~Memory Of Melodies~

趣味の範囲で色々なことを書き殴るブログ

「99%の誘拐」

2006年10月25日 | Weblog
肌に突き刺さる冷気に、街中が凍えているようだ。 凍てつく雨の刃は容赦なく、アスファルトを穿つ。 木々の咆哮と崩壊しかけた雲。 まるで、この世の終わりを告げるかのような地上だ。

僕はどうやら風邪をひいたらしく、歩くのがやっとだ。 急ぎ足で歩いているのに、前を行く女の人に追いつけない。 久しぶりに風邪をひくことになる。 こんなにも辛かったか・・・。 

この世の終わりと僕の身体の崩壊。 季節の変わり目とはよく言うが、不注意だった。 不規則な生活も祟ったか。 今日は早く寝ることにしよう。 しかし、その前に・・・。


今日、紹介したいのは一冊の小説である。 作者の名は岡嶋二人。 実はこの岡嶋二人は、その名の通り二人いる。 一人は徳山諄一(とくやまじゅんいち)、もう一人は井上泉(いのうえいずみ)である。 尚、井上泉に関しては、今は井上夢人という名前で活動している。

タイトル「99%の誘拐」

先ず、この本の初版が1987年ということを踏まえて話を進めていこう。

現代にも語り継がれている3億円事件・・・が起こる数ヶ月前。 事件は、ある園児誘拐事件から始まる。 

その園児を誘拐した犯人からの身代金要求額は、金の延べ棒5000万円分だった。 園児の父親は、日本でも有数の電子工業会社の社長。 不良品問題で、倒産寸前だった会社だが、大企業との合併よりも、やっと集めた5000万円で経営再建をしようとしていた矢先の出来事。 その5000万円を、犯人の要望で社長と部下二人の三人で運ぶことに。 三人は犯人によって散々移動させられた後、海の中へ金の延べ棒を沈める。 園児は犯人によって解放されるが、いくら経っても沈めた延べ棒を取りに来ない犯人。 結局、事件は時効を迎えてしまう。

誘拐された園児の父親は、5000万円を失い、仕方なく大企業との合併に踏み切る。
しかし、体調を崩してしまい、そのまま帰らぬ人に。

その父親が生前、残した手記を息子(当時、誘拐された園児)が発見。 実はその手記は息子に宛てられたもので、そこには誘拐事件の裏がギッシリ・・・。 それを見た息子がある計画を立てる。 そう、誘拐である。

ここまで見て分かるように、犯人は最初から分かっている。 読んでいると、古畑任三郎を想起してしまうが、似ていないとも言えなくはない。

青年は自分が誘拐された状況になぞらえて、父親の企業が合併した大企業の社長の孫を誘拐。 犯行に関わる事は全てPCで行い、電話での応対は合成音声、逆探知されないように他人の家のコードレスの電波を利用したりする用意周到ぶり。 そして問題の身代金は、10億円分のダイヤ。 どれぐらいの量になるかと言えば、約タバコ1箱ぐらいだそうな。

そして、犯人がその10億円分のダイヤを運ぶ人物に指定したのが、犯人。 そう、自らの名前を名のり、犯人自らダイヤを運ぼうというのだ。 

ダイヤを手にした青年、青年のことを疑う上司、他に犯人がいると思っている警察。 三者の背景、また心理描写が豊かに盛り込まれ、クライマックスでは心理戦
に近いものを感じてしまった。

今で言えば、それほど奇抜な発想ではないのかもしれない。 しかし、当時の87年を、また合作ということを考えても、なかなかこういう推理小説は書けるものではない。 

岡嶋二人のことは、以前から知っていたが読んだ事はなかった。 しかし、名前が轟くだけのことはある、何度でも読めそうな本だ。

さて、長くなってしまい、また寝る時間が遅くなってしまった。 このままじゃ、明日、いや、今日は倒れてしまうかもしれない。

画像は、散歩した小学校の窓越しに撮った写メである。

「涙そうそう」

2006年10月21日 | Weblog
街明かりに溶けそうになる自分の輪郭。 それを保とうとすればするほど、心が鎖で縛られて鍵がかけられる。 そう、自分で鍵をかける。

鎖の隙間から入り込む月光がやけに疎ましく思う。 照らさないで欲しい、僕には人に見せられる心などないから。 見つけないで欲しい、僕の心の鎖に触れてしまっては、君の心まで鎖に縛られてしまうだろう・・・

深く、深く、海底よりも、空の青さよりも、宇宙に空いた穴よりも深く、深く沈んでいく自分。 

白い輝きが手招きする方へ、女神が広げる羽根の方へ、信じてみようか。 そこに自分の求めるものがあるのなら。 不思議と周りの空気が柔らぐと、地に足が着いた。 

僕らは常に何かを求めている。 特に「自由」を求める。 しかし、それは無理な話。 人間を一番「拘束」しているものは時間なのだから。 でも、その限られた時間の中で人よりも少しだけ、多くの幸せを感じることは出来るはずだ。 僕らの求めるものは、そこにあるのかもしれない。


さぁ、今回は先週見た映画のお話。

 「涙そうそう」

ご存知、森山良子の成人までにまつわる実話の映画化である。

森山良子の役でもある、新垣カオル(役名)を演じるのは、TBS系ドラマ「セーラー服と機関銃」で、浅草のヤクザの組長を演じる長澤まさみ。 ちなみに長澤まさみの父親は、初代ジュビロ磐田の監督を務めた長澤和明氏である。

そして、映画の中で「にぃーにぃー」と呼ばれる羨ましい役でもある、新垣洋太郎(役名)を演じるのは、ガスファンヒーターのCMで、歴史上の偉人達と絡む妻夫木聡である。

舞台は勿論、沖縄。 高校入学をきっかけに、洋太郎と再会したカオル。 洋太郎はカオルのため、また自分の店を持ちたいという夢の為に、身体を酷使して働いていた。

母親(小泉今日子)は洋太郎が小さい時に再婚。 その夫が連れていた子供が、実はカオル。 その夫が突然の失踪で、母親は元気をなくし、病床に伏せってしまう。 母親はなくなる前に、洋太郎に「カオルを守ってあげて」と頼み、洋太郎が涙を流しているのを見て、「涙をこらえたい時は鼻をギュッと握るんだよ」と、洋太郎の鼻に手を差し伸べたが、その手が力なく落ちてしまう。

季節は巡り、カオルの大学受験。 しかし、カオルは洋太郎を助けたい、と内緒でバイトを始める。 そのことを知った洋太郎は、大激怒。 大切な夏休みの時期を無駄にするな、とカオルの頬を叩く。 

時すでに、カオルの感情は兄を愛するというよりも、一人の男を愛する感情にあったため、ひどく落ち込んでしまう。 そして、偶然の父親との再会・・・。

その後、カオルは洋太郎と離れて暮らす決心をする・・・。 その時、洋太郎の心にカオルを思う気持ちが垣間見える。 その時、洋太郎がとった行動は・・・。


映画はタイトルにもあるように、涙を流すシーンが多く使用されている。 しかし、泣きすぎじゃないかってくらい二人とも泣いている。 話の内容的には、とてもいい話だが、映画全体から伝わるのは、泣けって言われてるような印象を受ける。 

ただ、妻夫木聡も長澤まさみもハマリ役で、演技力には見張るものがあったと思う。 二人とも上手く役柄をこなしていて、その点では、映画にすんなり入り込めたと思う。

映画を見てる最中に流れるBEGINの「三線の花」。 かなりいい曲だが、それを後ろで口ずさむ親子。 環境的にはちょっと頂けなかったかもしれない。

この映画のタイトルである「涙そうそう」は、確か森山良子がBEGINにエピソードを聞かせ、BEGINがそれを作曲した歌のはずだ。 夏川りみが、BEGINにどうしても歌いたいので歌わせて欲しい、と言ったら、BEGINは何度も断ったというエピソードがある。 なぜなら、この歌にはこんな物語があるのだから、と夏川りみに言い聞かせたという。

沖縄には二度ほど、足を運んだことがあるが、あの時間が止まったような空間は、東京では絶対には得られないものである。 東京に比べ、自然が多くて、綺麗なものが多すぎるくらいだ。 夜の海から聞こえる波の歌声、街の明かりが煌々と騒がしいところもあったりもする。 都会とは違う場面を見るだけでも、来て良かったと思える。

その沖縄の良さと、森山良子の記録を知ることの出来る映画「涙そうそう」。 若干、批判的になってしまったかもしれないが、真実は小説よりも奇なり。 百聞は一見、というところだろう。 

画像は、長澤まさみを書こうと思ったが、上手く書けず、これから公開される「DEATH NOTE(後編)」に登場する戸田恵理香になってしまった。 基本、女性しか書かない宇宙猫なので、あしからず。

「譜面のない音楽」

2006年10月10日 | Weblog
どこかで温もりを得た風が、僕の溜め息も一緒にさらって行く。 ありもしない溜め息の残像を目で追いかけると、そこには少しだけ欠けた月が、寂しそうに空に浮かんでいた。

刻一刻と過ぎる時間を街に重ねても何も変わらないのに、自分に重ねてみると、こんなにも変わった、なんてことを思う。 過去ばっかりみるもんだから、前が見えづらくなってしまったのかもしれない。 

目を閉じて、深呼吸を一つ。 まぶたの裏に新世界が広がる。 目を開けて、右足から前に踏み出す。 紛れも無い新世界へ。 家に入ると、猫が気だるそうに泣き声を一つ。 どうやら僕の新世界は、いつもと変わらないらしい。 相当、お腹が減っているのか、猫が鳴き続けてる。 僕もだ。


さて、今日は前回の予告通り、久々に音楽を語らせてもらいたい。 タイミングよく、昨日は友人が出演するライブを見に行ってきた。 場所は、新高円寺の「クラブライナー」。 友人は「フラフラ眼鏡」というバンドのドラムを担当している。

実は、友人のライブを見るのは今回で2度目。 初回は、正直に言うと、それほど期待していなかった。 何故なら、友人達のライブが始まる直前の出番にあるバンドが、それほど僕の心に響かなかったからだ。 こんな演奏が延々続くのか、と思ったくらいだ。

そして、友人達フラフラ眼鏡の出番。 初回の演奏が始まると共に、裏切られたと思った。 直前に演奏していたバンドとは、こうも違うものか!と思ったくらいだ。 

特に裏切られた曲「ヲサマラズ」は、気付けば、僕は笑っていた。 それは聞いてる内に楽しくなっていたからである。 友人が言うには「ヲサマラズ」は、決まった部分以外の譜面がなく、好き勝手に自分達で弾くという曲らしく、時に激しく、時にゆっくりとした演奏が続いた。 見事だ。

インディーズの醍醐味を挙げれば多々あるだろうが、やはり「これが自分達の音楽なんだ!」と見せつけてくれるのが一番いい。 そして、自分達も楽しく演奏する。 音楽は「音を楽しむ」というのは、ありきたりな意見になるが、実際に楽しんでいるアーティストは少ない。 こと、メジャーに関しては、それが良く言える。

話を元に戻すが、「ヲサマラズ」に楽譜がないと友人が語っていたように、実際に2度目のライブである今回は、前回と全く違った。 そこも、また良い。 しかも、今回は僕の好きなロック系の音楽が多かったので、楽譜のない「ヲサマラズ」も、そんな感じに。 

次回は、下北沢で自主企画イベントをするそうな。 28日の土曜日だと言っていたので、急用がない限りは行くつもりである。 勿論、友人としてでなく客として。 

画像は、昨日行ってきた「クラブライナー」というライブハウスに続く、地下への階段。携帯撮ったら、思いっきり「カシャリッ!!」と音がして焦ってしまった。

「MOMENT」

2006年10月03日 | Weblog
誰も乗らない電車が、閑静な街に流れる時間を切り裂くように、ホームに駆け込んでくる。 いつもは降りない駅で急行を独り待っていた僕は、そんなことを思いながらも電車よりも街並みばかり気にしていた。

僕が好きな景観は、夜の始まり、家の窓から漏れる橙色の灯り、母親と子供の声、少しだけ冷たい風、自然溢れる公園、星の瞬き・・・これらが全て揃った時に完全となる。 ワガママかもしれないが、東京には滅多に見ない景観である。

僕は一度だけ、この完全を味わったことがある。 それは、友人の住む千葉に遊びに行った時だった。 ちょうど、こんな季節。 夜に公園のベンチに座り、何を話すでもなく、星を見たり、木を見たり、目の前に見える団地の窓(たぶん、お風呂)からは橙色の灯りが漏れていて、母親が息子を叱る声が聞こえる。 「お兄ちゃんと一緒にお風呂に入りなさい!」と。 それを「嫌だ!」と、息子の泣く声も。

僕の世界の片隅には、明日を待ちわびる太陽があって、出しっ放しの洗濯物があって、猫がベンチで欠伸をしていて、街灯に群がる虫がいて、時々、車が通る音が聞こえて、僕の携帯のストラップがカシャカシャ鳴って、友人のタバコの煙があって、こんなにも幸せで平和なんだ、って思った。

さてっ・・・て、前置き長すぎた。 書いてる内に止まらなくなってしまったので、ここで歯止めをかけておく。

今日は予告通りの読み終わった小説の紹介をしたい。

「MOMENT」 本多孝好

舞台は、病院。 そこで掃除夫としてバイトをする主人公が語り手となっている。

話は院内で流れる噂をきっかけに始まるのだが、その噂とは「死を前にした患者の前に、白装束の男が現れ、一つだけ願いを叶える」というもので、その白装束の男こそ語り手なのである。

死を前にして、人は色々なことを考えているものである。 話を読み進めていくと、生前に残した悔いが大きいようだが、後悔先立たずと言うように、それは誰しもが持っていることであろう。 その願いを叶えようというのだから、きっと良い事だ、と思うのは、人の先入観。

例えば、その悔いが「仇討ち」や「復讐」だとしたら、どうだろうか。 それは、人を操り罪を犯させることになる。 そう、本の中では、このような内容もある。 死を目前にした人間が、哀願する事は全て善とは限らないのだ。

小説の中に出てくる場面で、僕が好きな場面があったので、ここで一つだけ紹介しておく。

子供が、庭で空き缶を立てて距離をとり、それに向かって石を投げる。 時に激しく、時に優しく、それに当たるまで止めようとしない様子。 それを見ていた一人の男が、子供が投げると同時に、その缶めがけて石を投げると、見事命中し空き缶が倒れる。 子供は自分が当てたものと思い、満面の笑みで病院の方へ駆け出す。 男は、もう一度、空き缶に石を投げてみるが当たらなかった。

このシーンで、子供は何のために空き缶を倒そうとしてるのか。 それは、僕も小さい頃にしていたので分かるが、「あの缶を倒せば、お父さんやお母さんの病気がよくなる」という、一種のおまじないのようなものである。 一発で倒れないときは、今のは練習、などと思い込み、もう一度同じことをする。 このシーンを読んでいて、凄く懐かしく思った。

話を元に戻すが、この世に生まれた瞬間に決められてしまう死への旅。 考えない人はいないだろう。 それを、病院という舞台で、人間の心理描写をも巧みにとらえている、この小説は中々面白かった。 もう一度、読んでもいいと思う小説は中々出会わないが、これなら、読めそうだ。

古本屋に10冊くらい並べてあったので、どれだけつまらないのか、と思いきや、結構な代物。 読んでいて、胸が痛くなるシーンや勉強になるシーンもあるが、それだけ本に味があるということ。 本は一気に読むのではなく、じっくり読むという方には、オススメである。

さて、次回は何を書こうか? 今日は、新しい小説に手をつけたばかりだし、映画は結局見れなかったし。 というわけで、次回は音楽で。

画像は秋茄子。 「秋茄子は嫁に食わすな」という言葉があるが、この言葉には二つの意味がある。 一つは、「秋茄子は美味しいので、嫁に食わせてはもったいない」という姑の言葉。 もう一つは、「秋茄子はお腹によくないので、嫁に食わせないように」という母体保護を謳った言葉。 どちらかと言えば、後者の意味が好きである。