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浪江町 ~一般車両立ち入り禁止!帰還困難区域の街~

2015年06月30日 | 福島を訪ねて

6月11日の浪江町。第一原発のある双葉町の北隣の町です。

 

町の山側のほとんどが帰還困難区域となっていますが、比較的線量の低い6号線から海側の避難指示解除準備区域では多くの作業員の方によって除染作業が行われています。


以前は鮭が遡上していた請戸川の河畔では、除染作業員の方々がしばしの休息をする姿が見えました。

 

この街は、ほかの自治体と違って、許可書がなければ居住制限区域も避難指示解除準備区域も立ち入ることができません。

 

一般車両が通行できる国道6号線と県道114号線を通ってきました。

 

 

 

2015年6月11日  浪江町

 

”浪江は原発マネーを受け取ることなく、独自の街づくりで頑張ってきました。しかしその願いは、ほんの数キロ先の原発事故で粉砕されてしまったのです。”

 

 

1955年に人口約28,000人を数えた浪江町も、過疎財政難に悩まされ、その打開が必要でした。1960年頃、福島県が原子力発電所を誘致するに当たり、浪江町も候補地となりますが、同じ双葉郡の双葉町と大熊町に跨る地域に決まり、福島第一原子力発電所(東京電力)として開所します。

 

折りしも、1969年に発足を控えていた宇宙開発事業団がロケット発射場の候補地を探しており、浪江町の方から手を挙げたものの、原子力発電所の近郊に発射場を建設するのは危険と判断され、この構想も消滅します。

 

ロケット発射場の次は「子供の村」構想への参画を目指したが、これも頓挫。しかし、福島第一原子力発電所建設の経済波及効果は浪江町にもあり、1970年に約21,000人で底を打った人口は1970年代には23,000人に回復し、作業員向けの宿泊施設、バー、スナックなどが建てられました。

 

浪江町が何か誘致できる施設が無いかを調べていたところ、東北電力が浪江町と小高町(現在の南相馬市小高区)に跨る地域に原子力発電所の誘致を持ちかけます。当時、東北電力は女川原子力発電所の建設計画も進めており、女川町へ原発と付随する交付金・雇用等を取られてしまうという対抗心もあって町議会は賛成しますが、公害意識が芽生え始めた時期でもあり、地元の自民党支持層は分裂、自民党反対派は他党と組まず、長らく反対運動を続けることになります。1982年の雑誌対談で示された概要図では原子炉は4基となっていました。。(のちの浪江・小高原子力発電所計画。こちらは2013年に計画断念)



 

上述の宿泊施設、浪江町による水道などの社会資本投資は原子力発電所建設を見越した先行投資でもあったため、1980年代末時点で17人まで減ったものの団結力を高め、予定地に共同登記をしていた反対運動による遅延は、これら商工業者に莫大な損失を強いるものとなりました。原子力発電所の建設が進まないなか、近隣自治体に新地発電所、原町火力発電所などが建設されていったのです。

 

そんななか、福島第一原発事故が発生、町民は北西の津島地区へ避難するも、かえって放射能汚染がひどいことが判明、全員二次避難を強いられました。

 

次は  双葉・大熊・富岡・楢葉 ~避難指示解除準備区域・居住制限区域・帰還困難区域~ です。

 


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