サッカー見聞録

サッカーに関する記憶を留めるために

サッカースクール

2007年02月06日 16時37分49秒 | サッカー日記
しばらく仕事が忙しくblogの執筆が出来なかった。いや、今でもこんな事していて良いのかという恐怖感に襲われる。忙しいとは「心」を「亡くす」と書くと、よく昔、人から言われた。ゆえに忙しい事は良くない。と、私の中の倫理観は判断する。何度かサッカー以外でヨーロッパに行ったが、あちらは本当にスローライフの実践者が多かった。短期間の滞在なので偉そうなことは言えないが、明らかに日本、米国とは違う。確かにある年齢の欧州の方々は食事一つとってもたっぷり時間をかける。だからマクドナルドなどもってのほか・・・と思っていたら、欧州でも若い連中はマクドナルド等ファーストフードが大好きだそうだ。またファッションも欧州は世界のファッションリーダーとしての誇りがある。しかし多くの若者は、男性は米国流ヒップホップファッションに身を包んでいたし、若い女性はローライズジーンズを履き、へそを出していた。そして多くの壁には「タグ」が書き殴られている。伝統を守るには多くの規律が必要だが、欧州の若者はそんなもの「かったるい」のだろう。欧州でもジェネレーションギャップは存在するらしい。
今、日本では教育問題に関して様々な意見が飛び交っているし、様々な事象が起こっている。私の意見は自分の子供が「いじめにあう」ことのないように祈るし、「いじめる側」の人間にならないように祈る。そして何より祈ることは、「死なないで欲しい」と祈る(私の子だけではなく)。それだけだ。
私は今から約34年前、18歳から4年間大学生時代、少年サッカースクールのコーチを毎週日曜日にしていた。
そのサッカースクールは私が小学生の時からあったから特異な存在だったろうと思う。
規模もそれなりに大きく、都内を「城北」「城南」「八幡山」「江戸川」「東伏見」地区に分け、横浜会場もあった。
経営母体は「東京教育センター」という私企業である。しかし今はない。
私がコーチをするきっかけは、高校のサッカー部先輩と同期からのリコメンドによってである。バイト感覚であった。
しかし甘かった。18歳の私はサッカーを指導すれば良いと簡単に考えていたが、そこには「心」がなかった。それと私も18のチンピラだった。いわゆる私も子供だったのだ。
多くの子供達を前に心が通じないことの恐怖と切なさを体験した。子供達が私に心を開いてくれたのは2ヶ月か3ヶ月くらいしてからだったと思う。それまでは先輩諸氏に相談しまくった。
子供達は、私に対して「この人は僕たちに愛情があるか」「愛情のない奴に教えて貰いたくない」と無言で訴えていた。
だから今思うとこの時期は、子供に接するとは何かと言うことを学んだ時期であった。貴重な体験である。
さて、現在サッカースクール花盛りである。多くのサッカースクールの現状を把握しているわけではない。だからこのことが普遍的なことと断言できない。しかし以下の現実には異論がある。
まず、私の頃は親御さんは本当に送り迎えだけで、練習はおろか試合も見に来ない。我々を信頼し大事なお子さんを預けるのだ。だから我々コーチに対するクレームは一切無い。
現在は「なぜうちの子が試合に出られないのか?」とか、ひどいときはコーチが口で少年に「こうやればうまくいく」と指導すると「あんたできんのか?やってみろ」という返事がかえってくるそうな。いやはや・・・。
私の頃は父兄が信頼して頂いていたので、一つ心がけていたことは、試合の時、全員を試合に出し全ての子供に自信をつけさせることだった(サッカーが上手くない子には、一度でよいから試合に出ている間にボールに触ることを指示した)。だから当然勝っていても負けることがある。それでも良い。
サッカーの上手い子だけで試合をすれば勝てる。しかし小学生に教えることはそれ以上のことがある。上手く皆の輪に入れない子、中々サッカーが上手くなれない子、親に無理矢理行かされ、どうしてもサッカーが好きになれない子。我々の使命はそのようなネガティブプロブレムを払拭することと考えていた。
だからそのころ我々コーチは試合で勝っているのに、あえてサッカーがあまり得意でない子と交代させた。そうしても皆納得していた(今だったら「何であんな下手な奴と交代させるんだ?」とクレームの嵐だろう)。
あれから幾星霜、その頃小学校1年生の子が今では40歳、6年生では46歳である。光陰矢のごとしである。