こどもたちの未来へ  

Más vale prevenir que lamentar.

日島石塔古墳群

2013年10月13日 | 佐世保・五島・天草・熊本

魚生浦島、有福島から日島へ

 

「日ノ島」石塔群考  ―海に生きた武士達の祈りが聞えてくる― 

ブログ 瀬戸音信より

 

 「日ノ島」曲地区の海に向かって延びる礫丘部分全域に林立する石塔群、この地域だけで六十七基の石塔が確認されている。

この「石塔群」は、旧若松町文化財保護審議会委員長を務めた近藤章氏が、独力でおよそ八年の歳月をかけて事前調査した上、関係機関に働きかけて本格的な調査と発掘・復元事業を実現に導き、その並々ならぬ努力が結実して、約六百年の眠りから目覚め蘇ったものである。それらは、忽然と礫丘上にその姿を現し、現代に生きる我々に秘められた歴史が何であったかを語りかけ、解明を迫っている。

本格的な調査整備事業は、長崎県教育庁文化課が中心となって、平成五年(一九九三)度から平成六年度および平成十年度にかけて行われた。調査結果は、旧若松町教育委員会編『若松町文化財調査報告書第一集曲古墓群―五島列島若松町日島所在の中世墓群―』(以下『曲古墓群調査報告書』という)としてまとめられている。

この「石塔群」は、平成十二年(二〇〇〇)二月二十二日に、釜崎の岬の上に峻立する「宝篋印塔」(ほうきょういんとう=正平廿弐年十一月二十日と紀年銘の入った二メートルを越える石塔)とともに、長崎県史跡文化財に指定された。次のURLアドレスでインターネトから情報を取得できる。http://www.pref.nagasaki.jp/bunkaDB/bunkazai/pdf/00471.pdf

近い将来、国指定の史跡文化財になるものと考えられる。

以下に、その特徴や造立目的・存在理由・「日ノ島」の役割などについて解明を試みる。

 

 

一.史跡の特徴

1.概要

この史跡について、「長崎県の文化財」(長崎県のホームページ)では、次のように説明している。

 

〔若松島の北西に位置する日島・曲(まがり)地区の、海に向かって延びる礫丘部分全域にわたって、中世以来の石塔類が約七〇基分林立している。また、曲地区から1㎞程離れた同じ日島の釜崎地区の丘の上に、紀年銘を刻んだ高さ約2mの大型の宝篋印塔が1基、海を見下ろすように存在し、基礎の左側に正平二十二年(南朝暦・一三六七年)の銘が刻まれている。曲地区の主な石塔や釜崎地区の宝篋印塔は,その石材や高度な彫出技術等から,石造文化が進んだ関西・北陸地方で一三〇〇年代から一四〇〇年代にかけて製作され、日本海ルートで日島へ搬入されたと推測される。現在の一離島に、全国的に見ても大規模な石塔群が集中していることは、当時、日島が重要な貿易拠点であり裕福であったことや活発な海上交易が行われていたことを示し、学術的にも非常に価値が高い。指定面積は一九九〇・一五㎡。〕

 

これら石塔の特質について、『曲古墓群調査報告書』ならびに大石一久著『石が語る中世の社会―長崎県の中世・石造美術』(ろうきんブックレット9、一九九九年)を参考に概観すると以下のとおり。

2.石塔の特質

 ①種類

五輪塔、宝篋印塔、宝塔が主。これらは、製作地および石材によって、A.「中央形式塔」とB.「地方製作塔」に分類されている。これらのほかに、自然石板碑が多数林立している。

 ②石塔の材質・産地

Aの「中央形式塔」に分類される石塔は、「安山岩質凝灰岩」「花崗岩」を用い、高度な彫出技術によって、関西方面(中央)で製作されたものとされている。主な製作地は、一九九六年十月、大石一久氏が福井県高浜町日引であることを突き止められた。

Bに分類される「地方製作塔」は「凝灰岩」「緑泥片岩」を用い主に九州本土(熊本)で製作されたものと推定されている。

 ③石塔の分類別基数

      A.「中央形式塔」     宝篋印塔(安山岩質凝灰岩製)

                        曲崎=九基、釜崎=一基

                                            五輪塔 (花崗岩製)

                     曲崎=十三基

       B.「地方製作塔」      宝篋印塔(緑泥片岩製)

                     曲崎=一基

                                               五輪塔(凝灰岩製)

                   曲崎=十三基

                                               宝塔(凝灰岩製)

                                     曲崎=七基

 

 

二.造立目的

石塔造立目的は、現代では遺骨埋葬・供養のためというのが一般的認識である。しかし、「日ノ島」石塔群の場合は、そのような認識ではその目的を理解することができない。石塔群の多様性とその規模・構造において、異質な様相を呈しているからである。

もう一つの問題は、海洋上での死者は水葬に付され、遺体を墓地まで運んで茶毘に付すということをしないのが海民の習わしであり、従って、石塔造立の目的は遺骨埋葬のためだけではなかったと認識をあらためなければ理解できない、という点にある。

中世社会においては、遺体(骨)埋葬という目的のほか、納経・戦勝祈願・敵者追善・逆修という目的で石塔が造立されたといわれている(国立歴史民俗博物館助教授水藤真(すいとうまこと)著『中世の葬送・墓制―石塔を造立すること―』吉川弘文館、五六~七一頁参照)

このような観点からすると、「日ノ島」石塔群の場合も、その石塔造立目的は同じ意識・死生観に基づいてなされたと考えられ、そのように認識することによってその実相をより深く理解することができる。

『曲古墓群調査報告書』の中で、石造美術研究家の大石一久氏は「逆修」と陰刻された石塔基礎があるという事実を指摘し、「鹿児島県坊津町の一乗院跡で確認される基礎(日ノ島塔などと同じ安山岩質凝灰岩製、蓮弁式塔)には『逆修』と陰刻されており、逆修行為(自らの死後の冥福などを願うために生前予め善根供養を行うこと)のために建塔していることがわかる」と記している。

このように海を舞台に活躍した武士達は、海上活動を開始するに当って、予め自らの菩提(ぼだい)を供養するための石塔を造立していた。彼らの活動は、死を覚悟しなければ実行できなかったからである。海民達の活動は、いつどこで死ぬか判らない、常に死と背中合わせであり、「板子一枚下は地獄の底」という情況だった。

海外軍事活動の出陣に当って、自らの菩提を自ら弔(とぶら)って石塔を造立し死後に備えるという行為は意味のあることであった。それは、すなわち、戦勝祈願のほか、水藤真氏が考察しているように「死後の葬送儀礼を簡略にする役割を果たしていた」のである。

ちなみに、中世期、石塔はどのくらいの値段だったか。水藤真氏の調査(一三四五~一五〇九年の石塔を対象)によると、葬送費用が五十~百貫文であるのに対して、石塔代は二~五貫文であったという(『中世の葬送・墓制―石塔を造立すること―』、一五九~一七二頁参照)。現在の米一キログラム当たりの価格を五百六十円として換算すると、一貫文(米一石・百升・約百八十キログラム)は、約十万円になるから、二~五貫文は、約二十万円~五十万円に相当する額ということになる。当時、米一石を一人当たりの年間消費量とすると、石塔を造立するためには、二人ないし五人を養う分量の米が必要だったようである。

 

三.存在理由―石塔群が真実を語り始めた

現在、石塔は墓石として菩提寺境内の墓地に建立するのが一般的である。しかし、中世社会では寺院はそう多くは存在しなかったという。

浄土宗の僧侶・竹田聴洲氏は『蓮門精舎旧詞』の記録を分析した結果、全国の非著名寺院のうちの浄土宗の約六〇〇〇ヵ寺の中で、九〇%以上が戦国時代から江戸時代の初めに開創または中興されたという。この分析結果を踏まえて、斎宮歴史博物館主幹兼学芸課長の伊藤久嗣氏は「これが意味するところは、古代から中世前半に全国を、遊行・勧進をしていった聖が、戦国時代の後半から江戸時代にかけて全国津々浦々に定着していった。お寺を構えていった。また、葬式を担当する担当者として定着していった。〈聖の定着化〉という流れがあった。」と述べている(『中世社会と墳墓』五八頁)

寺院を構えることが一般的でなかった中世期に、墓地は一体どのような場所に造られたか。石井進氏は、都市(人やモノや情報の地域的ネットワークの中心となるところ)の内に墓地がないのが古代都市の本来の姿という(同前、一八四~一八五頁)

また「共同墓地」について、藤澤典彦氏は「墓地景観の変遷とその背景―石組墓を中心として―」と題する論文(一九九〇年発行『日本史研究』三三〇号所収)で「一般に中世の共同墓地というものは経塚が設定される、その結果、そこが墓地としていわば聖地化される、それによって墓が集まってくる」としている(同前、一四九頁)

いつの時代でもそうだが、特に中世動乱期に生きた武士達には安住の地はなく、明日はいずこの星空の下というような生活を送り、それが武士として当たり前の日常であった。「人間至る所青山あり」という人生観は武士であるがゆえの宿命であった。

石塔を「逆修」として生前に造立するという行為もそうした人生観・宗教観に基づいていた。建立する場所は望めるものならば出身地にしたかったであろうが、それは望んでも果たせるものではなかった。では何処に石塔を建てるか、生きては帰ってこられないという覚悟で軍事活動を開始する最後の地、それが武士達の「青山」だったのである。

石塔の林立する「曲地区」は、上述した歴史的事実から判断すると、正にそういう場所、聖地化された「共同墓地」であったといえる。そして、その多様性や整然と区画された構造からみて、一地方の豪族、たとえば宇久氏(後の五島藩)や青方氏等が単独で支配した墓地ではなく、より上級の権力が関与した「共同墓地」であったということができる。

釜崎の岬の上に日ノ島湾を見渡すように峻立する「宝篋印塔」(正平二十二年十一月二〇日と紀年銘陰刻)は、正にそのことを象徴していると考える。

 

四.「日ノ島」の役割―征西将軍府水軍の活動拠点

「日ノ島」は、古来、使節船・貿易船が中国へ向けて出帆する最終発進基地であった。

一二九八年(永仁六)、北条氏一門の貿易品「御物」(ごぶつ)を積んだ「唐船」(とうせん)が「海俣島」(現、若松島―榊ノ浦)を出帆して約一時間前後、航行距離にして一里内外の「有福島」付近(宮ノ瀬戸と推定)で破損し、「樋島」(現、日ノ島)沖で難破している(瀬野精一郎校訂続群書類従完成会発行、史料纂集古文書編『青方文書』七三号参照)

この事跡は、「日ノ島」が「最終発進基地であった」ことを教えてくれる。鎌倉末期から南北朝前期に数多くの「寺社造営料唐船」(称名寺・建長寺・天龍寺などの造営資金調達のために幕府が仕立てた貿易船)が発遣されている。また、南北朝後期になると、征西将軍府と中国・明との間で使節船の往来があった。これらのほとんどが「日ノ島」を最終発進基地としたものと推定される。特に注目すべきことは、征西将軍府が「日ノ島」を海外軍事活動の拠点としていたとみられる事実のあることである。それは次のような事跡を解明することによって得られる。

観応元年(一三五〇)以降、朝鮮半島に対する「倭寇」の活動が急激に活発化し、南北朝後期になると、その活動は益々激しくなる。高麗は倭寇の鎮圧を求めて室町幕府に使節を送ってきたが、幕府は天授元年(一三七五)、来朝した使節・羅興儒に対して、永和二年(一三七六)天龍寺の僧侶「徳叟周佐」(一三二四―一四〇〇、夢窓の法嗣で春屋には弟弟子)の私信で回答する(村井章介『アジアの中の中世日本』(歴史科学叢書、校倉書房、一九八八年、三〇五、三一九頁)。『高麗史』(巻第百三十三、列伝第四十六、辛禑三年六月乙卯条)には、その回答内容の一部がつぎのように記録されている。

「此寇因我西海一路九州乱臣割拠西島、頑然作寇、実非我所為、未敢即許禁約」(傍線筆者)

(高麗を襲った倭寇は西海一路の九州の南朝方の乱臣たちが「西島」に割拠(かっきょ)して行っているもので、我々が行っているのではない、直ちには禁止することを約束できない)

「周佐」の私信に書かれている「西島」がどこを指すかが問題であるが、当時、「西島」は、「日ノ島」「若松島」を含む地域の広い範囲を指す呼び名として用いられており、前述したように、朝廷や幕府において、これらの地域は、使節船・貿易船が中国へ向けて出帆する際の最終発進基地として認識されていたから、「周佐」はこれらの地域が「西島」であるということを十分承知した上で私信を書いた、と考えて間違いない。

このことは、当時の「日ノ島」や「若松島」が征西将軍府水軍の活動拠点であったことを意味する。「曲地区」に石塔群が林立し、釜崎の岬の上に宝篋印塔が立っているのも、このことと深い関係があると考えられる。

そして、中国に向け東シナ海に船出するに当り、使節に任命された武士達が、前述したように「逆修」の目的で石塔を建立していったものと考えられる。

 

五.石塔群造立武士についての考察

石塔をもたらした武士達がどのような一族か、それは、前節で見たように、「日ノ島」や「若松島」を活動拠点とした「征西将軍府」に属する水軍、すなわち、菊池水軍や名和水軍であった。

名和水軍とその類族がもたらしたのは、前述したAの「中央形式塔」に分類される石塔、すなわち「安山岩質凝灰岩・花崗岩製石塔群」である。その理由は、これらの石塔が高度な彫出技術によって、関西方面(中央)で製作されたものとされており、主な製作地が福井県高浜町日引であることによる。「日引」は若狭内浦湾に面した位置にあり、かつて名和氏の活動範囲内であった。

一方、菊池水軍とその類族がもたらしたのは、前述したBの「地方製作塔」に分類される石塔、すなわち「凝灰岩製石塔群」である。その理由は、これらが主に九州本土(熊本)で製作されたものと推定されているからである。以下、このような推論に至った経緯について考察する。

先ず、九州本土の武士達(菊池・名和氏等)が五島列島をどのように認識していたかを見ておくことにしよう。それは海外交易の拠点、すなわち交易品の流通・保管の場としての役割であった。このことを裏付ける事跡が残されている。

鎌倉後期の嘉元三年(一三〇五)、五島の浦部島(現、中通島)の青方に住む宗次郎という人物の住宅と塩屋二棟が放火され、銭貨やそのほかの財物が奪われるという事件が起きた(『青方文書』一〇五号)。このとき、たまたま「売買のため宗次郎の許に寄宿」していた重教(肥後国宇土庄住人、執権北条師時の「梶取」で富裕な海運業者)も被害にあった(『青方文書』一一四号)

この事件は、五島・青方と肥後・宇土地方との交易の実態を今に伝える史料として貴重なものである。この時代、頻繁に船の行き来があった。「青方」「日ノ島」を含む地域は、「日本と大陸を結ぶ海上の道の最前線」に位置し、商人たちの交易活動の拠点と位置づけられる、と考えられている(藤本頼人「中世前期の梶取と地域間の交流」『日本歴史』(吉川弘文館、二〇〇四年、六七八号、三〇頁)、村井章介「鎌倉時代松浦党の一族結合」鎌倉遺文研究会編『鎌倉時代の社会と文化』(東京出版、一九九九年))

征西将軍府を支えた菊池水軍・名和水軍等は、有明海から五島列島を経由して朝鮮半島や中国に渡る航路を、これら重教のような貿易商やかつての中国渡航僧(例えば、道元、絶海中津ら)の往来の事跡によって、熟知していた(『肥後川尻町史』、『県史43 熊本県の歴史』参照)

なお、名和氏は、この時期、八代を拠点として活動し、征西将軍府を支えていた。名和氏は、鎌倉時代の後期、正規の武士である御家人たちが土地経営に頼って窮乏化していくのに対し、海運など商業経済に通じて富を築き、そして、一族を伯耆一帯に分立させ、長年は有力名主として地域住民の信望を集める存在であった、という(インターネット「武家家伝」参照)

折口信夫氏は、名和氏について、「名和氏記事」に基づき次のように記している。

 

「(延元三年(一三三八)頃、)故名和長年の弟信濃法眼源盛の補佐によって、義高の養子顕長・顕興以下、親王に供奉して、八代に入る。手勢三百余人と言う。顕長の父義高、建武年中八代庄に地頭職として居った縁によるものである。正平十三年(一三五八)、源盛、八代で亡くなる。此間、伯耆の本貫なる名和氏の上にも、変化が多かった。正平七年(一三五二)の男山合戦には、長年の甥長氏戦死、長重―長生とも―内侍所を護持して賀名生に逃れた。十四年(一三五九)、菊池氏、懐良親王を奉じて、少弐頼尚と筑紫に戦うた。名和顕長・義氏又、長生之に力を協せた。十六年(一三六一)には、名和顕長、武光と共に大宰府を攻め、又大友氏時等を香椎・宗像に討つ。十七年(一三六二)、武光・顕長等、足利氏経、少弐・大友の軍と、筑前長者原に戦ふ。十九年(一三六四)、顕長・顕生・菊池・厚東等の軍、大内義弘を筑前に降伏させる。此後、顕長出家早世して、顕興家を嗣ぎ、義高依頼名和氏宗家の資格なる検非違使伯耆守となり、肥後八代郡麓(フモト)城に居る。(以下略)(『折口信夫全集』第十六巻・民俗学篇2、中央公論社、五五頁)

 

このように、名和氏は、菊池氏と協同して征西将軍府を奉じ、北朝に対抗したが、もともとは、山陰の若狭湾一帯を活動拠点として台頭してきた武士団であった。従って、福井県高浜町日引から西北九州・五島列島を経由して肥後八代に至る経路は熟知していたと考えて間違いない。

このことを裏付ける研究がある。新城常三著『中世水運史の研究』(塙書房、一九九四年)によると中世の中央と地方の水運について、次のように分析している。

山陰地方から中央へ「年貢鉄」が若狭小浜経由で海上輸送、貢納された(同書二八四頁)

室町時代、小浜着岸の「鉄船」の公事がみられる。南北朝以降、鉄は殆ど商品化し、その小浜入荷も相当の量に達したと看られる(同書二八七頁)

小浜は山陰を越えて遠く九州とくに北西九州などとも浅からぬ関わりを持つに至った(同書二八八頁)。山陰諸国は元来九州とくにその北西部・両筑・肥前・壱岐・対馬などの国々と関係深く、海上交通も相当活発であったろうから、これら九州北西部と京との連絡にこの山陰海路の利用も少なくなかったであろう(同書二八八頁)

名和氏一族は、海運業にも従事していたという事実から、ここに言う「年貢鉄」などの輸送に関わりを持っていたと考えて間違いない。「日引製安山岩質凝灰岩石塔」が彼らによって「日ノ島・曲崎」に搬入されたという所以である。

一方、九州地方から中央へは、「鎮西米」(九州荘園、たとえば人吉荘の年貢物の東大寺における呼称)の搬送や、唐物の輸送が行なわれたという(『中世水運史の研究』三〇二~三〇九頁)

輸送手段は船で、「これはその後の商品や旅人等の輸送をも規定することとなり、九州・中央間の往還に人々の大半が海路を採っているのは、九州荘園の年貢米船往還の盛行と関連」するという(同書三一二頁)。梶取の輸送業者への発展も、このような状況が反映した結果と分析している(同書三一二~三一三頁)。先に挙げた肥後宇土庄住人右衛門三郎重教の事跡などはこの典型的な事例のひとつと見られている(同書三二〇頁)

このような状況に鑑みて、菊池水軍がこの海路を利用して「九州本土製凝灰岩製石塔」を「日ノ島・曲崎」へ搬入した、と言うことが出来る。

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿