田中正造に学ぶ会・東京

真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず人を殺さざるべし!

しばしお休みいたします。

2015-09-24 11:58:59 | 社会
皆様いつもありがとうございます。

体調不良のため、明日から入院の運び
しばしお休みいたします。

まさに
「生まれるのは偶然・生きるのは苦痛・死ぬのは厄介」
をかみ締めております。


戻る事が出来ましたなら、またご愛顧のほどを!

目指す介護の心は母心となれるのか?

2015-09-24 06:41:10 | 社会
さきの朝日新聞の読者投稿に83歳の男性から
介護を受けて寝たきりになり、排泄(はいせつ)も
ままならない日が来たら、生きながらえたくない。
介護を拒否し、安楽に社会が措置してくれることを願うと
ばかり、「長生きはめでたいのか」と切実さを露にした
投稿があり、それを巡って多くの反響が寄せられた。
深淵な問題であるだけに、日々病と向き合う当事者のそれと、
そうでない者とでは温度感は違うものの、
それぞれ最もなことでもあり傾聴に値した。

【母は数年前に施設に入居し、車いす生活でした。
半年前、軽い肺炎で入院。
一度は退院したものの、誤嚥(ごえん)を起こして再入院しました。
栄養補給の点滴だけの状態が、約3カ月続きました。
「いつまでこうして寝ていなければならないの?」と言っていました。
赤子のように寝ているだけの母が可哀想で、私は先に逝った父に
「よい時期にお迎えお願いします」と祈りました。

胃ろうはつけませんでしたが、点滴まで拒否することはできません。
昔だったら、こんなに長くもたなかったと思います。
認知症もなく、たくさんの管につながれることもなく、
枯れるように人生を終わったのは、よかったと思います。
母が逝った日、タンスの中から手紙と遺影用と思われる
写真が見つかりました。
手紙には「延命治療だけは避けてください」とありました。
私も元気なうちに意思表示だけはしておこうと思います】。

【私は老人ホーム職員や生活支援員として36年間働いていた。
「介護を受けて寝たきりになり、排泄(はいせつ)も
ままならない状態で長生きしたくない」という意見について、
実感としては理解できるのだが、少し考え直してもらえないか。
社会のお荷物になるくらいなら安楽死を望むという趣旨なら、
病院や老人施設に入っている多くの高齢者を傷つけ、
生まれながらに障がいのある人たちも巻き込むことにもなりかねない。
誰しもそうなりたくて、なったわけではない。

どれほど元気な人も、誰ひとりとして他者の世話に
ならずに生きている人はいない。
長寿を素直に喜べない社会は不幸に違いないが、
どうすればそれを克服できるかについて考える力を、
私たちは持っているはずである。

ひたすら経済成長ばかりを追い求め、モノとカネさえあれば
幸せになれると思い込んできた私たちだが、このあたりでそろそろ、
そのような神話から離れたい。
高齢になろうが、障がいがあろうが、
共に笑って生きていけるような未来について語るべきである】。

また、都内にお住まいの49歳の女性医師からは、
「強い意志で元気な老後過ごして」と寄せられた。
【人間の価値は、何ができるかではありません。
存在していること自体に価値があると思います。
高齢の方だけではなく、様々なおつらい状況の方に、
まずそのことをお伝えしたいです。

ただ、「人の手を借りてまで生きながらえたくない」
と思う気持ちもわかります。
外来診療をしていると、「ぽっくり逝きたい」と
願っている高齢者が数多くいらっしゃいます。
最期のその日まで、身の回りのことを自分でできるためには、
何が必要でしょうか。
もちろん、医療者のサポートは重要です。
ただ一番大切なのは、ご本人の意志だと強く感じます。

心がけていただきたいのは、なんといっても運動です。
1日8千歩、できればラジオ体操など全身運動もして下さい。
食事はたっぷりの野菜と、肉や魚、大豆製品など
たんぱく質をしっかり取って、筋肉が落ちないようにしましょう。
そして、日々楽しいことを探して下さい。
「介護なんて受けないぞ」という強い意志を持つことが大切です。
大丈夫です。めでたく長生きして下さい】。

【ご投稿は、安楽死を認める社会になることを
願う趣旨と受け止めました。
しかし、家族はどんな状態であっても生きていてほしいと
考えているかもしれません。
また、安楽死や尊厳死が社会的コンセンサスを得るまでには、
いろんな論議が必要でしょう。
ですが、死のあり方は個人の意思を尊重することが大切だと思います。
高齢化が進む中、
高齢者自身の声で社会を動かすことも必要だと考えます。

ご投稿をきっかけに、妻と話し合いました。
終末に向けて、まずはお互いの気持ちを知っておかねば
と思ったからです。
不治の病と宣告されても、手術といった積極的治療はせず、
胃ろうや人工呼吸器などを使った延命措置も不要。
痛みを和らげる緩和ケアで最期を迎えたいということで、
思いが一致しました。

そういった希望を書いた「終活ノート」を夫婦で交換して持ち、
子どもたち3人が帰省する来年の正月に皆で話し合うことにしています。
ご投稿を読んだことで、夫婦が向き合い、
終末に関する認識を確かめ合えたと感じています】。



いまや日本語が危ない!

2015-09-23 07:00:22 | 教育
朝日新聞、天声人語に妙な言葉が躍っていた。
「とりま」に「それな」というもので、耳慣れないそれは、
どうやら近頃の若者言葉のようだ。

【ここしばらくの間で、個人的に最も耳に残った言葉は、
「とりま廃案」「それな、それな」だった。
安保法案に反対する高校生たちが街頭で繰り返し
コールしていた。
若者言葉なので、首をひねる方も多いだろう

▼「とりま」は「とりあえず、まあ」を縮めたもの。
「それな」は「そうだよね」とか「その通り」という相づちらしい。
前者を7、8年前に漫画で知り、仰天した記憶がある。
後者は今回初めて聞いた。
日本人は本当に略語が好きだ

▼文化庁は毎年、国語に関する世論調査をしている。
3年前の調査によると、「中途半端でない」を
「半端ない」と端折る人が、10代では7割近くいた。
それどころではない。
更につづめて「パネェ」と言っている人も、今や珍しくない

▼言葉はいつも若い世代が変えていく。
先週発表された今年の調査では、「おもむろに」の意味を
「不意に」と答えた人が20代で7割いた。
本来の「ゆっくりと」は2割弱にすぎない。
手元の辞書は「急に」を誤用だとしているが、
正誤の基準も時とともに変遷することがあろう

▼「やばい」を「とてもすばらしい」の意味で使う人は、
10代で9割強、20代でも8割近くいる。
先の辞書は、まず元々の「危ない」「まずい」を掲げるが、
若者の用法も紹介し、誤りとは認定していない

▼口は挟むまい。
政治に声を上げ続ける大学生、高校生らの姿は頼もしい。
「今どきの若い者は、やばい」。
決まりが悪いのをこらえて若者言葉を使い、
そうつぶやいてみる】。


当方、決して、わからずやの爺ではないと自分では
思っているのだが、なに「とりま」「それな」「パネエ」だと!
縮めればいいというものではないだろうと一喝を喰らわす。

言葉と言うもの、伝える為には重要なものであるが、
もっていうなら「伝える」よりも「伝わる」に心しなければならない。
言葉を短くして伝わるのか?
伝えることができるのか?
天声人語の筆者は「やばい」などとサイズの合わないパンツの
ファスナーを無理やり持ち上げているようだが、
若者迎合に駄目なものは駄目とばかりの大人の了見があって欲しい。
ペンでタツキを得ているのにと、妙に心がざわつく。
あの世での向田邦子さんや久世光彦さんが、いよいよ
「ニホンゴキトク」かと天上から苦笑いをしているに違いない。

老人は一日にしてならず!

2015-09-22 07:09:55 | 社会
昨日は敬老の日。
東京新聞のコラム欄「筆洗」に思わずハタと
膝を叩くかのような文に頷きを得た。

【年を取れば、動きは若い方に比べれば、ゆっくりとなる。
脚本家の山田太一さんがスマートフォンを使う若者の
指の速さについて、書いている。
「言葉というものは、あんなに速く打たなければ
いけないものでしょうか」
(『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』)

▼なるほど、若者の指遣いは魔術師のようであるが、
これが心配だと言葉のプロフェッショナルの山田さんは
やんわり警告する

▼あのスピードで書けば、ありきたりの言葉しか出て
こないはずだし、「キライ」「死ねば」とドンドン短くなっていく。
「決まり文句だけになって、お互いの内面の本当は、
枠の外に取り残されるのではないか」という指摘である。
思い当たる若い方もいるか

▼敬老の日である。
高齢化社会といわれて久しいのだが、
社会の方は高齢者には合わせてくれぬ。
相変わらず、スピードと効率が尊重される社会である

▼「六郎兵衛さんも能老入(いいおいれ)だ」
(式亭三馬『浮世風呂』)。
「老入」とは「老い入れ」。
江戸期には現在の「老後」ではなく「老入」の方が一般的だったという。
「老後」よりも前向きであり、老いを一つの到達点として
大切にする語感もある

▼年を取れば、素早い指遣いで書けぬが、その分、
心を静めて言葉を選んで書けるということもあろう。
「ゆっくり」とは「じっくり」でもある。
前向きに評価される世間にしたい】。

まったくもって見事なる指摘である。
老いを素直に受容し、「急いては事を仕損じる」の例えあり、
若さ故の無謀さと比べ、熟年の輝きは「じっくり」と地に
足をつけることこそ肝要であると思うのだが、いやはや思うだけで
一歩も二歩も前に進むどころか、「こんな筈ではなかった」と
常に後退のだらしなさである。

青春は青春であることを知らずに居るが、老年ともなると、
あちこちに痛痒を感じ、日々、十分老年の厳しさと
向き合うことを余儀なくされている。
まあまあ、それも人生の苦味であり、おもしろさと言うことかも
知れぬが、「山に金太郎、野に金次郎、予は昼寝」と嘯くのが
精いっぱいであるとは、いささか淋しい!














私の好きなことば

2015-09-21 07:09:49 | 社会
秋の素振りを感じたのは、神社の社務所から
お囃子の音色が流れてきた。
子どものころからのスリコミガあるせいか、軽快な江戸囃子に
思わず身体が吸い込まれる。
さほどの喧騒も観られないのは今年の祭りは「影」であるやも知れぬ。

叔母の墓参りにと花と線香を手に持って地下鉄に乗り、
巣鴨の一つ先で降り、ダラダラと続く白山通りを下ったところに
目指すお寺さんはある。
日和が良いせいか、少なくない参詣者とすれ違うたびに、
そっと頭を下げた。
持参した到来物の線香はなかなか火付きが悪かったのだが、
その煙の色たるやコバルトブルーの美しきもので、
ラベンダーの香りが鼻孔をくすぐった。

さて、さきに鬼籍に入った軽妙洒脱な噺の名手、
小沢昭一さんの「裏みちの花」というエッセイを読んでいると、
「好きなことば」とある。

【あいにく私はそういうことばを持ち合わせておりませんし、
他人の吐いたことばを書くのもいやですから
「好きなことばはない」と答えますと、
先様から明らかにご立腹の目でにらみつけられます」

「幸せと言うものは、ささやかなるものをもって、
最高とすべきではないのか。
ささやか以上の幸せを求めようとすると必ずムリが出てくる。
そのムリがやがて幸せをくずす。
シアワセのシワヨセが出てくるのですね。
そんな風な事をしみじみ感じたものですから、
「幸せはささやかなるが極上」と言う言葉が浮かびました】。

「ささやかなる」が気が利いていて
小沢さんの面目躍如の感がする。
さすが、小沢昭一のこころだ!
なつかしい。

翻って、さて自分には好きな言葉があるだろうかと反芻をした。
一つだけある。

近頃では、とんと見なくなったが、2ヶ月綴りのカレンダーを飾る
武者小路実篤の「仲良きことは美しきかな」といったものではなく、
哲学者であり、静謐な詩人で山を愛した
串田孫一の「無為の尊さ」というものである。

彼は無為の貴さについて

【「ぼんやりしているのは人間にとって非常に大切な貴い時間である。
単に漠然と貴いと云っている訳ではなく、この間に、
本人はどの程度意識しているか分らないが、
必ず貯えられているものがある」】

常に、ぼんやりしている私は、この言辞に大きな安らぎを得る。
もっとも程度問題で、私の場合、ぼんやりし過ぎるという
キライがあり、蓄えられたとなると逡巡する思いがある。

(参考資料・裏みちの花・小沢昭一著・文芸春秋.