さきの朝日新聞の読者投稿に83歳の男性から
介護を受けて寝たきりになり、排泄(はいせつ)も
ままならない日が来たら、生きながらえたくない。
介護を拒否し、安楽に社会が措置してくれることを願うと
ばかり、「長生きはめでたいのか」と切実さを露にした
投稿があり、それを巡って多くの反響が寄せられた。
深淵な問題であるだけに、日々病と向き合う当事者のそれと、
そうでない者とでは温度感は違うものの、
それぞれ最もなことでもあり傾聴に値した。
【母は数年前に施設に入居し、車いす生活でした。
半年前、軽い肺炎で入院。
一度は退院したものの、誤嚥(ごえん)を起こして再入院しました。
栄養補給の点滴だけの状態が、約3カ月続きました。
「いつまでこうして寝ていなければならないの?」と言っていました。
赤子のように寝ているだけの母が可哀想で、私は先に逝った父に
「よい時期にお迎えお願いします」と祈りました。
胃ろうはつけませんでしたが、点滴まで拒否することはできません。
昔だったら、こんなに長くもたなかったと思います。
認知症もなく、たくさんの管につながれることもなく、
枯れるように人生を終わったのは、よかったと思います。
母が逝った日、タンスの中から手紙と遺影用と思われる
写真が見つかりました。
手紙には「延命治療だけは避けてください」とありました。
私も元気なうちに意思表示だけはしておこうと思います】。
【私は老人ホーム職員や生活支援員として36年間働いていた。
「介護を受けて寝たきりになり、排泄(はいせつ)も
ままならない状態で長生きしたくない」という意見について、
実感としては理解できるのだが、少し考え直してもらえないか。
社会のお荷物になるくらいなら安楽死を望むという趣旨なら、
病院や老人施設に入っている多くの高齢者を傷つけ、
生まれながらに障がいのある人たちも巻き込むことにもなりかねない。
誰しもそうなりたくて、なったわけではない。
どれほど元気な人も、誰ひとりとして他者の世話に
ならずに生きている人はいない。
長寿を素直に喜べない社会は不幸に違いないが、
どうすればそれを克服できるかについて考える力を、
私たちは持っているはずである。
ひたすら経済成長ばかりを追い求め、モノとカネさえあれば
幸せになれると思い込んできた私たちだが、このあたりでそろそろ、
そのような神話から離れたい。
高齢になろうが、障がいがあろうが、
共に笑って生きていけるような未来について語るべきである】。
また、都内にお住まいの49歳の女性医師からは、
「強い意志で元気な老後過ごして」と寄せられた。
【人間の価値は、何ができるかではありません。
存在していること自体に価値があると思います。
高齢の方だけではなく、様々なおつらい状況の方に、
まずそのことをお伝えしたいです。
ただ、「人の手を借りてまで生きながらえたくない」
と思う気持ちもわかります。
外来診療をしていると、「ぽっくり逝きたい」と
願っている高齢者が数多くいらっしゃいます。
最期のその日まで、身の回りのことを自分でできるためには、
何が必要でしょうか。
もちろん、医療者のサポートは重要です。
ただ一番大切なのは、ご本人の意志だと強く感じます。
心がけていただきたいのは、なんといっても運動です。
1日8千歩、できればラジオ体操など全身運動もして下さい。
食事はたっぷりの野菜と、肉や魚、大豆製品など
たんぱく質をしっかり取って、筋肉が落ちないようにしましょう。
そして、日々楽しいことを探して下さい。
「介護なんて受けないぞ」という強い意志を持つことが大切です。
大丈夫です。めでたく長生きして下さい】。
【ご投稿は、安楽死を認める社会になることを
願う趣旨と受け止めました。
しかし、家族はどんな状態であっても生きていてほしいと
考えているかもしれません。
また、安楽死や尊厳死が社会的コンセンサスを得るまでには、
いろんな論議が必要でしょう。
ですが、死のあり方は個人の意思を尊重することが大切だと思います。
高齢化が進む中、
高齢者自身の声で社会を動かすことも必要だと考えます。
ご投稿をきっかけに、妻と話し合いました。
終末に向けて、まずはお互いの気持ちを知っておかねば
と思ったからです。
不治の病と宣告されても、手術といった積極的治療はせず、
胃ろうや人工呼吸器などを使った延命措置も不要。
痛みを和らげる緩和ケアで最期を迎えたいということで、
思いが一致しました。
そういった希望を書いた「終活ノート」を夫婦で交換して持ち、
子どもたち3人が帰省する来年の正月に皆で話し合うことにしています。
ご投稿を読んだことで、夫婦が向き合い、
終末に関する認識を確かめ合えたと感じています】。