所変わって北極の民イヌイットが住む世界は、白が支配する世界「白」や「黒」は明るさを意味する言葉で、色ではないとされているものの雪や氷の状態の微妙な違いを見分ける事が出来るのだろう。冬、白色の世界の住人である彼らは、16、17の白を示す言葉を持つという、我々日本人は、四季があり、温帯、海に囲まれ南北に長く、等々変化に富む地勢的な理由からか、繊細な違いを表す多くの色名を有する世界でも稀な民族と認識しているが、北極の白の世界を16、17も区別、認識する事はおそらく不可能な事と思われる。認識する事が出来ないという事は、つまり聞いても、読んでも理解出来ないという事であり、青い空、白い雲、赤いドレスのダンサーが…と言ってみても百人百様思い描く色は異なるといういい加減な所があるのであり、普段の会話の中で共通に認識していると錯覚しているだけで、随分と多くの誤解を無視しながら情報の交換は進んでいるのである。
これは、別に色に限った事ではなく、例えばフィリッピンアンダマン海で水上生活を何世代にもわたり営々と営んできた漁民の一族が水平線に対する思い、イメージ、近くはよく手入れされた京都北山杉の垂直線の中、あるいはまた垂線と水平線で構成されたビルの林立する摩天楼の環境の中で、小さな頃から日常を過ごした人間では空間を構成する其々の線に感じるイメージが当然異なるはずである。
要約するなら人間が創り出した多くの曖昧さを内包する『言葉』のみならず実際に目に映る『色』や『形』あるいは『音』?までもが個々の体験からくるイメージのズレを有しているという現実であり、これらを最小単位として構成されている文学、平面あるいは立体等の視覚又音楽等の表現領域においては相当な行き違いがあるとしても不思議な事ではないはずである。こうした事が先に紹介したH氏の「我々は自分の見ている(感じている?)……」との誰もが一度感じた事のあるであろう疑問?漠然とした不確かな不安をもよおした原因なのかもしれないのである。
長い事、物を創り出す傍ら矮小な美意識を論じて来た事を振り返ってみた時、軽い眩暈にも似た恥ずかしさを覚えているのは、最近とみに美について論じる機会が少なくなった事が幸いしているのかもしれないと、日課の様になった黄昏時のぼんやり時間、草むす庭?で谷川のせせらぎ声を聞きながら物を創り出す背景について考えるのである…。 《頭目》