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やおよろず

2008-08-31 00:03:40 | 日記・エッセイ・コラム
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水木しげるは、隻腕の漫画家、先の大戦、赤紙一枚で送り込まれた場所は、魑魅魍魎の支配するパプアニューギニア、ニューブリテン島と聞く、敗戦の色濃い末期、緑の魔境ジャングルをあてどなく彷徨ったのではないだろうか。何処をどの様に移動転進したのか知る由もないが、飢えと絶望、消えそうな意識が知性を消した時、黄土色の流れの渕や陽光を遮る緑の空気に潜む幾多の命の化身、精霊を見させたのではないだろうか。
時代は違ったが大河セピックの流れを逆登り、同じ空気を吸って来た僕には、彼の代表作『ゲゲゲの鬼太郎』の中にかの地の気を確かに感じるのである。同じ様に遥か以前から我々の大地にも“八百万の神”は棲み、第六感?なる不思議力を永々と引き継ぐ一族か、卑弥呼をはじめとするシャーマン達が、万物に畏敬の念を抱く大衆との交感をとりもっていた、と思われるのだが、7世紀大陸からやって来た眩いばかりの光輪を背にした仏様、当時最先端の魔法の技をふりかざし、無垢の魂を次第に虜にしていった。

だんだんと忘れられていく路傍の石や老樹の洞に棲む、よろずの精霊達、人々の目にその姿があまり映らなくなってどのくらいの時が流れたのだろう。それでもしかし、安曇野や国東の道祖神や野仏を訪ね、時おり手を合わす御人も増えてきているらしい。1960年後半、ヒッピーなる人種が生まれ、活動していた経済優先社会から放り出され、再び夢の世界へ心を向けているのかも知れない、と一人勝手に「創造」しているのであるが、かくいう僕の土面作りに寄せる思いも似たようなものかも知れない。ちなみに我国の先住神、八百万様は、今でも年に一度、十月に出雲の社に出向き、どんちゃん騒ぎをしているらしく、大変結構な事ではあるが、じわじわと進行している地球規模の気候変動をどう考えているのだろうか。

我々の生活にもはっきりと目に見える形となって現れて来た温暖化、それに伴う諸困難の問題は、我々生き物の記憶の及ぶ範囲にない速度で進行しているのが、最も問題であり、対応を難しくしている原因なのだ。
白熊をはじめ、生命=“魂の宿主”の多くが対応出来なく、生物の多様性=“八百万の神”が失われるという事は、とりもなおさず、無数の命の均衡の中で成り立っている我々の活動が、継続出来なくなることを意味するのだ。

“一寸の生にも五分の魂”大切な言葉なのに、あまりにも大きな人の罪に隠れ、虚しく感じる今日この頃、遥か昔、祖母がよく口にしていたのを思い出す、五分の魂とは、小さな体の一つ一つの細胞に宿る“生”に対する執念のことではないか。   《頭目》

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蕎麦畑:耕す、種蒔き編

2008-08-30 08:30:52 | 日記・エッセイ・コラム
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『蒔かぬ種は生えぬ』
晴耕雨読といきたいところであったが、なかなか思い通りにならないのが現実である。
鍬を振り上げたり、小さな耕運機で畑の土を耕し、その後、浅い溝を作り“秋そば”の種を蒔く。
種を蒔いた後は、全く手をかける必要がないそうだ。その言葉を信じ、そして愛情を持って観察する事にしよう。
芽が出ますように…  《瑠素番虫》
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蕎麦畑:草刈編

2008-08-22 21:42:43 | 日記・エッセイ・コラム
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草で一面が覆われた休耕田の草刈についに取り掛かった。
フランスを代表する画家、フランソワ・ミレーの『種を撒く人』を想像しながら、100坪程の畑に“蕎麦”を育てる事が決まった。ミレーの絵は蕎麦ではなく、麦であったが…。
ミレーの地面に未来のパンを撒いていると絶賛された絵に対抗?し、我々は、地面に未来の年越し蕎麦?を撒くぞ~!!

参加、挑戦者の石橋君が“萱の根”を掘り起こそうとしたが、根の張りが深く、萱は手強い相手であった。草刈をしていると、農業の達人である村の爺が、我々農業素人集団を心配してか、ご指南くださった。

無謀な計画、小さな夢を現実?にする時がやって来た。約70日後位には、蕎麦の花が咲き、畑一面が真っ白な絨毯になる予定である。  《瑠素番虫》
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一寸法師になり隊

2008-08-16 22:25:24 | 日記・エッセイ・コラム
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《上段写真:オリジナルボートは、大型バスのタイヤチューブに大きな金タライをはめ込み制作》

百井天骨洞、桜谷の清流と大見の流れが合する安曇川源流にて、ラフティング。ビッグウェーブはないものの、隠れたナイススポットである。
天骨洞頭目制作のオリジナルボートとオールで川遊び。(実は、頭目が中学生時代に遊んだアイテムである。)
川辺には鹿の足跡があったり、小さな命を見つけたりしながら、真夏のひと時を大満喫!
うっひゃぁ~~、恐るべし、一寸法師願望集団!! 困ったものだ… 《瑠素番虫》


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おごり

2008-08-12 06:30:27 | 日記・エッセイ・コラム
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天骨洞ビオトープ農園の少し下手に、金網で囲まれたかなり広い田畑がある、所ゝ虫食いの様に点在する休耕田、その中のややマシな一角を、村おこし?の為、体験農場とし30名あまりの“まじめ農業を目指す都会人”が、百井のじいの指導の下、第一撃?の鍬を入れたのが昨年の春、若者の食への危機感、大量定年者の自然回帰か、今年は参加者が60名、希望者はかなりの勢いで増えている。これは、ここ百井だけの話ではないだろう。この現象に刺激され始めた訳ではないが、昨年の大反省もあって、ドラム缶植木鉢?3つにトマトの苗を植え、ペット感覚の遊びを始めてから一ヶ月近くになるだろうか。
小さなゝミニ畑へと発展、夕方の水やりは「ブツブツ」と彼女たちとおしゃべりの時間、陽が傾くのが待ち遠しいのである。

先に記した酵母を育ているのとほぼ同じ感覚なのだが、確かな存在の反応を実感出来、たまに〝てんとう虫〟などに葉の先っぽをかじられながらも日々その姿を大きくしていく様は、接する度合いに比例して、いじらしさが増していくのを感じる、心が同調するのだろうか、この点、フツフツと屁を出す事で、僕のおしゃべりに応えていた〝酵母君〟とは、随分親しみの質が違うのである。
我々動物と全く別の個性である彼等、異次元の心と交換する手段は論理的に説明できるはずもないだろうが、無心に草花の写生に励む花鳥画命のお絵描きさんなどの中には、存在を確かに感じる人もいるのではなかろうか……と瑠素番虫に話していたら、旧来の知己である大原在住の香草研究家〝ベニシア・スタンリー・スミス〟も常に敷地内の野草に接する時、やさしく語りかけるという。波乱に富んだ年月の果てに、香草と共に見つけた安住の地で、彼女もまた未知の魂を第六感で確かな存在として知覚しているのであろう。

そうこう話していると、久しぶりの来客?である嘗ての教え子夫婦、旦那の両親も市内に借りている菜園の野菜達に……
よくよく廻りを見てみると以外と植物を擬人化、お話し相手にしている人が多い事に気付く、昔からあった行動なのか、、人間性を失い無視する社会と個性が、相剋する果てに起こる痛んだ魂の逃避行なのか、以外と感情移入のし易い彼女達、一方的に付き合い易いということは、病んだ心の平衡を保つ最後のコミュニケーションなのかも知れない。

哀しい程に痛ましい“秋葉原の事件”が、何故か脳裏に一瞬現れ消えた。人間は万物の霊長などと浅はかな自我自賛高慢ちきを今はあまり耳にしなくなった、大変喜ばしい事ではあるが、小さな虫や命を持たない機械にまでやさしく親しく話しかける風景は社会への絶望かはたまた薄っぺらな己の知、人がえいえいと積み上げて来た知恵で証明出来ないものの存在に本能的に気が付いているのか、先週ブログで記した名著の中で著者の西村先生は、ある高名な育種家、バーバンクの最晩年の仕事を紹介している。
非常に興味深い一文のあらましは、『サボテンしかない乾燥地、羊が口を棘だらけにして、痛々しくサボテンを食べているのを見た彼は、“棘なしサボテン”の育種を決意するが何度やってもうまくいかず、最後に「私が守ってやるから棘を出さなくていいよ」と何度も何度も呼びかけながら育種を続け……そうして出来たのが棘なしサボテン……』実話だそうだ。  《頭目》
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