「歴史歪曲を非難」“被害者”の立場を強調 中露首脳共同声明全文を公表
2010.9.29 00:49
【北京=川越一】中国国営新華社通信は28日、27日に中国の胡錦濤国家主席とロシアのメドベージェフ大統領が署名した第二次大戦終戦65周年を記念する共同声明の全文を公表した。声明には当初の見通し通り、「中露は第二次大戦の歴史歪曲(わいきょく)を断固非難する」との文言が盛り込まれ、領土問題を抱える中露が対日史観で連携する姿勢が浮き彫りになった。
声明では、第二次大戦中、中露がファシストおよび軍国主義の侵攻で最も残酷な試練を経験したと述べ、“被害者”としての立場をアピール。日本が中国を「侵略」した後、旧ソ連が隣国として即座に巨大な援助をしたことが、中露を強固に結びつけたとしている。
“歴史の歪曲”とともに、ナチスドイツおよび軍国主義分子やその共犯者を美化することなども批判。国連憲章などにより第二次大戦に対する評価は定まっており、“歪曲”はできないとくり返し、「さもなければ、各国、各民族間の敵対的な情緒を挑発する」と述べている。
双方はさらに、数十年来、各国が国際法の原則に従って、国際体系の基礎を作るために多くの活動をしてきたと主張。自らがしばしば、周辺国家との摩擦を引き起こしている現状を棚上げし、「中露は国連安全保障理事会の常任理事国として、平和を愛する国家、人民とともに、公正で合理的な国際秩序の形成、戦争や衝突の防止のために共同して努力し続ける」と結んでいる。
また、戦略的協力関係の深化に関する共同声明では「主権や領土保全にかかわる核心的利益を、お互いに支持し合うことは戦略的協力関係の重要な部分だ」と強調。沖縄・尖閣諸島(中国名・釣魚島)や北方領土といった具体的な名称の記載は避けたものの、領土問題で日本を牽制(けんせい)した形だ。
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100929/erp1009290050001-n1.htm
対日歴史認識で連携強化 中露首脳会談
2010.9.27 11:15
【北京=川越一】26日から3日間の日程で中国を公式訪問しているロシアのメドベージェフ大統領は27日午前、北京の人民大会堂で胡錦濤国家主席と会談した。同大統領の訪中は2008年5月以来2度目。中露首脳の会談は今年5度目となる。
26日、遼寧省大連市に到着した同大統領は、その足で旅順にある旧ソ連軍兵士の墓地を訪問。第二次大戦を戦った両国の退役軍人らに面会し、「いかなる歴史の歪曲(わいきょく)も許さない」などと述べた。
胡国家主席との会談では第二次大戦終戦65周年に関する共同声明に署名する。声明には「第二次大戦の結果見直しは許さない」との趣旨が盛り込まれる見通しだ。沖縄・尖閣諸島(中国名・釣魚島)の領有権を主張して日本と対立する中国と対日史観で連携することで、北方領土の実効支配を正当化する狙いがうかがえる。
メドベージェフ大統領は27日午後、温家宝首相や呉邦国全国人民代表大会(全人代)常務委員長(国会議長に相当)とも会談する。その後、上海万博のロシアデー記念式典に出席するため上海に移動し、習近平国家副主席と会談する。
http://sankei.jp.msn.com/world/china/100927/chn1009270856001-n1.htm
“中ロ 歴史わい曲を許さず”
9月26日 18時11分
ロシアのメドベージェフ大統領は、中国・東北部を訪問して、中ロ両国が歴史のわい曲を許さないために、ともに努力すべきだとする考えを示し、北方領土の領有をあらためて正当化するねらいがあるものと受け止められています。
ロシアのメドベージェフ大統領は26日、中国・東北部の旅順港を訪れ、日露戦争で戦死したロシア兵と、第2次世界大戦で旧日本軍と戦って死亡したソビエト兵の墓地で献花を行いました。このあと、旧日本軍との戦闘に参加した元軍人と面談し、「歴史的真実をねじ曲げようと試みる勢力がいるが、われわれは大戦についての真実を主張していかなければならない」と述べ、中ロ両国が歴史のわい曲を許さないために、ともに努力すべきだとする考えを示しました。メドベージェフ大統領は27日、北京で、中国の胡錦涛国家主席とともに、事実上の、対日戦勝65年を記念する共同宣言を発表することにしており、北方領土の領有について、さきの大戦の結果だとして、あらためて正当化するねらいがあるものと受け止められています。メドベージェフ大統領は、今回の訪問中、東シベリアの油田から中国に原油を供給するパイプラインの完成式典に出席するほか、上海万博も視察する予定で、中ロの連携強化を内外に示したい考えです。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20100926/k10014206811000.html
露で対日戦勝記念日 極東各地で65周年式典を開催 「日本は歴史をねつ造」と上院議長
2010.9.2 20:13
2日、ロシア・ユジノサハリンスクの栄光広場にある旧ソ連軍戦没者を慰霊する「永遠の火」の周囲に献花する市民ら(共同)
【ユジノサハリンスク=遠藤良介】日本が第二次大戦の降伏文書に署名した9月2日をロシアが事実上の対日戦勝記念日に制定したのを受け、極東各地では同日、戦勝65周年を祝う式典や軍事パレードが行われた。サハリン(樺太)の行事では、ソ連の対日戦を「解放」戦争だったとする発言が政官界から相次ぎ、ミロノフ上院議長は日本の北方領土返還要求を「歴史の捏造(ねつぞう)だ」と断じた。
新記念日の正式名称は法制定の過程で、「第二次大戦終結の日」と和らげられた。しかし、その狙いが、ソ連による日ソ中立条約を破っての対日参戦や北方領土占拠の正当化にあることが改めて鮮明になった。
北方領土を事実上管轄するサハリン州の州都ユジノサハリンスクでは2日、軍事パレードを含む式典が行われて市民ら数千人が参加したほか、「第二次大戦の教訓と現代」と題する「国際学術会議」が開かれた。
ミロノフ議長はこの会議で、「ソ連軍は中国東北部や北朝鮮、南サハリン、クリル諸島(千島列島と日本の北方四島)を解放した」と主張し、「勝利を祝うことは、戦争の結果見直しを許さないとの警告でもある」と述べた。また、州高官は式典で、ソ連は対日戦で「ロシア固有の領土を取り戻した」などと演説し、「偉大な勝利」を祝福した。
この日は極東の沿海州やカムチャツカ地方などでも式典や軍事パレードが行われ、中露国境のアムール川沿岸では中国側との合同行事も予定されている。
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100902/erp1009022018005-n1.htm
対日戦勝記念日 極東でも「解放者」史観の浸透図る 中国と連携も
2010.9.3 00:33
戦勝記念日の式典で行進するロシア海軍の水兵たち=ウラジオストク(ロイター)
【ユジノサハリンスク=遠藤良介】「ソ連はナチス・ドイツから欧州を解放した」。こんなロシアの国定「解放者」史観が、露極東や東アジアにも広がろうとしている。戦後65年の今年になって、事実上の対日戦勝記念日を制定した大きな狙いの一つがここにある。日ソ中立条約を破って1945年8月9日に参戦、15日の日本降伏後も一方的攻撃を続けた行為を「解放戦争」に高めるため、当局は上からのプロパガンダ(政治宣伝)に躍起だ。
旧ソ連・ロシアでは対ドイツ戦(41~45年)が「大祖国戦争」と呼ばれ、その5月9日の戦勝記念日は最も重要な祝日とされてきた。2700万人ともされる犠牲者を出す総力戦だったからにほかならない。ロシアは「欧州の解放者」との立場を誇示し、それを国民の結束と国際的地位の向上に利用してきた。
これに対し、ロシア側の情報でも死者8200人という対日戦は、ロシア社会での認知度が低かった。9月2日のサハリン州での行事は過去最大とされるものの、西部での対独戦勝記念日とは比べるべくもない。
「9月2日が『人民の祝日』かと問われれば、違う」。同州機関紙のセメンチク編集長はこう認め、「新祝日の浸透には時間がかかるかもしれないが、公式メディアとして積極的に記事にするなどで盛り上げている」と語った。
9月2日が近づくにつれ、州立の博物館や図書館は対日戦争勝利に関する特別展示を開始。ユジノサハリンスクの戦争経験者団体は市内の全学校で特別授業を行う。同団体のチュチンスカヤさん(81)は「南サハリンも南クリル(日本の北方領土)もロシア固有の領土であり、ロシアが軍国主義日本から解放した」と教えるつもりだ。
ロシアが対日戦勝史観を軸に、中国などと日本包囲網を形成する動きもある。ロシアのブヌコフ駐韓国大使は2日の行事で日本による中韓両国の被害を強調。「ロシアは連合国との参戦に関する責務(ヤルタ秘密協定)を果たし、大戦の終結を早めた。ソ連の対日参戦は連合国の結束の強さを示した」と語っている。
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100903/erp1009030038002-n1.htm
占守島の旧日本軍戦車展示 サハリンの郷土史博物館
【ユジノサハリンスク共同】第2次大戦で日本の無条件降伏後、日本軍とソ連軍が激戦を繰り広げた千島列島最北端のシュムシュ島(占守島)に戦後65年間放置されてきた旧日本軍戦車の展示が1日、ロシア極東サハリン州の州都ユジノサハリンスクにある州立郷土史博物館で始まった。
サハリン州当局者は展示目的の一つを「当時の軍国主義日本に対するソ連の勝利を後世に残すことだ」と地元紙に説明。2日の「対日戦勝記念日」を前に、北方四島を含むすべての千島列島が戦争の結果、ソ連が獲得した領土とあらためて強調する狙いがあるとみられる。
占守島では、日本のポツダム宣言受諾後の1945年8月18日未明、ソ連軍が上陸し奇襲攻撃。武装解除を進めていた日本軍守備隊と戦闘となり、日本側の調査によると、5日後の停戦協定までに日本兵約350人が死亡。ソ連時代の国営紙は「ソ連兵の死者は約3千人」と報じた。
占守島の戦闘に参加した武蔵哲さん(88)=北海道石狩市=は「千島へのソ連軍侵攻は日ソ中立条約違反だった。ロシアは戦勝、戦勝と繰り返すが、正しい歴史を教えることなく、ロシア国民をだましているだけではないか」と話す。
2010/09/01 18:19 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010090101000702.html
「解放戦争」の現実 白旗に猛爆撃 サハリン残留日本人 泣いて断ち切った帰国の思い
2010.9.2 20:20
戦勝記念日の式典で行進するロシア海軍の水兵たち=ウラジオストク(ロイター)
ロシアの“対日戦勝記念日”を大々的に祝ったサハリン(樺太)は戦前、その南部(北緯50度以南)が日本領で、約40万人が住んでいた。ここには今も、65年前の8月にソ連の苛烈(かれつ)な侵略を経験し、戦後、さまざまな事情で帰国を断念した同胞がいる。ロシアが「解放戦争だった」と主張する対日戦によって、南サハリンの地に暮らしていた住民たちの命運は翻弄(ほんろう)された。(ユジノサハリンスク 遠藤良介)
「どの家の屋根にも大きな白旗が掲げられていたのに、ソ連の航空機はどんどん爆撃した。駅前広場はおびただしい血で、私たちは横たわる死者・負傷者をまたいで山の神社に隠れたのです」
日本が降伏した8月15日以降、地方郵便局に勤めていた根本ミヨさん(84)=ドリンスク(旧名・落合)在住=が、避難先のユジノサハリンスク(豊原)で体験したことだ。「コルサコフ(大泊)から出るはずだった郵便船も爆撃されていた」
8月22日には、北海道留萌沖で引き揚げ船3隻がソ連と疑われる国籍不明潜水艦の魚雷攻撃を受け、婦女子を中心に死者・行方不明者1700人以上を出した事件も知られている。
「上空の飛行機に、何も分からない子供たちは万歳をしていた。その飛行機が銃撃をし、発電所を爆撃したのです」。ブイコフ(内淵)で終戦を迎えた魚住笑子さん(79)=ドリンスク在住=もこう証言し、「日本の降伏後にソ連が攻撃することなど思ってもいなかった」と話す。
女性は皆、戦車などで乗り込んできたソ連兵を恐れ、髪をばっさりと切って男を装ったり、ボロを身にまとったりした。
戦後しばらくは引き揚げの機会はあったが、経済的理由などで戻れなかったという。
「娘を(残留)朝鮮人に嫁がせ、その金で親を引き揚げさせた人も多かった」と魚住さん。「私たち親子には金がなく、帰れなかった。引き揚げる友人たちを見送り、同じ日本人なのにと隠れて泣いていました」と回想する。
1946年12月には米ソ協定が結ばれて国の引き揚げ事業が始まったものの、ここで対象とされたのは日本人と子供のみ。40年代末までに魚住さんは朝鮮人と、根本さんはロシア人と結婚し、子供も生まれていた。家族と暮らすためには、帰国の思いを断ち切るしかなかった。
炭鉱労働の募集などでサハリンに渡っていた4万人ともされる朝鮮人も戦後、韓国への帰還の道は閉ざされた。残留日本人は「お前らはなぜ自分の国に帰らない」とロシア人にいじめられた上、反日感情を強めた残留朝鮮人との複雑な関係も乗り越えねばならなかった。それでも魚住さんは7人、根本さんは3人の子供をサハリンで育て上げた。
残留日本人やその子供たちで構成されるサハリン日本人会の白畑正義会長(70)によると、十数年前には300人ほどいた会員が今では約200人。ソ連解体後に日本や韓国での永住を選んだ人もいれば亡くなった人もおり、45年9月2日までに生まれた「1世」は95人ほどに減った。
「やはり子供や孫を残して日本に発つことはできない」(根本さん)。1世の多くは80代と高齢になり、永住帰国は難しい。その代わり、国の集団一時帰国事業で1年半に1度ほど、祖国の土を踏めるのを楽しみにしているという。
日本の降伏後に攻撃を続けたロシアが、「戦勝」に浮かれていることをどう思うのだろうか。
魚住さんは「戦争に勝った国よりも、負けた日本の方が立派な暮らしぶりだと言ってやる」と切り捨て、「私たちはここにいても日本人です」と力を込めた。
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100902/erp1009022022006-n1.htm
シベリア抑留9人処刑新たに判明 露記録、全容解明遠く
2010.8.30 01:34
【モスクワ=佐藤貴生】第二次大戦後、約60万人の日本人がソ連に連行、抑留された問題で、抑留者9人が銃殺などにより処刑されたことを示す新たな記録が、29日までに見つかった。厚生労働省は、抑留者のうち約5万5千人が日本に帰国できず死亡したと推計しているが、処刑による死亡が明らかになることはまれだ。戦後65年が過ぎても、抑留の全容解明にはほど遠いことを象徴しており、ロシアの姿勢が改めて問われている。
新たな記録は、ロシアの歴史研究者が、モスクワにあるロシア国立軍事公文書館で発見した。館内に保管されている抑留者の生年や出生地などを記した「個人カード」を調べ、判明した。すべてロシア語表記で、ソ連の取調官の抑留者に対する尋問結果をもとに作成されたとみられる。
記録によると、9人は終戦翌年の1946年から50年にかけて処刑された。「反革命罪」の規定があるソ連刑法第58条に違反したとの記述もあり、スパイ活動に従事したと判断されたとみられる。
9人のカードの大半には「極刑」と書かれ、刑の執行日か死亡年月日が記されている。当時のソ連では、極刑は銃殺に処すのが通例だった。記録を発見した研究者は「死因が記入されていない人のカードでも、『極刑』と大きく書かれており、銃殺された可能性が高い」とみている。
刑は極東ハバロフスクやシベリアのチタで執行され、20歳未満の人もいた。同じ日に3人が処刑されたケースもある。判決期日は記載されておらず、略式裁判で即決された可能性もある。
ソ連で銃殺された抑留者について、総務省所管の平和祈念事業特別基金が発行した「戦後強制抑留史」(2005年)は、23人の氏名を掲載するにとどまっている。うち12人は産経新聞が00年7月に報じた。
今回明らかになった9人はこれとは別だが、処刑により死亡した抑留者の総数は不明だ。厚労省は抑留者の情報に関しては「プライバシー保護の観点から、本人か遺族からの調査依頼に限って応じる」としている。このため、抑留者がどのように死を迎えたかも第三者に公表していない。
スターリンのソ連は45年8月、日ソ中立条約を破って対日参戦した。満州などから日本軍の兵士や軍属、一般人の約57万5千人を連行し、2~11年間にわたって鉄道建設や森林伐採などの重労働を強制し、寒さや飢えなどで約5万5千人が死亡した。
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100830/erp1008300135000-n1.htm
【シベリア抑留9人処刑】「対日戦勝」正当化進める露 実態隠し
2010.8.30 01:44
【モスクワ=佐藤貴生】戦後最大の悲劇ともいわれるシベリアなどへの日本人抑留問題は、北方領土の不法占拠と同様、終戦直前に中立条約を破り対日参戦したスターリンのソ連が引き起こした。人道に対する罪といっても過言ではない。にもかかわらず、後継国家ロシアは今年、日本が降伏文書に署名した9月2日を事実上の“対日戦勝記念日”に制定し、日本人抑留の実態などを覆い隠したまま、参戦を正当化する戦略を推し進めている。
ロシアは1991年に締結の日ソ政府間協定を継承し、抑留中に死亡した日本人の名簿を段階的に日本側に提供してきた。昨年には、70万枚もの抑留者の経歴を記した「個人カード」の情報の引き渡しも始まった。だが、戦後40年以上が経過した後の情報提供開始は、遅きに失したというほかない。宅地造成や墓地の移動、ロシア人との合葬などで遺骨の発見、特定はますます困難を極めている。
さらに、ロシア側の不誠実な対応も目につく。91年の協定には、「日本人死亡者の埋葬地が適切な状態に保たれるよう努めること」と明記されている。だが、昨年ロシアの抑留者墓地を訪れた元抑留者は「墓の荒廃がひどい」と証言する。ロシア政府は抑留者墓地の整備費を、ほとんど予算に計上していないという。
抑留者本人はもちろん、その子供の世代も高齢化が進み、一刻も早い実態解明が待たれている。チチハル(現中国黒竜江省)の特務機関長で、ソ連に抑留された田中義久さんの長女、内田和子さん(75)=名古屋在住=は「墓地はもちろん、どこに収容されていたかもいまだに分からない。ソ連は許せない」と話す。
一方で、スターリンのソ連が2万人以上のポーランド人を連行、銃殺した「カチンの森事件」(40年)では今年、歴史的な和解が実現した。ロシアとポーランドの首相が初めて現場で顔を合わせ、70周年の追悼式典に参加した。
ポーランドは欧州屈指の対露批判派として知られ、ことあるごとにロシアの高圧的な対外政策を批判してきた。同事件をめぐる対露不信もその一因だ。
領土問題が横たわる日露関係と同列には論じられない。が、真の相互信頼関係を築こうと考えるのなら、日本政府もポーランドのように「言うべきことは毅然(きぜん)と言い続ける姿勢」を堅持すべきだろう。
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100830/erp1008300145001-n1.htm
2010.9.29 00:49
【北京=川越一】中国国営新華社通信は28日、27日に中国の胡錦濤国家主席とロシアのメドベージェフ大統領が署名した第二次大戦終戦65周年を記念する共同声明の全文を公表した。声明には当初の見通し通り、「中露は第二次大戦の歴史歪曲(わいきょく)を断固非難する」との文言が盛り込まれ、領土問題を抱える中露が対日史観で連携する姿勢が浮き彫りになった。
声明では、第二次大戦中、中露がファシストおよび軍国主義の侵攻で最も残酷な試練を経験したと述べ、“被害者”としての立場をアピール。日本が中国を「侵略」した後、旧ソ連が隣国として即座に巨大な援助をしたことが、中露を強固に結びつけたとしている。
“歴史の歪曲”とともに、ナチスドイツおよび軍国主義分子やその共犯者を美化することなども批判。国連憲章などにより第二次大戦に対する評価は定まっており、“歪曲”はできないとくり返し、「さもなければ、各国、各民族間の敵対的な情緒を挑発する」と述べている。
双方はさらに、数十年来、各国が国際法の原則に従って、国際体系の基礎を作るために多くの活動をしてきたと主張。自らがしばしば、周辺国家との摩擦を引き起こしている現状を棚上げし、「中露は国連安全保障理事会の常任理事国として、平和を愛する国家、人民とともに、公正で合理的な国際秩序の形成、戦争や衝突の防止のために共同して努力し続ける」と結んでいる。
また、戦略的協力関係の深化に関する共同声明では「主権や領土保全にかかわる核心的利益を、お互いに支持し合うことは戦略的協力関係の重要な部分だ」と強調。沖縄・尖閣諸島(中国名・釣魚島)や北方領土といった具体的な名称の記載は避けたものの、領土問題で日本を牽制(けんせい)した形だ。
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100929/erp1009290050001-n1.htm
対日歴史認識で連携強化 中露首脳会談
2010.9.27 11:15
【北京=川越一】26日から3日間の日程で中国を公式訪問しているロシアのメドベージェフ大統領は27日午前、北京の人民大会堂で胡錦濤国家主席と会談した。同大統領の訪中は2008年5月以来2度目。中露首脳の会談は今年5度目となる。
26日、遼寧省大連市に到着した同大統領は、その足で旅順にある旧ソ連軍兵士の墓地を訪問。第二次大戦を戦った両国の退役軍人らに面会し、「いかなる歴史の歪曲(わいきょく)も許さない」などと述べた。
胡国家主席との会談では第二次大戦終戦65周年に関する共同声明に署名する。声明には「第二次大戦の結果見直しは許さない」との趣旨が盛り込まれる見通しだ。沖縄・尖閣諸島(中国名・釣魚島)の領有権を主張して日本と対立する中国と対日史観で連携することで、北方領土の実効支配を正当化する狙いがうかがえる。
メドベージェフ大統領は27日午後、温家宝首相や呉邦国全国人民代表大会(全人代)常務委員長(国会議長に相当)とも会談する。その後、上海万博のロシアデー記念式典に出席するため上海に移動し、習近平国家副主席と会談する。
http://sankei.jp.msn.com/world/china/100927/chn1009270856001-n1.htm
“中ロ 歴史わい曲を許さず”
9月26日 18時11分
ロシアのメドベージェフ大統領は、中国・東北部を訪問して、中ロ両国が歴史のわい曲を許さないために、ともに努力すべきだとする考えを示し、北方領土の領有をあらためて正当化するねらいがあるものと受け止められています。
ロシアのメドベージェフ大統領は26日、中国・東北部の旅順港を訪れ、日露戦争で戦死したロシア兵と、第2次世界大戦で旧日本軍と戦って死亡したソビエト兵の墓地で献花を行いました。このあと、旧日本軍との戦闘に参加した元軍人と面談し、「歴史的真実をねじ曲げようと試みる勢力がいるが、われわれは大戦についての真実を主張していかなければならない」と述べ、中ロ両国が歴史のわい曲を許さないために、ともに努力すべきだとする考えを示しました。メドベージェフ大統領は27日、北京で、中国の胡錦涛国家主席とともに、事実上の、対日戦勝65年を記念する共同宣言を発表することにしており、北方領土の領有について、さきの大戦の結果だとして、あらためて正当化するねらいがあるものと受け止められています。メドベージェフ大統領は、今回の訪問中、東シベリアの油田から中国に原油を供給するパイプラインの完成式典に出席するほか、上海万博も視察する予定で、中ロの連携強化を内外に示したい考えです。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20100926/k10014206811000.html
露で対日戦勝記念日 極東各地で65周年式典を開催 「日本は歴史をねつ造」と上院議長
2010.9.2 20:13
2日、ロシア・ユジノサハリンスクの栄光広場にある旧ソ連軍戦没者を慰霊する「永遠の火」の周囲に献花する市民ら(共同)
【ユジノサハリンスク=遠藤良介】日本が第二次大戦の降伏文書に署名した9月2日をロシアが事実上の対日戦勝記念日に制定したのを受け、極東各地では同日、戦勝65周年を祝う式典や軍事パレードが行われた。サハリン(樺太)の行事では、ソ連の対日戦を「解放」戦争だったとする発言が政官界から相次ぎ、ミロノフ上院議長は日本の北方領土返還要求を「歴史の捏造(ねつぞう)だ」と断じた。
新記念日の正式名称は法制定の過程で、「第二次大戦終結の日」と和らげられた。しかし、その狙いが、ソ連による日ソ中立条約を破っての対日参戦や北方領土占拠の正当化にあることが改めて鮮明になった。
北方領土を事実上管轄するサハリン州の州都ユジノサハリンスクでは2日、軍事パレードを含む式典が行われて市民ら数千人が参加したほか、「第二次大戦の教訓と現代」と題する「国際学術会議」が開かれた。
ミロノフ議長はこの会議で、「ソ連軍は中国東北部や北朝鮮、南サハリン、クリル諸島(千島列島と日本の北方四島)を解放した」と主張し、「勝利を祝うことは、戦争の結果見直しを許さないとの警告でもある」と述べた。また、州高官は式典で、ソ連は対日戦で「ロシア固有の領土を取り戻した」などと演説し、「偉大な勝利」を祝福した。
この日は極東の沿海州やカムチャツカ地方などでも式典や軍事パレードが行われ、中露国境のアムール川沿岸では中国側との合同行事も予定されている。
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100902/erp1009022018005-n1.htm
対日戦勝記念日 極東でも「解放者」史観の浸透図る 中国と連携も
2010.9.3 00:33
戦勝記念日の式典で行進するロシア海軍の水兵たち=ウラジオストク(ロイター)
【ユジノサハリンスク=遠藤良介】「ソ連はナチス・ドイツから欧州を解放した」。こんなロシアの国定「解放者」史観が、露極東や東アジアにも広がろうとしている。戦後65年の今年になって、事実上の対日戦勝記念日を制定した大きな狙いの一つがここにある。日ソ中立条約を破って1945年8月9日に参戦、15日の日本降伏後も一方的攻撃を続けた行為を「解放戦争」に高めるため、当局は上からのプロパガンダ(政治宣伝)に躍起だ。
旧ソ連・ロシアでは対ドイツ戦(41~45年)が「大祖国戦争」と呼ばれ、その5月9日の戦勝記念日は最も重要な祝日とされてきた。2700万人ともされる犠牲者を出す総力戦だったからにほかならない。ロシアは「欧州の解放者」との立場を誇示し、それを国民の結束と国際的地位の向上に利用してきた。
これに対し、ロシア側の情報でも死者8200人という対日戦は、ロシア社会での認知度が低かった。9月2日のサハリン州での行事は過去最大とされるものの、西部での対独戦勝記念日とは比べるべくもない。
「9月2日が『人民の祝日』かと問われれば、違う」。同州機関紙のセメンチク編集長はこう認め、「新祝日の浸透には時間がかかるかもしれないが、公式メディアとして積極的に記事にするなどで盛り上げている」と語った。
9月2日が近づくにつれ、州立の博物館や図書館は対日戦争勝利に関する特別展示を開始。ユジノサハリンスクの戦争経験者団体は市内の全学校で特別授業を行う。同団体のチュチンスカヤさん(81)は「南サハリンも南クリル(日本の北方領土)もロシア固有の領土であり、ロシアが軍国主義日本から解放した」と教えるつもりだ。
ロシアが対日戦勝史観を軸に、中国などと日本包囲網を形成する動きもある。ロシアのブヌコフ駐韓国大使は2日の行事で日本による中韓両国の被害を強調。「ロシアは連合国との参戦に関する責務(ヤルタ秘密協定)を果たし、大戦の終結を早めた。ソ連の対日参戦は連合国の結束の強さを示した」と語っている。
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100903/erp1009030038002-n1.htm
占守島の旧日本軍戦車展示 サハリンの郷土史博物館
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【ユジノサハリンスク共同】第2次大戦で日本の無条件降伏後、日本軍とソ連軍が激戦を繰り広げた千島列島最北端のシュムシュ島(占守島)に戦後65年間放置されてきた旧日本軍戦車の展示が1日、ロシア極東サハリン州の州都ユジノサハリンスクにある州立郷土史博物館で始まった。
サハリン州当局者は展示目的の一つを「当時の軍国主義日本に対するソ連の勝利を後世に残すことだ」と地元紙に説明。2日の「対日戦勝記念日」を前に、北方四島を含むすべての千島列島が戦争の結果、ソ連が獲得した領土とあらためて強調する狙いがあるとみられる。
占守島では、日本のポツダム宣言受諾後の1945年8月18日未明、ソ連軍が上陸し奇襲攻撃。武装解除を進めていた日本軍守備隊と戦闘となり、日本側の調査によると、5日後の停戦協定までに日本兵約350人が死亡。ソ連時代の国営紙は「ソ連兵の死者は約3千人」と報じた。
占守島の戦闘に参加した武蔵哲さん(88)=北海道石狩市=は「千島へのソ連軍侵攻は日ソ中立条約違反だった。ロシアは戦勝、戦勝と繰り返すが、正しい歴史を教えることなく、ロシア国民をだましているだけではないか」と話す。
2010/09/01 18:19 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010090101000702.html
「解放戦争」の現実 白旗に猛爆撃 サハリン残留日本人 泣いて断ち切った帰国の思い
2010.9.2 20:20
戦勝記念日の式典で行進するロシア海軍の水兵たち=ウラジオストク(ロイター)
ロシアの“対日戦勝記念日”を大々的に祝ったサハリン(樺太)は戦前、その南部(北緯50度以南)が日本領で、約40万人が住んでいた。ここには今も、65年前の8月にソ連の苛烈(かれつ)な侵略を経験し、戦後、さまざまな事情で帰国を断念した同胞がいる。ロシアが「解放戦争だった」と主張する対日戦によって、南サハリンの地に暮らしていた住民たちの命運は翻弄(ほんろう)された。(ユジノサハリンスク 遠藤良介)
「どの家の屋根にも大きな白旗が掲げられていたのに、ソ連の航空機はどんどん爆撃した。駅前広場はおびただしい血で、私たちは横たわる死者・負傷者をまたいで山の神社に隠れたのです」
日本が降伏した8月15日以降、地方郵便局に勤めていた根本ミヨさん(84)=ドリンスク(旧名・落合)在住=が、避難先のユジノサハリンスク(豊原)で体験したことだ。「コルサコフ(大泊)から出るはずだった郵便船も爆撃されていた」
8月22日には、北海道留萌沖で引き揚げ船3隻がソ連と疑われる国籍不明潜水艦の魚雷攻撃を受け、婦女子を中心に死者・行方不明者1700人以上を出した事件も知られている。
「上空の飛行機に、何も分からない子供たちは万歳をしていた。その飛行機が銃撃をし、発電所を爆撃したのです」。ブイコフ(内淵)で終戦を迎えた魚住笑子さん(79)=ドリンスク在住=もこう証言し、「日本の降伏後にソ連が攻撃することなど思ってもいなかった」と話す。
女性は皆、戦車などで乗り込んできたソ連兵を恐れ、髪をばっさりと切って男を装ったり、ボロを身にまとったりした。
戦後しばらくは引き揚げの機会はあったが、経済的理由などで戻れなかったという。
「娘を(残留)朝鮮人に嫁がせ、その金で親を引き揚げさせた人も多かった」と魚住さん。「私たち親子には金がなく、帰れなかった。引き揚げる友人たちを見送り、同じ日本人なのにと隠れて泣いていました」と回想する。
1946年12月には米ソ協定が結ばれて国の引き揚げ事業が始まったものの、ここで対象とされたのは日本人と子供のみ。40年代末までに魚住さんは朝鮮人と、根本さんはロシア人と結婚し、子供も生まれていた。家族と暮らすためには、帰国の思いを断ち切るしかなかった。
炭鉱労働の募集などでサハリンに渡っていた4万人ともされる朝鮮人も戦後、韓国への帰還の道は閉ざされた。残留日本人は「お前らはなぜ自分の国に帰らない」とロシア人にいじめられた上、反日感情を強めた残留朝鮮人との複雑な関係も乗り越えねばならなかった。それでも魚住さんは7人、根本さんは3人の子供をサハリンで育て上げた。
残留日本人やその子供たちで構成されるサハリン日本人会の白畑正義会長(70)によると、十数年前には300人ほどいた会員が今では約200人。ソ連解体後に日本や韓国での永住を選んだ人もいれば亡くなった人もおり、45年9月2日までに生まれた「1世」は95人ほどに減った。
「やはり子供や孫を残して日本に発つことはできない」(根本さん)。1世の多くは80代と高齢になり、永住帰国は難しい。その代わり、国の集団一時帰国事業で1年半に1度ほど、祖国の土を踏めるのを楽しみにしているという。
日本の降伏後に攻撃を続けたロシアが、「戦勝」に浮かれていることをどう思うのだろうか。
魚住さんは「戦争に勝った国よりも、負けた日本の方が立派な暮らしぶりだと言ってやる」と切り捨て、「私たちはここにいても日本人です」と力を込めた。
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100902/erp1009022022006-n1.htm
シベリア抑留9人処刑新たに判明 露記録、全容解明遠く
2010.8.30 01:34
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【モスクワ=佐藤貴生】第二次大戦後、約60万人の日本人がソ連に連行、抑留された問題で、抑留者9人が銃殺などにより処刑されたことを示す新たな記録が、29日までに見つかった。厚生労働省は、抑留者のうち約5万5千人が日本に帰国できず死亡したと推計しているが、処刑による死亡が明らかになることはまれだ。戦後65年が過ぎても、抑留の全容解明にはほど遠いことを象徴しており、ロシアの姿勢が改めて問われている。
新たな記録は、ロシアの歴史研究者が、モスクワにあるロシア国立軍事公文書館で発見した。館内に保管されている抑留者の生年や出生地などを記した「個人カード」を調べ、判明した。すべてロシア語表記で、ソ連の取調官の抑留者に対する尋問結果をもとに作成されたとみられる。
記録によると、9人は終戦翌年の1946年から50年にかけて処刑された。「反革命罪」の規定があるソ連刑法第58条に違反したとの記述もあり、スパイ活動に従事したと判断されたとみられる。
9人のカードの大半には「極刑」と書かれ、刑の執行日か死亡年月日が記されている。当時のソ連では、極刑は銃殺に処すのが通例だった。記録を発見した研究者は「死因が記入されていない人のカードでも、『極刑』と大きく書かれており、銃殺された可能性が高い」とみている。
刑は極東ハバロフスクやシベリアのチタで執行され、20歳未満の人もいた。同じ日に3人が処刑されたケースもある。判決期日は記載されておらず、略式裁判で即決された可能性もある。
ソ連で銃殺された抑留者について、総務省所管の平和祈念事業特別基金が発行した「戦後強制抑留史」(2005年)は、23人の氏名を掲載するにとどまっている。うち12人は産経新聞が00年7月に報じた。
今回明らかになった9人はこれとは別だが、処刑により死亡した抑留者の総数は不明だ。厚労省は抑留者の情報に関しては「プライバシー保護の観点から、本人か遺族からの調査依頼に限って応じる」としている。このため、抑留者がどのように死を迎えたかも第三者に公表していない。
スターリンのソ連は45年8月、日ソ中立条約を破って対日参戦した。満州などから日本軍の兵士や軍属、一般人の約57万5千人を連行し、2~11年間にわたって鉄道建設や森林伐採などの重労働を強制し、寒さや飢えなどで約5万5千人が死亡した。
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100830/erp1008300135000-n1.htm
【シベリア抑留9人処刑】「対日戦勝」正当化進める露 実態隠し
2010.8.30 01:44
【モスクワ=佐藤貴生】戦後最大の悲劇ともいわれるシベリアなどへの日本人抑留問題は、北方領土の不法占拠と同様、終戦直前に中立条約を破り対日参戦したスターリンのソ連が引き起こした。人道に対する罪といっても過言ではない。にもかかわらず、後継国家ロシアは今年、日本が降伏文書に署名した9月2日を事実上の“対日戦勝記念日”に制定し、日本人抑留の実態などを覆い隠したまま、参戦を正当化する戦略を推し進めている。
ロシアは1991年に締結の日ソ政府間協定を継承し、抑留中に死亡した日本人の名簿を段階的に日本側に提供してきた。昨年には、70万枚もの抑留者の経歴を記した「個人カード」の情報の引き渡しも始まった。だが、戦後40年以上が経過した後の情報提供開始は、遅きに失したというほかない。宅地造成や墓地の移動、ロシア人との合葬などで遺骨の発見、特定はますます困難を極めている。
さらに、ロシア側の不誠実な対応も目につく。91年の協定には、「日本人死亡者の埋葬地が適切な状態に保たれるよう努めること」と明記されている。だが、昨年ロシアの抑留者墓地を訪れた元抑留者は「墓の荒廃がひどい」と証言する。ロシア政府は抑留者墓地の整備費を、ほとんど予算に計上していないという。
抑留者本人はもちろん、その子供の世代も高齢化が進み、一刻も早い実態解明が待たれている。チチハル(現中国黒竜江省)の特務機関長で、ソ連に抑留された田中義久さんの長女、内田和子さん(75)=名古屋在住=は「墓地はもちろん、どこに収容されていたかもいまだに分からない。ソ連は許せない」と話す。
一方で、スターリンのソ連が2万人以上のポーランド人を連行、銃殺した「カチンの森事件」(40年)では今年、歴史的な和解が実現した。ロシアとポーランドの首相が初めて現場で顔を合わせ、70周年の追悼式典に参加した。
ポーランドは欧州屈指の対露批判派として知られ、ことあるごとにロシアの高圧的な対外政策を批判してきた。同事件をめぐる対露不信もその一因だ。
領土問題が横たわる日露関係と同列には論じられない。が、真の相互信頼関係を築こうと考えるのなら、日本政府もポーランドのように「言うべきことは毅然(きぜん)と言い続ける姿勢」を堅持すべきだろう。
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100830/erp1008300145001-n1.htm