先生がお見えにならないまま司会がややかすれた小さな声で「定刻なので・・・」と言った。嫌な予感がした。
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「大変残念なご報告ですが、昨日、At先生が・・・」
司会の声は聞こえているが頭の整理がつかない。心の整理がつかない。
約二時間の研究会だったが内容なぞほとんど頭に入らなかった。ただ茫然と時間だけが流れた。事実を受け入れられないまま帰途についた。
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何日か経って「偲ぶ会」がもたれた。
正面にお元気だった頃のお写真が置かれた。
一番後ろのイスに座りぼうっと参列者の背中を眺めていた。
別の学会で知り合った人が私を見つけ話しかけて来た。
「先生とはどういうご関係でしたか。」
「・・・」
「ゼミにいらしたのですか。」
「・・・」
「生前はどんなご様子でしたか。」
「・・・」
間を置きながらこんな質問をした。
だが、何も答えられなかった。口を開こうとすると涙があふれそうになり何も言えなかった。
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「じゃぁ、失礼します。」と言ってその人は前の方に歩いて行った。こちらの方が失礼をした結果になった。
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最後に奥様のお話があった。
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先生は十分生き切った、とあのとき奥様はお感じになったそうだ。
階段を上るときはいつも一段飛ばし。
アキレス腱がずいぶん太いと感じられたお話。
そんなガッテンのお話もされた。
会場から小さな笑い声が出る軽妙で悲しく切ないお話だった。
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運命を変えることは誰にもできない。
ご冥福を祈るしかない。合掌
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時計を1979年に戻そう。
At先生の通教の教科書が手に入った。
それだけでなく、私の学習環境はさらにどんどん大きく変化していった。
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Ha先生が教職員用に配布された自動車入構証を貸してくださった。これがあるとキャンパス内に自動車を駐車することができる。信じ難いほど有り難いことだった。
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そのおかげで、大学まで約20分で行くことができた。電車とバスを乗り継ぐと2時間近くかかるところだ。
毎週2回、At先生の刑事訴訟法の講義を聴くにも好都合だった。通学に要する時間を勉強に振り向けることができた。
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さらに、このとき、すでに、「努力できなければ諦めろ」との書名の解釈がまことしやかに伝承されていたAt先生の「刑事訴訟法要諦」の再版が完成し入手できた。
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刑事訴訟法の勉強に加えドイツ語の勉強にも時間をかけた。多摩に来てからも引き続きKa先生の大学院のゼミにお邪魔に上がっていた。
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教材はドイツの民法学者Karl Larenz(カール・ラレンツ)のMethodenlehre der Rechtswissenschaft(法学方法論)である。
ラレンツは民法学者であるが同時に法哲学者でもあった。
内容は民法だが論理的思考力を鍛えるには、また、ドイツ語の力を付けるには刑法である必要は無かった。
しかも、同書は方法論との書名の通り、民法学者であると同時にヘーゲル哲学の研究者でもあるラレンツの法に向けられた哲学的記述が多く、特定領域に偏らないことが求められる入試問題の勉強には大いに適していた。これに勝るものはないと感じた。ナチ法との関係は後日知ったが、法学の業績に影を落とすものとは考え難い。
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私の専攻希望である刑法の勉強も当然に時間をかけた。
当時すでにやや古典の部類に近づいていたDa教授の刑法総論の基本書を徹底的に読み込んだ。不可解な個所もずいぶんあったが掘り下げることは避けた。
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このようにして、刑事訴訟法、刑法、ドイツ語の3つの受験科目につぎ込んだ時間はほぼ毎日10時間を優に超えていた。中指には鉛筆ダコができ、痔に悩む日々でもあった。
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1980年(昭和55年)4月、中央大学大学院法学研究科刑事法専攻博士課程前期課程に入学した。
指導教授であるSi先生が最初のゼミの時、「H君、君がトップだったよ。」と教えてくれた。この年度の入試で、三教科それぞれと総合点で私の得点は入学者の中で一番だったそうだ。嬉しかった。一番というのは高校の校内水泳大会以来初めてだった。もっとも、賞状なぞ記録に残るものは無かった。
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しかし、しかし、しかし。喜んでなどいられなかった。大学院の勉強は学部時代とは全く比較にならないほどレベルが高く難しかった。そして量が多かった。
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初年度に履修すべき科目は8個。選択に迷うことは無かった。Si教授の刑法特講・演習、At教授の刑事訴訟法特講・演習、Ka教授の民法特講・演習、Ya教授の刑法特講・演習、の4科目である。Ya教授の科目以外はすべて外国語であった。
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「特講・演習」とは「特講」と「演習」。特講は毎週1回90分で通年で4単位。「演習」も同じだ。ほとんどの科目はこれがセットになっている。実際の講義もこれらを続けて行うので180分、3時間となる。担当教員によってさまざまだが、3時間より短くなることはほとんど無かった。
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先生ご自身の研究室で行っているKa先生のゼミでは、ワインが出てくるときもあった。もちろん、私達の口には入らない。上座はパーティー、私達下座は猛勉強というわけだ。
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だが、これは不自然な力関係ではない。
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研究室の奥、窓から日がさすあたりにKa先生がいらっしゃる。片手にロングケント、片手にラレンツである。健康のためロングケントはパイプがついているのでたいそう長くなる。それをくゆらせながら私たちの下手な訳を聞いていてくださる。
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先生に一番近い上座には先生の高弟がふたりいる。
私達は訳してきたものを読み上げるのだが、どれほど早口で読み上げても、「うん?」とおかしなところで先生がつぶやく。
すると高弟が「今のところをもう一度訳してごらんなさい。」と優しい口調で促してくれる。
そこで、もう一度読み上げると、別の高弟がニコニコと笑いだす。
しかし、決して正しい日本語訳を教えてくれたりはしない。
私達がそれを見つけるまで待ってくれるのである。
この待ち時間が長くなると、普段は先生と高弟たちが世間話を始め時間をつぶす。
だが、季節によりワインが出てくるときがある。その間私達は積み上げた辞書や法学辞典を引きまくり正しい訳を探すのである。ワインは、いわば親心である。
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とはいえ、分からない状態が続いたり、頻繁に間違えると冬でも全身から汗が噴き出してきた。
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当時、大学院には多くの院生がいた。前期課程は2年間、後期課程は3年間。だが、この5年間で博士の学位を得られるものは皆無であった。
大学もこの種の学位、課程博士と呼ぶそうだが、それを出すことは考えていなかったと言われていた。
その為、院生はそれぞれ2倍まで在籍できる学則に従い10年間は大学院の研究室に留まるのがほとんどだった。
そうした滞留組が民事法、刑事法、公法といった各専攻に複数人ずついるので所帯は大きかった。在籍するすべての院生の顔を覚えるのは容易ではなかった。
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受験勉強をしている間に私は刑事訴訟法の魅力に取りつかれた。日本の現行刑事訴訟法のルーツが米国にあることも知った。刑事訴訟法を改めて徹底的に勉強したくなった。
そこで大学院へ入学することが決まったときAt先生に「学部のゼミで勉強させて頂きたい。ついては入ゼミ試験を受けたいが米国刑事法のケースブックを教材にしているゼミは3年のゼミか、それとも4年のゼミか。」という趣旨のお願いをした。
すると、先生は「今の学部のゼミではケースブックは読んでいない。君は大学院に入ったのだから大学院のゼミに出てくればいい。」とのお言葉を下さった。嬉しかった。At先生のゼミで勉強ができる。これはいよいよ凄いことになってきた、とわくわくした。
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At教授の刑事訴訟法特講・演習が行われるゼミ室へ行くと一度も会ったことが無い人ばかりがいた。
「1年生のHです。よろしくお願いします。」と言うと反応は様々であった。
しばらくすると、ひときわ大柄でいかにも偉そうな人が入って来た。後にKg氏だと聞かされた。
「1年生のHです。よろしくお願いします。」と言うと、
Kg氏は「このゼミは刑訴専攻者以外履修禁止だよ。」と言った。
(つづく)
※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。
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