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天草灘 ~冨岡港へ~

2013年12月15日 | 佐世保・五島・天草・熊本

天草灘 ~冨岡港へ~

 

天草灘(あまくさなだ)は、九州西岸の長崎県南部・熊本県西部に跨る海域。

天草下島・島原半島-長崎半島南端・福江島・男女群島で囲まれた海域を指すが、一般には天草下島西方に分布する大陸棚とその縁辺にあたる海域を指す。自治体では熊本県天草市・長崎県南島原市・雲仙市・長崎市・五島市が該当する。

南は東シナ海に向けて開けている。東部は島原半島と天草下島の間の早崎瀬戸から有明海へ繋がり、長崎半島と島原半島に囲まれた海域は橘湾(千々石湾)と呼ばれる。北の福江島と長崎半島の間は五島灘・角力灘へ繋がる。

五島西方沖を北上する対馬海流の分流が流れこみ、沿岸の気候は温暖である。沿岸漁業が盛んに行われ、イワシ類・サバ・マダイ・シイラ・イセエビ・タコ・イカ類などが漁獲される。なお、梅雨から夏にかけては塩分の低い沿岸水が表層に溜まり「二重潮」が発生することがある。二重潮では漁網が浮き上がる・ねじれるなどの現象が起こる。

沿岸は奇岩・海食洞・岩礁が連続し、雲仙天草国立公園の富岡・天草・牛深の3海中公園がある。風光明媚な海岸で知られ、天草下島の妙見浦は国の名勝にも指定されている。林芙美子の小説『天草灘』や、江戸時代の陽明学者である頼山陽の詩文などにも取り上げられている。また、ミナミハンドウイルカの群れが生息し、ドルフィンウォッチングも行われている。

ウィキペディアより

 

天草洋に泊す(泊る) 頼山陽(あまくさなだにはくす  らいさんよう)

泊天草洋
雲耶山耶呉耶越
水天髣髴青一髪
万里泊舟天草洋
煙横篷窓日漸没
瞥見大魚波間跳
太白当船明似月

天草洋に泊る
雲か山か呉か越か
水天髣髴 青一髪
万里舟を泊す 天草の洋
煙は篷窓に横たわって 日漸く没す
瞥見す 大魚の波間に跳るを
太白 船に当たって 明るきこと月に似たり

現代語訳

雲だろうか山だろうか
または呉の国か、越の国か。

空と海が一つにとけあってぼうっと青く霞み、
一本の髪の毛のように見える。

はるばる旅をしてきて今は天草灘で舟に乗っている。
苫舟の窓のあたりに夕もやがたちこめ、日はようやく沈もうとしている。

波の間に大きな魚が跳ねるのがチラリと見えた。
宵の明星が舟の正面で輝き、まるで月のように明るい。

語句

■天草灘 長崎と熊本の間に横たわる海。 ■呉・越 中国江南地方の地域名。孫子「呉越同舟」参照。 ■水天 海と空。 ■髣髴 ほうふつ。さながら。梅堯臣「夜、隣家の唱うを聴く」に「髣髴梁塵飛」。 ■青一髪 青い一筋の髪の毛。 ■煙  夕もや。 ■篷窓 カヤを掛けた舟の窓。 ■瞥見 ちらりと見る。 ■太白 明けの明星。金星。

解説

「雲か、山か、呉か、越か」

一度聴いたら忘れられない、勢いのある
そして破天荒な書き出しです。声に出すと、とても気持がいいです。
雄大な気分がこみ上げてきます。作者頼山陽が39歳の頃、
九州各地を遊学した時につくった詩です。

頼山陽は江戸時代後期の漢詩人・儒学者・歴史化です。広島藩に仕えた儒学者の頼春水。安永9年(1780年)大坂江戸堀に生まれます。

幼い頃から漢詩文を作り才能を発揮するも、神経症のわずらいがあり、情緒が不安定でした。20歳のころ、何を思ったか突然脱藩。しかしすぐに連れ戻され、自宅の一室に監禁されます。この時、『日本外史』を書き始めました。元祖引きこもりのような方ですね。

30歳のころ、父の友人管茶山(かんちゃざん)の廉塾(れんじゅく)に招かれるも、満足がいかず京都に出て新町に独自に塾を開きます。

「天草灘に泊す」は、父の死後、39歳くらいの時に九州各地を一年あまり遊学した、その時につくられた詩です。

 

頼山陽といえば『日本外史』がもっとも有名です。

『日本外史』は武士の歴史を描きます。桓武天皇のひ孫が臣籍降下して平氏がはじまるところから筆をおこし『平家物語』に描かれた源平の争乱、『太平記』に描かれた南北朝時代の騒乱、戦国時代の武田信玄、上杉謙信、織田信長まで。

歴史好きにはたまらない話題がこれでもか、これでもかと続きます。

しかも文章に勢いがあり、力強く、気合が入ります。そこが歴史書としては熱がありすぎ、史書というより文学書だといわれるゆえんでもありますが、この熱さが受けました。幕末の志士たちの愛読書となります。

近藤勇も、頼山陽を子供の頃学び、強く影響を受けた一人です。

残念ながら現在絶版で、めったに手に入れることができません。ぜひ復刻してほしい作品です。

『日本外史』で有名なのは、『平家物語』に描かれた、重盛が父清盛をいさめる場面です。

1178年反平家クーデターともいうべき鹿谷の陰謀は、事前の内部告発により発覚します。平清盛は怒り狂って首謀者を次々と逮捕していきます。

そしてついに清盛は、事件の黒幕後白河法皇のもとにも捕縛の手を差し向けようとします。

しかし、どんなに権力があるといっても法皇さまに手を出すと、朝敵です。平家が逆賊になってしまいます。そこで重盛は、父清盛をいさめるのです。朝廷に忠義をつくそうとすれば父にそむくことになり、父にしたがえば朝廷に背くことになる。重盛は苦しい立場ですと。

『平家物語』ではこう描かれています。

「悲しきかな君の御ために奉公の忠をいたさんとすれば、
迷慮(めいろ)八万の頂より猶たかき父の恩忽に忘れんとす。痛しきかな不孝の罪をのがれんと思へば、君の御ために既に不忠の逆臣となりぬべし。
進退(しんだい)惟(これ)谷(きわま)れり。

これが頼山陽の『日本外史』にかかると、こう化けます。

「忠ならんと欲すれば則ち孝ならず。孝ならんと欲すれば則ち忠ならず。重盛の進退ここに窮る」

どうですか?簡潔で、気持よくなっていますね。これが漢文のリズムです。声に出した時に、気持よさがさらに実感できるんです。

こういう漢文の気持ちいいリズムは明治以降すたれ、現在では漢詩や漢文を作ったり読んだりする機会はまずありません。しかし日本語の中には漢詩・漢文のリズムが、深い鼓動として刻まれています。

スピーチをする時も、漢文のリズムを生かしてください。
けしてこんなふうに話したらダメです。

あーえー本日は私のようなものがお話をするのは、まことに恐縮で、私のようなつたない者が前に立っていいものかと、諸先輩方の前で、かえって申し訳ない心も、あったりもするわけですが、そこはひとつ、温かい目で、どうたらこうたら…言うのではなく。

「要点は3つです。まずなんたら。なんたら。なんたら。」

タン、タン、ターンと言葉を短く切る。漢文の簡潔なリズム。呼吸です。現代の言葉で喋るときにも、漢文のリズムは、呼吸は、ぜったいに役に立ちます。

孟浩然「建徳江に宿す」は、主題において通じるものがあります。こっちはハデさでなく、旅愁のシミジミ感で勝負してます。

作者 頼山陽

頼山陽(らいさんよう 1780-1832)。江戸時代後期の漢詩人・儒学者・歴史家。名は襄(のぼる)。字は子成。号は山陽。三十六峰外史。父は広島藩に仕えた儒者(藩儒)頼春水。母は大坂の町医者飯岡義斎の娘静子。安永9年(1780年)12月27日大坂江戸堀に生まれ幼少時は大坂で成長します。

5歳の時広島に移り叔父の頼杏坪(らいきょうへい)について漢詩文の素読をはじめ、9歳で学問所に入学。はやくから漢詩文の才能をしめしました。

寛政9年(1797年)8歳の時叔父杏坪に伴われ約一年間、江戸に遊学。尾藤ニ洲(びどうじしゅう)に師事し翌年帰郷。

この頃から神経症に悩まされ神経症に悩まされ精神の安定を欠きました。

21歳の時、突如脱藩。すぐに探し出され24歳まで自宅に監禁されますこの頃『日本外史』の執筆をはじめたようです。

享和3年(1803年)廃嫡。同時に監禁を解かれます。文化6年(1809年)30歳の時、父の友人管茶山(かんちゃざん)の廉塾(れんじゅく)に招かれるも、満足がいかず京都に出て新町に独自に塾を開きます。

文化13年(1816)年父春水没。2年後文政元年(1818年)39歳で西遊の旅に出て約一年間九州各地を旅します。「天草灘に泊す」はこの旅の中得られた詩です。この時期の詩は『山陽詩抄』の巻三・巻四に「西遊稿」として収められました。

この頃から京都での頼山陽の名は高まっていきます。京都東山の山陽の書斎「山紫水明処(さんしすいめいしょ)」(現京都市上京区東三本木通丸太町上ル南町)には多くの友人や門人が集まり文学サロンの様相を呈していきました。

その傍ら諸国を旅し、書や絵画をたしなむなど、自由な暮らしを満喫しました。

日本の武家の歴史を記した『日本外史』は文政9年(1826年)に完成。翌年松平定信に献上。死後出版され幕末の志士たちにさかんに読まれ彼らの思想的よりどころとなりました。もっとも記述に間違いが多く、歴史書としては杜撰であると指摘されています。

ほかの著作『通議』『日本政記』『山陽詩抄』。天保3年(1832年)9月23日肺結核で没する。享年53。墓は京都東山長楽寺にあります。

「漢詩の朗読」より


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