはならない。
 
 戦後日本の経済一本槍の社会が、子供から、空き地と放課後を奪った。子供を〝過保護〟の世界に閉じ込める過程と社会のシステムが、子供の自立を阻んでいる。
 
 人間が生きて行くには、知識と知恵がいる。既にある問題と答えを結びつける、知識を身に付ける学校の授業と、世界を自分の目で見て、問題そのものを探していける知恵を育む放課後の自由な時間--この両方があってこその教育だろう。
 
 とにかく最初から思うようにいかないことばかり、何か仕掛けても、大抵は失敗に終わった。
 それでも残りのわずかな可能性にかけて、ひたすら影の中を歩き、一つ掴まえたら、またその次を目指して歩き出し--そうして、小さな希望の光をつないで、必死に生きてきた人生だった。いつも逆境の中にいて、それをいかに乗り越えていくか、というところに活路を見出してきた。
 
 何を人生の幸福と考えるか、考えは人それぞれでいいだろう。
 私は、人間にとって本当の幸せは、光の下にいることではないと思う。その光を遠くに見据えて、それに向かって懸命に走っている、無我夢中の時間の中にこそ、人生の充実があると思う。

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『続・働く理由』のポップを考えてみた

2008年12月25日 | 日記

『続・働く理由』の発売から5日が経過した。

 この本のポップ(店頭で本の脇に添えられるPRカードのこと)を書くとしたら--ということでふたつほど考えてみました。
 
●短め

こんな時代に『働く理由』でもないだろ?
いやいやそうじゃないんです。
こんな時代だからこそ『働く理由』なんです!

●長め

13万部突破のベストセラー
『働く理由 99の名言に学ぶシゴト論。』の続編です

こんな時代に『働く理由』でもないだろ?
いやいやそうじゃないんです。
こんな時代だからこそ『働く理由』なんです!

人生の先輩たちに《もっと》訊いてみよう!

↑ 転載自由です

師匠? 他に良いのを考えてください。

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『続・働く理由』の「はじめに」を掲載

2008年12月24日 | 日記

 2008年12月20日--、ついに『続・働く理由』が発売された。「はじめに」を紹介する。
 
+++++++++++++++++++++++++

はじめに

「何のために働くのか?」--こう聞かれたとき、「食べるために働く」あるいは「欲しい物を買うために働く」と何の迷いもなく言えた時代があった。
 しかし、今の日本において、これらふたつの答えは十分な説得力を持たない。というのも、よほどのことがないかぎり、食事や服や住まいに困るほど貧窮することはないし、欲しい物だって、自分の生活レベルにあったものを手に入れることで、多くの人は、ほどほどの満足を得ているはずだ。そこで私たちは再び問われる--「じゃあ私たちは何のために働くのか?」と。

 ざっくり言えば、[働く理由]=[お金]+[やりがい]と表現できる。[お金]とは食べるためと言い換えてもいい。お金を稼いで必要な衣食住を確保するという意味である。[やりがい]とは[お金]以外の働く理由である。ここでは取りあえず「働いていることに意義や喜びを見出して感じる、心の張りあい」というぐらいにしておく。
[お金]と[やりがい]のどちらに重点が置かれるかは時代状況によって違ってくる。貧しい時代、人々の関心は圧倒的に[お金]にあった。とにもかくにも食べていくだけで精一杯、[やりがい]なんてものは二の次だった。貧しい社会から豊かな社会に移行するにつれて、[お金]の〝地位〟は下がり、相対的に[やりがい]の〝地位〟は上がった。

 ここで問題なのは、[お金]に比べて[やりがい]という概念が分かりにくいということだ。分かりにくいが故に[働く理由]の一要素としては存在感がどうしても薄い。だけど、存在感が薄いからといって重要度が小さいわけではない。その重要度はものすごく大きい。なぜならば、人は生きるために食べるのであって、食べるために生きているわけではないからだ。
[お金]の存在感が薄れてしまった今となっては、[やりがい]にもっとがんばってもらわないといけない。そうでないと[働く理由]が萎んでしまう。これはまずい。世の中を根底で支えているのは人々の仕事である。
 人は直感的に知っている。自分が自分であるためには働く必要があることを。ヒト(生物)ではなく人間であるためには、働く必要があるということを。だから、ほとんどの人は働くことを欲している。そして、働きたいと欲する自分の心の中のマグマ、すなわちお金以外の[働く理由]をはっきりつかみたいと思っている。だけどそれをつかむのは簡単ではない。

 これは個人に限った話ではない。会社も[働く理由]が分からなくなっている。会社の[働く理由]とは会社の存在理由である。
 数年前「お金儲けをすることが悪いんですか」という言葉が話題になった。たしかにお金を儲けることは、それが手段である限りにおいては悪いことではない。しかし、動機も目的もお金儲けであるのはよいこととはいえない。
 本来、お金を稼ぐことや物資的な豊かさを求めること手段的な価値にすぎず、他の目的価値に奉仕する立場にあるものだ。よって、企業でさえ、儲けることは最高の価値にはなりえない。もしもこれが最高の価値になってしまえば、お金を儲けるためには何をやってもいいことになる。そして、動機も目的も事業そのものも何かもかもがお金儲けであるところの「お金儲けをするためにお金儲けをする」というビジネスモデルが世の中で幅をきかせることになる。だから、会社も個人と同様、[やりがい]について考えないといけない。

 本書の狙いは、働くことを[やりがい]という視点から整理することにある。これは、働くという行為はお金を稼ぐための手段ではないという考え方のもと、働くことを生きることの一部として考えるというスタンスをとり、そこから仕事について考えを深めていきたい。
[お金]は動物的であり、[やりがい]は人間的である。[お金]は量的概念である物資的豊かさに、[やりがい]は質的概念である関係の豊かさ(心の豊かさ)に対応する。働くことを[お金]視点で捉えればそれは労働であり、「辛いか辛くないか」が主題になる。一方、働くことを[やりがい]視点でとらえればそれは仕事であり、「面白いか面白くないか」が主題になる。こんな対立軸に沿って[やりがい]について考えはじめると、話は仕事論にとどまることなく、幸福論や人生論にまで広がっていく。

 何だか大変なことになってきた、そんなことは私にできそうもない、と思うかもしれない。しかし、飢えを克服した豊かな社会に生きている人間の宿命である、動物ではなく人間に生まれてしまった宿命である--やるしかない。これを義務だと考えれば気が重くなる。しかし、欲望と考えれば気分は軽い。やらないよりもやったほうが絶対に面白い。これは保証する。
 私たちは残念ながらというか、幸いなことにというか、動物ではなくて人間として生まれ、いま生きている。だから、ぼんやりと生活して、食べたり寝たりしているだけでは、やっぱりつまんないのである。

1++++++++++++++++++++++++++
私たちが生きていて一番つらいのは、苦しみがあることではなく、
苦しみに耐えるための意味や理由が見いだせないことだ。

ニーチェ(哲学者)
++++++++++++++++++++++++++++++++

 本書の中をぱらぱらと眺めて欲しい。すると、至るところに「つながり」や「関係」という言葉が出てくるのに気がつくだろう。これが本書のキーワードである。
 人間は、他者と「つながりたい」という欲望を持った存在である。なぜならば、人間は自分で自分の存在を証明することはできず、他者との交流を通じて得られる他者からの承認によってしか自分の存在を証明する手だてを持たないからだ。
 この場合の他者とは同時代に生きている人間だけを意味しない。既になくなってしまった人やまだ見ぬ未来の人も含まれている。人間だけでなく、いま地球上で生きているすべての動植物も含まれている。「つながりたい」という思いは時間的、空間的な広がりを持っている。

 私たち人間は歴史の中にあり、社会の中にある。歴史の中に自分を見出すこと、社会の中に自分を見出すことは、〈世界〉とのつながりを感じることである。その橋渡しをするのが仕事である。〈自分〉と〈世界〉をつなぐチカラを「仕事」は持っている。「仕事」で〈自分〉と〈世界〉がつながるということは、歴史や社会の中に自分の役割を見つけることだ。役割は責任感を生み出し、責任感は生きる意欲につながる。
「お金を稼ぐ」という以外の働く理由とは何なのか? これを問うことは、豊かな社会とは何なのか、人間らしい生活とは何なのか、人生の意味とは何なのかを問うことである。そして、それは〈世界〉を経済一辺倒で見るのではなく、もっと多様な視点で〈世界〉を見て関わることである。そんな広い視点から今の自分の仕事を見直し、そういう自分の仕事が織りなして出来上がっている世の中の姿を問い直したいと考えている、すべての人にこの本を贈りたい。

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生きがいがあると長生きできる

2008年12月22日 | 日記

2008年12月11日の朝日新聞からの引用である。見出しは、「「いきがい」があれば死亡率は減少する」とある。 

 生きがいを感じて暮らしている男性は、精神的ストレスがあっても脳卒中で亡くなるリスクが大幅に低い――。秋田大が県民を対象にした調査でこんな傾向が出た。ストレスは脳卒中などで亡くなるリスクを高めるといわれるが、「生きがい効果」はそのリスクを上回るのかも知れない。
(中略)
生きがいの有無がなぜ死亡率の差に影響するのか、理由はわかっていない。女性では差がはっきりしなかった。

[「生きがいの有無がなぜ死亡率の差に影響するのか、理由はわかっていない」と書いているが、その理由は簡単だ。

私たちが生きていて一番つらいのは、苦しみがあることではなく、苦しみに耐えるための意味や理由が見いだせないことだ。

ニーチェ(哲学者)

だからである。

 生きがいは新陳代謝を活溌にする。人間は新陳代謝をし続けなければ死んでしまう。野口三千三氏もこう言っている。

私は「生きがいとは時々刻々絶えず自己の内外から情報を得て、時々刻々絶えず自己を再構成・再創造し、その構成・創造の営みによって、自己の存在を再確認し納得することである。つねにいま新しく何かが生まれてくるという、何か貴重なものが生まれてくる、何かいま貴重な体験をしつつある、今という時間が自分にとって貴重なものであるという実感によって満たされている生き方をいう」と考えている。

野口三千三(野口体操の創始者)『原初生命体としての人間』(岩波書店)

じゃあ、「女性では差がはっきりしなかった」はどうしてなのか?

女性は人生に対して過剰な意味を求めないからではないか。もちろん、女性だって動物ではなくて人間であるから自分の人生に何らかの意味を求める。が、男性のように過剰ではないのではないか。良い意味で女性の方が男性よりも自然に近いというか、動物に近いというか。だから、男性よりも長生きするような気がする。

どうでしょうか?

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巨人で野球がしたい

2008年12月19日 | キャリアデザイン

 ロッテからドラフト2位で指名を受けた、ホンダの長野久義外野手(23)は12月5日、ロッテ入団を拒否する意思を表明した。長野は日大時代の2006年11月の大学生・社会人ドラフトでも日本ハムに4巡目指名されながら、入団を断ってホンダに入社した。理由は一言「巨人で野球がしたい」ということらしい。
 
 長野選手の気持ちは、巨人というチームで 野球がしたい、のであって、巨人以外のチームで野球をする気はほとんどない、のである。

少なくても現時点では、巨人以外の球団では野球をするぐらいなら、ホンダで野球を続ける方が良いと考えているのだろう。
 
 職業を選択する際の価値観として、<巨人軍で野球をする>が<プロ野球選手になる>よりも大きいのである。

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高齢者の自分探し

2008年12月18日 | キャリアデザイン

 あるテレビ番組で「高齢者の自分探し」というフレーズを耳にした。自分探しというと、若者のことと思いがちだが、そうでもないらしい。そういわれてみれば、『老後をアジア・リゾートで暮らす』『50歳からの海外ボランティア』『海外リタイア生活術』などで紹介した海外暮らしもまた「高齢者の自分探し」の一つの方法だといえる。

 じゃあ高齢者の自分探しは若者に比べて簡単なのか、難しいことなのかを考えてみる。
 
 その前に前提を整理しておく。人間とは関係的存在である。言い換えれば、自分とは自分だけでは存在し得ず、自分は自分以外の他者との関係との総和から成り立っているということだ。日本の高齢者は他者との関係は豊かなのかというと、そうでもない。なぜならば、定年前の男性の人間関係が社縁に偏りすぎているからだ。
 
 同じ番組の中で『暴走老人』の著者・藤原智美(芥川賞作家)が次のようなことを言っていた。

人間関係力は筋肉と同じで、使わないとどんどん落ちる。会社を定年退職した男性の人間関係力は定年を機にゼロベースに落ちる。地縁はもともとまったくないし、家族縁もないに等しい状態であり、そういう状態からある日突然社縁がゼロになってしまうからである。こういうなか、人間関係力は衰えていく一方であり、それまでなら何とか対応できていたことに対応できなくなり、ささいなことに怒りを爆発させる老人が増えていく。

結論めいたことを書くと--。

普通に考えれば、若者よりも高齢者の方が生きてきた時間が長いのだし、社会のなかでしっかりと仕事をしてきたわけだから、豊かな人間関係を有しており、それゆえ自分が確立しているでの容易に自分探しができそうである。

しかし、である。実は、定年前の自分を形成する縁が社縁に偏りすぎており、またその社縁がある日ぷっつりと切れてしまうため、決して安定した豊かな人間関係を持っているわけでもなく、それゆえ自分が確立しているのではない。よって、若者に比べてシニアといえども自分探しは簡単ではない。

どうでしょうか?

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森喜作の名言

2008年12月13日 | 名言あれこれ

人がやらないことをやり続ければ、
見えなかったものが見えてくる。

森喜作(1908年 - 1977年、群馬県桐生市出身の農学者)

未来創造堂 第138回 2008年12月5日(金) 23:00~ ON AIR!

 森喜作は群馬県桐生の裕福な家庭で育った。京都大学の学生だった時、森は農村の実態を調査するため、大分県の山村を訪れた。そこで森が見たのは、丸太の前で一心に祈る農夫たちの奇妙な姿だった。「あれは何だ?」。森は不思議に思った。
 
 江戸時代から始まったシイタケ栽培だったが、その栽培方法は丸太にナタで切れ目を入れておいてシイタケが生えるのを神に祈って待つという栽培方法であった。 栽培方法とはいないような栽培方法だった。

 大分県の山村農家は土地が肥えていないため、 炭焼きやシイタケ栽培をして細々と暮らしていた。「シイタケ栽培の方法を研究して彼らを救いたい」。森は実家のある群馬県に研究所を建て、シイタケ栽培についての研究をはじめた。
 
 昭和17年、森は幾多の失敗と挫折、人々からの嘲笑にめげることなく、ついに純粋培養菌種駒法を発明した。

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ちまたの名言

2008年12月12日 | 名言あれこれ

ラジオからチラリと聞こえてきた言葉--。

首を切るなら腹を切れ

社員の首を切るなら、自分の腹を切れという意味だ。もちろん経営者に向けての言葉である。

非正規社員の首を切る前に、まずは内部留保をはき出す、株主配当を減らす。それでもダメならば、賞与をゼロにする。それでもダメなら、役員の給与を半分に減らす、正社員の給与を減らす--というようなワークシェアリングで100年に一度の危機を乗り越えることはできまいか。、

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三浦光世の名言

2008年12月07日 | 名言あれこれ

愛とは、人を幸せにしようとする意志である。

それは意志であって感情ではない。

三浦光世(三浦綾子記念文学館の館長)

出所:NHK教育「こころの時代~宗教・人生「祈り 苦難をともに40年」(2008年10月26日)

三浦光世は、『氷点』で知られる作家三浦綾子の夫である。綾子が1999年に亡くなってから9年が経過するが、現在は三浦綾子記念文学館(北海道旭川市)の館長をしている。

正確にいうと、この名言は三浦光世の言葉ではない。

光世がまだ若い時、大阪出身の牧師に聞いた。「愛ってなんですか?」。牧師は答えた。「お前、そんなことも分からんのか。愛とは、人を幸せにしようとする意志だ。」と。光世は思った。愛は感情じゃないんだ・・・・意志なんだ・・・。

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デザイン VS ドリフト

2008年12月05日 | キャリアデザイン

 キャリアデザインの肝は、デザインとドリフトを繰り返すことである(金井壽宏 著『働くひとのためのキャリア・デザイン』)。
 
 大学や専門学校を卒業する時期は人生の節目である。人生の節目においては、自分としっかり向き合い、自分の進むべき方向をじっくりと考えてみる。そのときの自分に出来る最善の方法で自分の未来をデザインをするのだ。
 
 会社に入った後は、デザインモードからドリフトモードにシフト換える。それまでの「自分」にとらわれすぎることなく、周囲からの要請や期待に上手に応えていく。他力本願というか、流れに身を任せていくのだ。
 
 まとめよう。節目ではデザイン、節目と節目の間ではドリフトという戦略がいい。

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適性検査の効用と限界

2008年12月04日 | キャリアデザイン

いきなり引用です。

 就職を前にした学生はたいてい、自分の性格に合っていて、個性が発揮できる仕事に就きたいと思うようだ。
 とはいっても、それまでフルタイムで働いた経験などないわけだから、どの職業が自分にぴったりくるかわからない。そこでそんな彼らのために、職業適性を測るテストがある。(中略)
 つまるところ職種名での適合性というのは、ある職業に従事してそこでうまくいっている人と、自分の嗜好やパーソナリティの傾向が、どれだけ近似しているかということなのである。そして多くの人は、その差が小さければ小さいほどその職業に適応性があるのだと、信じ込んでいる。もし、これがほんとうなら、就職とは、職種の要請と、個人の仕事上の関心(ともに六角形で表される)のパズル合わせにすぎなくなってしまう。果たして、それが最初からぴったり合っているというのは、そもそもよいことなのだろうか。
 
金井 壽宏、高橋俊介『キャリアの常識の嘘』(朝日新聞社)

キャリアの常識の嘘 キャリアの常識の嘘
価格:¥ 1,365(税込)
発売日:2005-12

 日本で実施される職業適性検査では、ホランドの6角形モデルが広く利用されている。簡単にホランドの理論について説明しておこう。

 ホランドは、職業上の興味を、企業的(E)、慣習的(C)、現実的(R)、研究的(I)、芸術的(A)、社会的(S)の六つに分類し、この興味分野に基づく六つのパーソナリティ・タイプを六角形で表現した。

 三つのキーワードを使って、ホランドの6角形モデルを説明する。

 一つ目はスリー・レター・コードという言葉である。人は通常、三つの性格タイプの組み合わせとして表すことができる。どれか一つが強く、あと二つのタイプはそれほど強くない。人を三つの性格タイプで表したものをスリー・レター・コードと呼ぶ。

 二つ目は一貫性という言葉である。六角形上で隣り合っている性格タイプは非常によく似ている。スリー・レター・コードの初めの二文字が隣り合っている場合、その人の興味は一貫性が高く、自分の中に安定感があって仕事を見つけやすいといえる。
 六角形上の対角にある性格タイプは、かけ離れている。スリー・レター・コードの初めの二文字が対角にある人の場合、その人の興味には一貫性がない。こういう人は、大きく異なる興味をどう仕事に活かせばよいのかという点で苦労するかもしれない。
 六角形の頂点を一つはさんで隣り合う性格タイプは、右の二つのグループの中間的な関係にある。スリー。レター・コードの最初の二文字がこういう場合、方向性がある程度異なる興味を持ってはいるが、仕事の中で上手く組み合わせていけるだろう。

 三つ目は分化。「分化」とは、ある人の最も高いホランド・タイプと最も低いホランド・タイプの差を表したものである。分化しているということは、興味のある分野がはっきりしていること、分化していないということは、興味のある分野がはっきりしていないことを意味する。

私のスリーレターコード
 
 私は44歳から46歳にかけて職業適性検査を三回受けている。
 最初に受けたのは44歳の時。この時は企業的(E)が一番強く、次が慣習的(C)、その次が社会的(S)という結果になった。つまり私のスリーレターレコードはECSとなった。
 2回目は45歳のとき。44歳のときに受けたテストの簡易版を試してみた。このとき、一番強く出たのは企業的(E)、次に強く出たのが社会的(S)、その次が研究的(I)という結果になった。つまり私のスリーレターコードはESIとなった。
 3回目は46歳のとき。ある人が学生のキャリアカウンセリングをするときに使っている「簡易テスト」を試してみた。一番強く出たのは研究的(I)、次に強く出たのは芸術的(A)、三番目は社会的(S)だった。私のスリーレターコードはIASとなった。

 3回の結果を見ると、現実的興味(R)は薄いという共通点は出たものの、スリーレターコードについては三回とも異なる結果になってしまった。自分にとって一番しっくり来ているスリレターコードは3回目の結果<IAS>だ。一回目と二回目の結果は、何だか自分の結果ではないような気さえする。
 同じホランドの理論に基づいた検査でも、設問の文章によって結果は微妙に違ってくるし、テストを受けたときの気分でも結果は変化する。
 44歳から45歳にかけて、私は自分で会社を起こそうと思っていた。だから、E(企業的)が強く出たのだと思う。自分本来の興味や関心、適性というよりも「自分はこうあって欲しい」とか「自分はこうあらねばならない」という気持ちに引っ張られてしまったのだろう。

適性検査の結果は〝材料〟にすぎない

 キャリアカウンセラーの盛田淳さん(NPO法人マイジョブクリエイションズ@富山県の代表)は適性検査の結果の扱い方について次のように言う。

「適性検査の結果は〝材料〟にすぎないと考えています。本人がキャリアカウンセラーと話をするときに使う〝材料〟ですよ。その結果について、本人がしっくりきているのであれば、自分の進むべき方向性を取りあえず決めて、次にするべきことをはっきりさせます。ガイダンスに出るとか、知人から情報を集めるとか、職場見学や職場体験をしてみるとか、人によっていろいろです。そして、一連の職業群の中から具体的な職業を複数拾い出してみて、それぞれどういう能力が求められるのか、給料はどれぐらいもらえるのかなどを調べる作業に入っていきます。本人が結果に対してしっくりきていない場合でも、どこがしっくりしないかをキャリアカウンセラーと話し合ってみたり、自分で考えたりして自己理解を深めていく〝材料〟として使います」。

 適性検査の結果が、客観的に見て妥当であるか妥当ではないか、また本人がしっくりきているかしっくりきていないかはあまり重要ではない。その結果について、キャリアカウンセラーのような第三者と、あるいはグループで話し合ってみることが大事だ。適性検査に〝材料〟以上のものを期待してはいけないということである。〝材料〟は調理される必要があり、この調理という作業は人間にしかできない。調理せずにそのまま食べると、お腹を壊すことも多々ある。

「一番注意したいのは適性検査の結果を鵜呑みにすること。適性検査によって視野が極端に狭くなってしまったり、自分の可能性を狭めてしまったりして、身動きがとれなくなる人も多いです」と盛田さんは話している。

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「いかに生きるか」という問いは12世紀に生まれた

2008年12月03日 | キャリアデザイン

 ドイツ中世史を専門とする歴史学者、阿部謹也は『教養とは何か』のなかで、次のように述べている。
  

人類の長い歴史の中で「いかに生きるか」という問いが発せられたのはそう古いことではない。そのような問いが問いとして意味を持ち得るためには「いかに生くべきか」という問いに対して自ら答えを出し、その答えに従って生きて行く可能性が少なくとも存在していなければならないからである。
 しかしそのような可能性は古代にはほとんどなかったといってもよいだろう。・・・・中世においてすら中頃までは父親の職業を継ぐふつうの人生であった。
 十二世紀頃になったはじめて「いかに生きるか」という問いが実質的な意味をもつことになった。この頃に都市が成立し、そこで新たな職業選択の可能性が開かれていたからである。農村出身の子弟は年でギルドやツンフト(手工業組合)の職人になる可能性があったし、大学に進学し、法律家や官僚、司祭になる可能性も生まれていた。このような可能性が開かれたとき、はじめて人は「いかに生きるか」という問いに直面したのである。

 
 父親の職業を継ぐのが当たり前だった時代、人々は職業を選択する自由を持っていなかった。よって「いかに生きるのか」と自らに問う必要もなかった。ところが、都市が成立し、職業選択の可能性が広がっていくようになって状況が変わった。どういう職業に就くのかを考える前提として、「いかに生きるのか」を考えざるを得ない状況になったのだ。

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