出張で関西へ。
途中でいつも富士山が見える区間がある。
俺が一番好きなポイントは、のぞみで三島駅を通過
するあたりで見える富士なのだが、今日見たのは
これまでの冬の澄んだ空気の向こうにあるくっきり
とした富士ではなく、春霞の向こうにぼんやりと
浮かび上がる幻想的なものだった。日本画を見て
いるようで、本当に幻想的だった。
俺の父は山を専門に描く画家で、長野の山と、
ヒマラヤの山を描く。
本人が意図しているのか、あるいは自分で気づきさえ
していないのかもしれないが、長野とヒマラヤでは、
まるで違う人が描いたのではと思うほど画風が違う。
長野の山はいかにも「日本の風景」然としていて、
なんとものどかな画風なのであるが、ヒマラヤを
描くときの父の絵は、空気がピンッと張り詰めた
ような印象を与える。
冬の澄んだ空気の向こうに見える富士の風景は
父のヒマラヤの絵的であるのだが、今日見た春霞
の向こうに見えた富士は、父の長野の山の絵よりも
もっと絵画的で、はじめてみた富士の表情であった。
途中でいつも富士山が見える区間がある。
俺が一番好きなポイントは、のぞみで三島駅を通過
するあたりで見える富士なのだが、今日見たのは
これまでの冬の澄んだ空気の向こうにあるくっきり
とした富士ではなく、春霞の向こうにぼんやりと
浮かび上がる幻想的なものだった。日本画を見て
いるようで、本当に幻想的だった。
俺の父は山を専門に描く画家で、長野の山と、
ヒマラヤの山を描く。
本人が意図しているのか、あるいは自分で気づきさえ
していないのかもしれないが、長野とヒマラヤでは、
まるで違う人が描いたのではと思うほど画風が違う。
長野の山はいかにも「日本の風景」然としていて、
なんとものどかな画風なのであるが、ヒマラヤを
描くときの父の絵は、空気がピンッと張り詰めた
ような印象を与える。
冬の澄んだ空気の向こうに見える富士の風景は
父のヒマラヤの絵的であるのだが、今日見た春霞
の向こうに見えた富士は、父の長野の山の絵よりも
もっと絵画的で、はじめてみた富士の表情であった。