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雑多な書き散らしブログ

新・里見八犬伝(FC)攻略講座12

2011-04-18 17:00:00 | 新・里見八犬伝(FC)


前回「ふしのみ」という使用アイテムに言及したので、
今回はそのほかの使用アイテムについて考えることとしよう。


の、まえに、
「どうぐ」システムについて考えておくことにする。

知っておかねばならぬのは、
仲間同士で「どうぐ」の受け渡しは不可能である、ということだ。


装備品の場合
「どうぐ」→「つかう」→だれに?
となるので、誰が持っていても問題はない。

使用アイテムについても
「どうぐ」→「つかう」(→だれに?)
なので、特段と問題はないように思われる。


しかし、戦闘コマンド「つかう」では、

そのキャラの持っている道具しか使用できない。
もちろん、そのキャラがもっていないなら使うことはできない。

このことはしっかりと考えておく必要があろうと思うのである。



道具は、買うなりして手に入れると、
仲間の先頭から順に所持することとなる。

ちなみに、仲間の順序は、仲間にしてしまうと入れ替えはできない。
(仲間に「する」順序である程度は操作ができるが)

最大で8個まで、道具は持つことができ、
八犬士のもつ珠は道具の扱いにならず、
装備品は装備していれば所持品とは別の扱いになる。
(装備していなければ所持品である)

スタートキャラのアイテムが8個埋まらないと、
次の仲間がアイテムを持つことはない。
(仲間にした時点で道具を持っている者を除く)

たとえば、
攻撃が弱く、戦闘中は「ふしのみ」を使うのを専門にしよう、
と、思うキャラがいたとして、そのキャラの仲間にした順番が遅いと、

アイテムをなかなか持てない、という事態が発生する。


たとえば、
そのように考えたキャラが、もしも最後尾であるならば、
その前の7人に、無駄アイテムなりをもたせてアイテム欄を埋めておかねばならぬのである。
8人目が新たなアイテムを持つには、
56個のアイテムを既に持った状態にしたときにはじめて、
ようやくお鉢がまわってくる、というわけである。


と、いうわけで、
目的のキャラに道具を持たせたいなら、
仲間にする順番や、アイテム欄を埋めておく道具を考えておかねばならぬということである。



さて、道具であるが、

はっきり言って、役立たずなものがあまりに多いことを知っておかねばならぬ。

何個でも買えるが、何個も買う意味のないものもある。


さて、一番値段の安いアイテムがあれば、
上記の「アイテム欄を埋める」という動作にとても有利に働くことはお分かりいただけると思う。

一番安価で手に入るものは
「きつねのけがわ」(すばるのさと:ぼうぐや)0両
である。


前にも述べたが、
そうすけの最強のよろいである。


アイテム欄を埋めるのに最強よろいを0両で大量購入


という、もはやワケが分からない世界が展開されるが、
そこらへんは、もう、このゲームがこのゲームたるゆえんである。



さて、よろずやで手に入るものを考えると、


・やくそう 15両 生20回復
・さらそうじゅのは 105両 生50回復


あたりは、宿屋のが効率が良い。
念のため持っておいてもよいといえばよいのだが、それほど必要性を感じないものである。


・ふしのみ 250両 死者完全復活


に関しては
前回の通り、れべる5以上の者を生き返らせるのに重宝する。


・ほうおうのはね 500両 一度行ったことのある町や村に瞬間移動


いわゆる、キメラのつばさである。
同じ効力のじゅもんに、そうすけの「きこうてん」があるが、
「きこうてん」の燃費がすさまじく悪いので
いざというときのために2、3持っておくとよいかもしれない。


それ以外は、基本

無意味で

無価値である。


たとえば、


・どくけし 15両 このゲームに「毒」というステータスはない。
・みがわりじぞう 480両 なんの効力も発揮しない。
・てんぐのはな 55両 なんの効力も発揮しない。
・えんまく 100両 戦闘から逃げられることがある(成功率は「はやさ」に依存、「にげる」と大差はない)


ここらへんは、もはや、なんだこれ、の世界である。
雰囲気だけつかめばそれでよいものと受け流していただきたい。



その一方で
まれに、よろずやで、

「ストーリーを進めるのにどうしても必要なもの」

が、売られている。


村や町に行ったら、チェックを怠らずにいてほしい。

ちなみに、このフラグアイテム、
金さえあればいくらでも買えるという点も、意味不明である。

次の三つである。

・つうこうてがた 2500両 箱根の関を通るのに必要
・ほん 500両 からくり商人たちの父の墓をあばくために必要
・どうかせん 3両 ばくだんを使うために必要


ただし、この三つは、このゲームの終盤でしか必要がなく、
序盤に無理に買う必要はないものと思う。


のちのち必要になるから買っておいて、
生き返らせるのに金がなくなったときには担保にする、

ということもできなくはないのだが、
それだったら「ふしのみ」を持っていたほうがよいような気がする。



どこに売っているか、ということだけは覚えておくことが望ましい。

「つうこうてがた」に関しては終盤にならないとたどり着けない町にあるが、



「ほん」と「どうかせん」は、序盤に目にすることができるのである。



最後のほうになって、

「どうすりゃいいんだ?」となる。



それなりにヒントはあるにはあるのだが、
まさか普通に「よろずや」にそんな重要アイテムが売っているとは思わずに
しかも何の役にたつものか分からないのですっかり意識から抜け去り


進めなくなる、ということがある。






役にたたないアイテムと
役にたたないとみせかけてのちのストーリーで必須のアイテムと


迷彩のように「よろずや」には並んで売られているのである。



村人からの情報で必要アイテムを見抜くのは無理がある。
なぜ、こんなことで難解なゲーム性が追求されているのか、

いや、追求ではなかろう。

おそらく、このゲームは、製作が途中で打ち切られたのだ。


考えてみると、1989年12月発売のこのゲーム。
どうも1989年1月に発売された「里見八犬伝」という別ゲームと
肩を並べるつもりであったのではないかと思われるふしがある。




なぜかこの年、1989年は、
なんだかやたらと八犬伝が流行っていたような雰囲気を感じるのである。

「アイドル八犬伝」とかいうのもこの年であったし……


不思議な一時代を感じなくもない。






ともかく、
どうぐは、このゲームのなかで、未開発な部分であったようだ。

こんな状態でも、プレイヤーさえいれば、
いろんな意味でゲームにはなるものであると思い知るのである。

たとえ、
キーアイテムがよろずやで売られていても。





げぼ。








新・里見八犬伝(FC)攻略講座11

2011-04-17 16:00:00 | 新・里見八犬伝(FC)


とにかく、よく死ぬゲームであることを再三にわたり述べてきたつもりである。

特に、序盤は、気を使っていても死ぬときは死ぬ。



仲間を犠牲に、他の者が生き残るイケニエ戦法にしても、
運がよければ逃げられようが、基本的には死ぬことを前提としたものだ。


ゲームであるから許される倫理であって、
現実的にはそうとうに良心の呵責があるものである。


さて、あくまでゲームであるから、
死んだら生き返らせることができる。


序盤は「寺」を使うことになろうかと思う。



この「寺」であるが、
町や村の中で、ちょっぴり大きな建物、と思っておけばよい。

しかしまた、死者を復活させてくれる寺が、
実は序盤に三箇所しか存在しないのが困ったところである。


その三箇所とは
「ようろうがわのさと」
「こうしんさんのむら」
「としまのまち」
である。


仲間が死んでしまって、生き返らせようと思ったときに、


復活させてくれる寺がある村や町が、えらく遠くにしかない


ということがある。



しかたがないので、そこにむけて進路をとると、
さらにどんどん仲間が死んで、いつの間にか「げーむおーばー」
あるいは、ほぼ全滅状態とかいうことが、往々にしてある。


復活は、
「生き返らせようとする者のれべる×50両」である。

たとえば、れべる3の者が5人死んだとすると、その復活にかかる費用は

3×50=150
5×150=750

750両も、かかることとなる。


れべる3ほどで相手にできる雑魚敵は、倒しても
一体につき4両~15両ほどしか手に入れられないのであるからして、


概算して、50回分ほどの戦闘でえた金額を使うことになるわけである。
(50回も戦闘をしていたら、れべる3ではなく、当然もっと高いれべるになっている)



お金は、大事だ。

かつて、私は、そのように書いた。
このためである。
序盤の死者復活には、とてつもなく金がかかる。



ゆえに、できるだけ死なさないように
とすると、できるだけ強くなっておかねばならぬのである。


また、セーブや宿屋をとにかくこまめに使うことも大事となる。

宿屋は、序盤はれべるに関わりなく一人あたり5両ですむ。
死んでさえいなければ、5両で完全回復ができるわけで
死んでしまったら、れべる×50両かかるわけであるから、破格である。

この場合、どちらが破格なのか、まことに微妙であると言わざるをえないが。


やや遠方の町や村の宿屋は、
ひとりあたり100両かかるところもあり、これまた相場の観念のまったくない破格である。


ちなみに、
宿屋のおかみに「とまりますか」ときかれたときに
「いいえ」と答えると、



無言で追い返される。


宿屋のおかみのグラフィックが、
どうにも「むっ」とした表情にみえるのが面白い。




他の復活の手立ても考えておくことにしよう。

すなわち、呪文によって生き返らせることは可能か。

そうすけのじゅもんに「てんめいそせい」という呪文がある。

漢字だと「天命蘇生」であろうか?
「天冥蘇生」とも考えられるようだ。

順調にそうすけを育てられれば、れべる30になるころには覚えるかと思う。


ちなみにこのゲームのじゅもんの覚え方は、れべる依存ではない。
「かしこさ」ステータスも存在しない。

では、なにで覚えているかというと、
最大法(最大MP)が、ある既定を超えると覚える仕組みである。

「てんめいそせい」を覚える最大法の規定値は、200であるように考えられる。


そこまで育てられれば、
もはや寺は必要ないほど十分に強く、ザコ敵には問題ないくらいになっているはずではある。



もう一点、道具で復活させることは可能か。



このゲームで、もっとも買う数が多いであろう道具がある。
それこそが復活アイテム。

その名も「ふしのみ」である。

「不死の実」

よろずやに、普通においてある道具である。

いくつでも買える。


「寺」での復活は、れべる×50両である。
たとえば、れべる20のものを、寺で復活させようとすると
1000両とられることとなる。


ちなみに、あくまで「おふせ」であるから
お坊さんから金額を言ってくることはない。

もしも所持金がたりないときは

「じごくのさたも かねしだいというに
ふせが たりぬとは なんと ふこころえな」

と、なんだか釈然としない怒られ方をする。
こういうところに、妙に芸が細かいところがあるような気もする。



で「ふしのみ」であるが、1個250両である。
れべるがいくつであろうと、関係なく、完全復活させてくれる。


これで、れべる5から先は、寺に用事はほとんどなくなるのだ。
「ふしのみ」のほうがだんぜん、お得である。




いつもアイテムがお得であるとは限らない。
回復するのであれば「やくそう」や「あらそうじゅのは」などより
宿屋のほうが断然、おとくになる(高額な宿屋は別として)。

また、れべる1の者を甦らせるのに
わざわざ250両の「ふしのみ」を使うよりは
寺で50両お布施するほうが安価であることも考えねばならぬ。


このアンバランスをよく見抜いて、
スーパーのチラシで一円でも安くモノを買おうとする主婦のごとく
ゲームのなかのお金の管理をしていかねばなるまい。






おんまいしえいそわか












新・里見八犬伝(FC)攻略講座10

2011-04-16 17:00:00 | 新・里見八犬伝(FC)




安房の里見家が、謎の集団によって滅ぼされた。
(取扱説明書より抜粋)



……と、いうことで、今回は、やや不親切すぎるゲームの本筋を及ばずながら解説しようと考える。


「謎の集団」と言われても、という感じだ。
だいたい、ちっともこの謎の集団に関する説明が、ゲーム中には存在しないし、
取扱説明書にも記述はなかったことと思われる。

いったい、何と戦えというのか。


「八犬伝」を知るものなら、

宿敵は「たまずさがお~んりょ~う」

であることを、まあ、それなりに知っていることとは存ずる。
(ちなみに「玉梓が怨霊」というと、人形劇「新・八犬伝」で有名なアオリ文句である)


玉梓、というと、一応、和歌をたしなむものであるならば、枕詞であることも知られる。

たまづさの~、と歌い始めると「使ひ」を導く、お決まりのセットとなる。


「たまづさのつかひ」というのは、メッセンジャーのこと。
梓(あずさ)という神聖な植物で作った杖をもって言葉を伝えるものが最上級の礼儀であり、
偉い人たちの恋のやりとりに活躍した名もなき人のことを言う。



と、まあ、余談は尽きぬものながら、


八犬伝は「玉梓」という滅亡の使いが、
安房(千葉県南部)で悠々自適に暮らそうとしたことが発端となる物語である。


この玉梓という女は、
当時、安房を治めていた神余の殿様の妾となって
殿様をたぶらかしてとことんまで国を疲弊させていき
ついに里見に処刑された。

が、
このときの玉梓の恨みはすさまじく、
怨霊として里見を呪い続けるようになった、と。

すなわち、八犬伝で敵といったら「玉梓」であるが、
鎌田版「新・里見八犬伝」で、
悪に心が染まったものたちは、玉梓の怨霊を「みたまさま」と呼ぶ。

「あらみたま(うらみたま)」であり「御霊」である。

小説では、肉体を持った玉梓は出てこない。
ずっと御霊として祀られているにすぎない。

この、御霊を祀るのに集まる集団を「闇一族」とよび、
同時に、里見を滅ぼしにきた謎の集団と同じものと考えてよい。


映画版では玉梓(の転生したすがた)といえば夏木マリであり、
御霊は御霊として存在する。

ゲームでも映画版の影響下にあるので、
御霊と玉梓は、分離しているように描かれている。


で、ゲームでは、玉梓がラスボスと考えていいのだが、
ゲーム中に、玉梓がなにか悪いことをしたのかどうか、
情報はまったく皆無であるといえる。

「八犬士の運命を狂わせた闇の力の親玉」
ではあるのだろうが、


そんな、



ねえ?





「自分の不運は全部あいつのせいだ」
と言えるだけの証拠はあるのだろうか。

もしかして本格的に運が悪いだけなのでは?

それを人のせいにして征伐に向かうというのは、



どっちが悪者かわかりゃあしない、というものである。


その証拠があるとすれば、
八犬士の持つ珠なのである。




「ひとを呪わば穴二つ」という。

玉梓の呪いを退け、跳ね返す力(光一族の力)は、珠にあった。

この珠は、それぞれ八犬士がうまれた間際からもっているもので、
それを目印に玉梓が呪いを発していると言ってもいいのかもしれない。


と、いうストーリーが、ゲーム中の情報だけでは全然浮かび上がってこない。


小説と映画と、馬琴の「南総里見八犬伝」と、
あちこちを対釈してつなぎあわせて、はじめてゲームのストーリーが分かる、という。


1983年、映画「八犬伝」がでてから6年後にこのゲームは発売された。

このゲームをするものは

映画のストーリーを知っているもの、として作られているのだろうか。




それにしても、映画版とは整合性がない部分もあるし、
ゲームはゲームとして考えると全くストーリーが分からないし、

なかなか難儀なものである。



いずれにせよ、
男色文化に造詣の深い(現在のBL文化と似ている)

滝沢(曲亭)馬琴の作品がもとであるがゆえに、


珠と玉との戦いである、というところが物語に生きていさえすればよいのかもしれぬ。




げぼ。









新・里見八犬伝(FC)攻略講座9

2011-04-12 21:00:00 | 新・里見八犬伝(FC)


よざへ よざへ


今回はセーブポイントについて、触れておこう。

取扱説明書の「ゲームのポイント」に、

・城の近くからスタートできる珠を選ぶと有利に進める

ような記述があったことと思う。
(私は取扱説明書を紛失したため定かでないが、
この件だけは妙に印象深かったので当たらずも遠からずと考えられる)

城、とは、本作にとって下記ふたつの意味がある。

・セーブポイント
・敵の根城

ちなみに取扱説明書には
「どの珠でスタートさせるとセーブポイントに近いか?」
ということは言及されておらず、自力で確かめねばならないというヒト手間がある。

既に何度か語っているように、そうしたことを何度も確かめるということも
「ゲーム性」「試行錯誤」といった観点からすれば面白く感じられる場所でもあるわけだが、

「順調に進んでいる、順調に成長させることができている」
と感じたときに、身近にセーブポイントがないというのは、

努力を水の泡にさせられる可能性がある、ということに他ならず、
このゲームをやりこなす自信を喪失させ、完全に呆れ諦めさせることに一役買っていることと考えられる。

「諦め」にも二種類があって、
・自分には能力(など)がないから、もうできない
・環境(など)がそうである以上はしかたない
というものがあるように考える。


「為せば成る 為さねば成らぬ なにごとも 成らぬはひとの 為さぬなりけり」

という。

また、

「できない理由を考えるのではなく、できる方法を考える」

ともいう。

仏語(ぶつご)にも「諦観」とかいうものがある。

前向きに諦めるということが、どれだけ人生に良い影響を与えるかは、実は計り知れないものがある。


さて、そんなことはどうでもよくて、

れべるがあがったり所持金が増えたりしたのを、
みすみす強敵にであって無に帰すよりは、

着実にセーブをおこない、進度を深めていくことに越したことはない。

あらゆる物事に共通するであろうことだが、
一定の成果のあることがきちんと記録されることは、将来の指針でもあるのだ。

本来の意味では「記憶」だけでも、反省材料、判断材料として有用とみるべきところではあるが

先が長く、攻略に60時間ほどはかかろうという本作では、失敗の記憶だけではどうにも太刀打ちができぬ。


本作では「げーむおーばー」となると、
スタート画面に戻される方式である。

どういうことかといえば、
「セーブされたところ」までしか記録されぬ、ということである。

途中、セーブをせずに経験値をふやし、道具を購入したとして、
セーブをした時点まで戻されるわけだから、
経験値も増えていないし、道具も購入していなかったことになる。

つまり「げーむおーばー」と「リセットボタンをおす」のとにたいした違いが存在しない。
(ただし、ただたんに「リセットボタンをおす」という行動をした場合、
記録そのものが消える可能性が高い。)

途中に良い結果があったとしても、過去に引き戻されるのである。

所持金が減る、などのリスクはないが、
かけた時間は戻ってこないということを肝に銘じる必要があろうと思う。


前置きが、だいぶ長くなったが、

では、セーブポイントが近いスタートはどれか、ということになる。

順位だてすると

(信)げんぱち
(忠)どうせつ
(礼)だいかく
(義)そうすけ
(智)けの
(孝)しの
(悌)こぶんご
(仁)しんべい

となるだろう。
どうしてもセーブポイントが近いほうがいいと考えるならば、
上から四つ目までが相当に近いとかんがえていただきたい。


(信)げんぱちスタートに関しては、
スタート時に「通せんぼ侍」をどかす手立てが必要であることは前も述べた。
それさえ注意すれば、
セーブポイントが、フィールドにでてから隣であるから相当に近い。


(忠)どうせつスタートは、
セーブポイントはかなり近いといってよいものの
次の仲間を得るために北上しようとすると、
強敵にあう可能性が極めて高い、ということに留意する必要がある。
このスタートは、強敵に出会わないために
ひょっとすると一番リアル・ラックが必要であるかもしれない。

(礼)だいかくスタートは、
セーブポイントはフィールドにでてすぐにみつかるはずだ。
武器を装備させても決定力にかけ、
ひとりきりでは育てるのが一番めんどうかもしれない。
城に近づこうとするたった数歩の間に強敵が現れる可能性もあり、たいへんではある。

(義)そうすけスタートはとても推奨できると考えられる。
もっとも適度な位置に城がある。
ただ「成長をさせてセーブをする」というのが主眼であるならば
どうしても「こぶんご」を仲間にせねばならず、(悌)スタートと同じ距離だと考えることもできる。
しかも、「こぶんご」を仲間にしたあとは戦闘がはじまり、そのおりに死にやすいといわざるをえない。


ここから、やや遠い部類の二つである。
フィールドにでただけでは見つからないので、
セーブしたいときは迷わず進む必要がある。



(智)けのスタート。
荒川を渡らずに、荒川にそって南下すると城がある。
((孝)しのスタートも同じ城がもっとも近い)
これも、初期のひとりきりで育てるのは難儀でありはするものの
「ふきや」さえ手に入ればなんとかなるという希望が大きい。

(孝)しのスタート。
荒川に沿って北上すると城がある。
((智)けのスタートも同じ城がもっとも近い)
城とスタート地の行き来で成長させることが望ましいと思えるが
初期パラメータでは最弱の敵にもなかなか苦労する。



残りの二つ
(悌)と(仁)に関しては、
(義)そうすけスタートに直近のセーブポイントを使うことになる。
つまり、つぎの仲間を得ると同時にセーブが可能と考えておけばよい。


(悌)こぶんごスタートでは、
「せっかんぼう」さえ装備させれば、セーブポイントまでの道のりにほとんど苦労することはない。
初期HPも割高であるため、戦闘がなんとかなりやすい。
が、「まもり」ステータスが低く打たれ弱いことは警戒する必要がある。

(仁)しんべいスタートは、
前にものべたが、
南に進んだときに見える城はセーブポイントではなく「敵の根城」である。
セーブは北上せねばならないが、迷路になっているので正しい道順を頭に叩き込んでおいたほうがよい。
道を外れると、適わない敵に会いやすいと考えられる。
このスタートからは、(悌)よりも直線距離ではセーブポイントが近く考えられるが、
とにかく迷路にまどわされ、また強敵にあいやすく太刀打ちしづらいという観点から、最下位としておいた。




うまく、セーブポイントにたどりつくと、
城の奥、中央に、殿様と家来が座っているのが目に付くと思う。

殿様は「です、ます」でしゃべりかけてくれ、
次のレベルアップまでの必要経験値をも教えてくれる。
(最大8人の必要経験値を言ってから、はじめてセーブについて言及するので、かなりながったらしい)

家来に関しては
「これ。とののごぜんですぞ。しずかになされませ」
しか言わない。

どの城でも、家来がついているが、
これしかセリフがない。


殿さまの前で、用もないのに話しかけてはならない、という時代劇な雰囲気は分かる。
分かるのだが、もうちょっと有益なことはいえないのだろうか。

キャラたちをはげますとか、最近の治安情報とか、どっちにいくと良いとか、

なんのなめに、そのキャラグラフィックをアチコチに配置したのか。
なんのために、雰囲気でしかないセリフで一貫させる必要があったのか。



どこに行っても無個性な家来たちに、
近隣の村などで流行している言葉をつげるべく。

「しずかになされませ」というあなたがたは、いま近隣で何が起きているか知る由もなく
八犬士が勝手にそれを解決するのを待っているだけの存在でしかないというのに、
なぜに、たてつづけに怒る要やある。そんな必要はなかろう。



げぼ。







新・里見八犬伝(FC)攻略講座8

2011-04-11 21:00:00 | 新・里見八犬伝(FC)


すでに何度か、戦闘のさいに「じどう」を選択することは無謀であるという主張を行った。
「絶対に勝てる」という敵でないかぎり、この選択は使うべきではない。

が、仲間が増えると
「じどう」ではじめても、その自動を途中でやめることも可能である。

戦闘中、Bボタンを押すことが、自動を止める手立てである。


ただし、そのボタンを押すタイミングが極めて難しいといわざるをえない。


そのタイミングは、ターン終了後におとずれる。

コマンドをうけつけない「じどう」でありはすれど、
その戦闘中にもコンピュータがコマンド入力をしているらしい画面になる。

すなわち、コマンドに名前がでる瞬間である。

ものすごい速さで、
仲間の名前が出ては次の名前になり、
断続して最後のひとりまで、流れるように一瞬の出来事である。

この流れの間にBボタンである。

おそらく、1秒もないくらいの短時間である。


それ、以外の時は、ボタンをおしても、
それがBボタンであろうとも、メッセージが進むだけである。

なお、ボタンを押しっぱなしにすると、メッセージがとまる。
なので、ボタンを押しっぱなしで「じどう」を解除することはできないだろう。

限られたほんの一瞬のあいだのみ、解除することができると考えていただきたい。

仲間の人数が少ないときも、できなくはないのだろうが、
戦闘参加人数がおおければおおいほど
「じどう」のコマンド入力の時間がそれなりに長くなるので、
その間にBボタンを押すことが可能となるのである。


さて、このゲームは、このように、

・システムが微妙

ということに加えて、

・ストーリーが分かりづらい

という歯がゆさがある。


戦闘のコツを教えてくれる者は皆無であるし、
八犬士のおいたちも、オープニングにあるだけで感情移入にいたらないし、
村人に示される方角に突き進むと強敵にあうばかりだし、
道具や呪文も効力をたしかめねばならぬし、
そうかと思えば、何の役にもたたぬ道具も呪文も存在しているし、
結局、最後の敵はなんなのか言及されることはほとんどないし、
なぜ戦うのか、どうして戦わねばならぬのか、明確に語られることはないし、



とくに、中盤以降は、
ただひたすら迷路を歩くのみ


という
ストーリーもなにもあったものではない部分が大半を占めている。


RPGの形式は、

・はじめは小さな課題をプレイヤーに与える。
・その課題をクリアするとストーリーに進展がある(俗に言う「フラグがたつ」)。
・できることが増えていく。
・課題も、それに見合うように大きなものとなる。
・最終的な目標がはっきりしてくる。
・先だってでてきた課題が伏線として力をもつ。


というパターンがほぼ確立されているように思うが、

ほとんど、これに当てはまらない。




もし、鎌田敏夫の「新・里見八犬伝」をゲーム化するとしたら、
そして、せっかく8つのスタートがあるようにするのなら、

もっともっと、ひとりひとりを際立たせる課題があると良いのではないかと思わなくもない。


が、
逆説的にいうと、
今の「型どおりのRPG」とは一線を画すものがあるといってもいい。


目的も方向もわからぬ。
けれどそれでも、突き動かされて旅にでようとすることが、


本当の意味で自分を主人公にするのである。


……自分が主人公なら
「八犬士」という個性そのものがいらなくなるのではあるが。



よざへ よざへ。