水木しげるは、隻腕の漫画家、先の大戦、赤紙一枚で送り込まれた場所は、魑魅魍魎の支配するパプアニューギニア、ニューブリテン島と聞く、敗戦の色濃い末期、緑の魔境ジャングルをあてどなく彷徨ったのではないだろうか。何処をどの様に移動転進したのか知る由もないが、飢えと絶望、消えそうな意識が知性を消した時、黄土色の流れの渕や陽光を遮る緑の空気に潜む幾多の命の化身、精霊を見させたのではないだろうか。
時代は違ったが大河セピックの流れを逆登り、同じ空気を吸って来た僕には、彼の代表作『ゲゲゲの鬼太郎』の中にかの地の気を確かに感じるのである。同じ様に遥か以前から我々の大地にも“八百万の神”は棲み、第六感?なる不思議力を永々と引き継ぐ一族か、卑弥呼をはじめとするシャーマン達が、万物に畏敬の念を抱く大衆との交感をとりもっていた、と思われるのだが、7世紀大陸からやって来た眩いばかりの光輪を背にした仏様、当時最先端の魔法の技をふりかざし、無垢の魂を次第に虜にしていった。
だんだんと忘れられていく路傍の石や老樹の洞に棲む、よろずの精霊達、人々の目にその姿があまり映らなくなってどのくらいの時が流れたのだろう。それでもしかし、安曇野や国東の道祖神や野仏を訪ね、時おり手を合わす御人も増えてきているらしい。1960年後半、ヒッピーなる人種が生まれ、活動していた経済優先社会から放り出され、再び夢の世界へ心を向けているのかも知れない、と一人勝手に「創造」しているのであるが、かくいう僕の土面作りに寄せる思いも似たようなものかも知れない。ちなみに我国の先住神、八百万様は、今でも年に一度、十月に出雲の社に出向き、どんちゃん騒ぎをしているらしく、大変結構な事ではあるが、じわじわと進行している地球規模の気候変動をどう考えているのだろうか。
我々の生活にもはっきりと目に見える形となって現れて来た温暖化、それに伴う諸困難の問題は、我々生き物の記憶の及ぶ範囲にない速度で進行しているのが、最も問題であり、対応を難しくしている原因なのだ。
白熊をはじめ、生命=“魂の宿主”の多くが対応出来なく、生物の多様性=“八百万の神”が失われるという事は、とりもなおさず、無数の命の均衡の中で成り立っている我々の活動が、継続出来なくなることを意味するのだ。
“一寸の生にも五分の魂”大切な言葉なのに、あまりにも大きな人の罪に隠れ、虚しく感じる今日この頃、遥か昔、祖母がよく口にしていたのを思い出す、五分の魂とは、小さな体の一つ一つの細胞に宿る“生”に対する執念のことではないか。 《頭目》