田中正造に学ぶ会・東京

真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず人を殺さざるべし!

2015年・田中正造に学ぶ会・東京フィールドワーク

2015-10-22 15:58:16 | 足尾鉱毒事件の田中正造・関連
第22回・2015年・田中正造に学ぶ会・東京フィールドワーク


「田中正造ゆかりの本郷界隈を歩く!」


コース概要予定
シビックセンター~六角家跡~菊坂~炭団坂~
木下尚江、下宿跡~本郷弓町教会~啄木(喜の床)
~菊富士ホテル跡~中村屋跡~東大構内(終了時間概ね5時頃)


◆時・11月23日・雨天決行・昼食持参
◆集合場所・文京シビックセンター
◆時間・9時30分(午前中は学習会となります)
◆参加費・1000円
★主催・田中正造に学ぶ会・東京
共催・渡良瀬川研究会・田中正造大学
足尾銅山鉱毒事件記念館
★連絡先・加藤・090-3509-5441

フィールドワーク下歩き顛末

2015-06-29 07:40:30 | 足尾鉱毒事件の田中正造・関連
毎年恒例の秋のフィールドワークであるが、
今回は本郷界隈とあって直射日光の照りつける中、
キャップを目深にかぶり地下鉄、後楽園前から下歩きを行った。

先ず、最初の目的地は足尾鉱毒事件の田中正造が
谷中村問題に取り組む前、「六角家騒動」といって
村の自治的慣例の破壊と年貢徴収方式の変更に
端を発した騒ぎが持ち上がった。

田中正造は領主を暗君と呼び、首のすげ替えを要求した為に、
「旗本六角家」の座敷牢に閉じ込められてしまった。
毒殺を警戒した正造は監視を逃れた同士から二本の鰹節を
差し入れてもらい1ヶ月の飢えを凌いだとされる。

「六角家」の家屋敷があった場所は、今は「六角坂」として
地名だけが残り、高級住宅地とあって人影も少なく江戸の
切り絵図と付き合わせながらのフィールド・ワークである。

六角坂を後にして「樋口一葉終焉の稗」がある白山通り向かう。
更に一葉が通った伊勢屋質店の菊坂を登る。
一葉がかって居住し、今も井戸が残っている跡へ訪いをし、
突き当りの炭団坂を登った。
入り組んだ細い路地脇に手入れのされた数々の花が
目をなごませてくれる。

炭団坂を登りきったところに坪内逍遥が住んでいた。
無論、平成の御代には影形もなく、
文京区が設置した案内板に僅かな痕跡を拾う。

車の行き交う広い春日通りにでるや、すぐさまにあるのが、
石川啄木が下宿していた「喜之床」である。
明治四十二年(1909)の六月のころであった。
喜之床での生活は2年2か月続いたが、やがて病魔は牙を剥いて
襲いかかり、啄木は僅か26歳の若さでこの世と別れを告げた。

「かにかくに渋民村は恋しかり、おもいでの山おもいでの川」
は、喜之床時代の作とされる。
喜之床を離れ、道を回りこみ本郷弓町教会に行く。
ここは海老名弾正が演説をした場所であり、また谷中村問題で
鉱毒被害の演説会場となったところでもある。


時計を見ると11時を少し回っていた。
今来た道を戻り、今度は明暦の大火、
振袖火事のあった妙法寺を目指し、角を曲がった所に
かってあった「本郷菊富士ホテル跡」に足を伸ばす。

「菊富士ホテル」は錚錚たる文化人達が逗留をし、
主な止宿者には、石川 淳、宇野浩二、宇野千代、尾崎士郎、
坂口安吾、高田 保、谷崎潤一郎、直木三十五、広津和郎、
正宗白鳥、真山青果、竹久夢二、三木 清、中條百合子、
湯浅芳子、大杉栄、伊藤野江、月形龍之介、高柳健次郎
などの名が石碑に刻まれている。

菊富士ホテルから本郷通りにでるや東京大学の正門前にあった
相馬愛蔵・黒光の経営となる「中村屋」跡に寄り、
森鴎外の雁にでてくる「お玉の家」があった無縁坂を下り、
湯島の岩崎邸で大団円となった。
さほどの風もなく、少々の汗を浮かべたが冷たい物が恋しくなった。

https://www.youtube.com/watch?v=hgiFSSVWsQE

お見事!「明治の棺」

2015-06-15 07:31:01 | 足尾鉱毒事件の田中正造・関連
池袋のアウルスポットで公演されている文学座の芝居
「明治の棺」を観にいった。

池袋サンシャインビルの向かい側に建つ高層ビルは2階が劇場で
3階4階が中央図書館となっており、私も度々利用する場所である。
かって知ったる地下の駐輪場へ自転車を停め、エレベーターを使って
劇場にはいるとチケットが完売とあって空席一つ見当たらない。
しかも題材が小難しい足尾銅山鉱毒事件の田中正造を描いた
芝居であるのに驚いたことに若い人が多い。
それも男女比でいうなら圧倒的に女性の数が多く、
田中正造に関することで、このような現象は近来になく、
はて、どのような因かと戸惑いが広がった。

文学座のホームページから、あらすじを追うと

【明治後期。
足尾銅山は日本最大の鉱山として発展する一方、その鉱毒により
汚染された渡良瀬川流域一帯に甚大な被害をもたらした。
村人たちは窮状を明治政府へ訴えるべく押し出し
(請願行動)を決行し、国会議員・旗中正造も住民のために奮闘する。
しかし富国強兵を掲げる政府は、殖産興業を推し進めるべく
銅山に肩入れし、住民を救済するどころか押し出しの
先頭をつとめた若者たちを捕えるのだった。
村を守る者、村を捨てる者。
人々は運命に抗いながらそれぞれの進むべき道を模索し続ける…。】

公演直前になって早世した演出の高瀬久男さんは
明治の棺に「史実と虚構の狭間にあって」と、このように記している。

【 宮本研さんの作劇は、実在した人物を扱いながら、
その人物の業績の紹介で収まることは無く、
その人の生きた時代や取り巻く状況とともに、
今、そのことがどのようなこととして見ることが出来るのかという
客観性をもっているのが特徴と言える。

「明治の柩」は、田中正造がその人である。
その生涯を追えばドラマはそれなりに成立しそうであるが、
勿論それなりに収まることは無い。
人はどのように生き、死んでいくのか。
究極行き着くところはそのあたりにある。
明治の世、時代は新しく動き出し、産業の発展こそが世界と
肩を並べる手段であると、いつしか人の命は軽んじられ始めた。
足尾、水俣、福島。数えきれない「棄民」を生み出す装置。
果てること無く続く国家の横暴。
田中正造という人を柱に、明治という過去と向き合う
宮本研さんの作劇は、昭和という時代を超えて今に至る。
今、未来はあるかと問われた時、私たちは何と答えるのだろうか。

山から海へ水は流れ、樹木は季節の巡りと共にその姿を変える。
地球は太陽の恵みを受け回り続ける。
人はその流れを止めることはできない。
人が人であり続けるために見つめ直すべきことがある。
柩は確かにそこにある】。

芝居は揚幕も引幕もなく、
鉱毒の混じった渡良瀬川を連想させるのか、突如として高く設置された
太い排水菅から水が滴り落ちる。
序々に光を帯びた舞台は時の政府に向かって
物申す押し出しから始まる。
田中正造が押し出しに燃える農民達を必死になって押し戻した
エポックメーキングとも言える「保木間の誓い」が再現された。

とにもかくも本がいい、よく出来ている。
脚本を書いた宮本研の素晴らしさは登場人物の一人一人の
輪郭を的確に表現し、それを文学座の役者達が見事に演じ込み
科白がたちのぼる。
田中正造を英雄視することなく、彼をとりまく人物に思いを吐きださせ、
ラストに正造を監視して付回した官憲を登場させ、スポットをあてた。
心憎い演出であり、芝居が引き締まる。

全盛期の阪神タイガース江夏が、ひたすらキャッチャーミットを
目掛けて投げる剛速球のような重厚な芝居であり、
精神が引き締まるほどの感動を覚えた。








無所属の時間で生きる 城山 三郎

2015-05-25 09:29:00 | 足尾鉱毒事件の田中正造・関連
この日、

この空、

この私・・・無所属の時間で生きる 城山 三郎

ゴールデン。ウィークの半ばに、やはり同期のS君が亡くなった。
彼はニーナ・ロッシー会のメンバーではないが、私は通夜に行った。
親しいというか、世話になった間柄であったからである。

S君は、かっては同級生であった。

私たちの卒業時、就職試験の日程は、1次に銀行、2次に商社、
3次にメーカーなどという順序であつたが、日本経済がまだ立ち直る前であり、
先行きは不安。このため1次で合格すると、本心は他の業種を望んでいても、
そのまま銀行入りしてしまうというケースが、少なくなかった。

S君も、そうした一人。そして最初に赴任したのが、
名古屋支店。大学教員として名古屋に戻った私の住家が
その近くにあったため、にわかに親しくなった。

S君は真面目な勉強家だが、よく笑う面もあって、
「算盤をまちがえると、女子行員がこんな顔をしてバカにする」と、
その面相をしたり、二人の持金の中から紙幣を集め、
「猛訓練の成果だ」と、パッと扇型に開いて数えてみせたり。

ところが、2年程して突然、銀行をやめて夜間高校の教師でもしたい、と言い出した。

それも、かなり思いつめた様子で。

「きみはいいけど、ご両親が反対されるのでは」と、
私が言うと、S君は意外にもかぶりを振って、「いや、そうじゃない。
おれの銀行入りを聞くと、憮然として
なんでそんなところへ、と言った親父なんだから」
第一志望の就職先へ入れればよろこび、
早々とそこをおやめれば悲しむのが、ふつうなのに。

「珍しい親父さんだね。どういう人なの」

聴いて行く内、私はうなずきを繰り返す他なくなった。

同君の父親は、足尾鉱毒事件の被害地となった谷中村の村民で、
若いときは田中正造の手足となり、正造死後もその遺志を継ぎ、
残留民を率いて法廷内外の闘争に、その一生を捧げた人であった、
いま社会運動家などの間で、島田宗三というその名はよく知られている。

最も当時は足利でひっそりと暮らしておられ、
紹介されてお会いしても、言葉少な。小柄で物静かな老人と言う感じであったが、
幾度かお話を伺い、また資料を見せてもらううち、私の中に火がついた。
そして、晩年の正造と、正造死後の二部に分けて『辛酸』を書くことに。
ただ、この第二部が雑誌掲載を拒まれるなどという辛い目に逢いはしたけれども。

通夜の席で、隣りにいた同期のH君に、そうしたS君の父親の話をすると
「初耳だ」と、H君はおどろいた。偶然だが、H君もまたS君の縁で
1度ならずその父親にあつただけでなく、
手作りのおいしいトンカツをごちそうになったと、と。

このため、無口だが、気のいい、
そして料理も上手い父親――という印象しかない、という。
「そうか、ちっとも知らなかった。
驚いたなあ」と、繰り返すH君。わかっていたら、
もっと話など聞くべきだったと、いかにも残念そう。
一方、私は私で、いつも取材の事で頭がいっぱいで、申し訳ないが、
ごちそうになったことなど覚えていない。
つまりH君も私も、それぞれ一面しかしらないで終わっている。

私たちは祭壇のS君の穏やかな顔を見上げながら、同じ言葉を呟いた。

「もっと話をしておくんだったなぁ」

発行所・・・朝日新聞社)

澤地久枝さんと丸木位里・俊さんの対話

2015-05-24 06:26:15 | 足尾鉱毒事件の田中正造・関連
*澤地久枝さんと丸木位里・俊さんの対話に
田中正造についての言及がありましたので引用させていただきました。



澤地・・・・・・現在とりかかっていらっしゃることを聞かせてください。

丸木位里・・・・だいぶ前、沖縄へ行くより前から描かなきゃいけんと気になっていた。
 田中正造、足尾銅山に取り組んでいます。

澤地・・・・・・足尾銅山は「押し出し」まで描かれて、
        いま第3部の「田中正造の直訴」にかかられたのですね。

位里・・・・・・幸徳秋水を出そうと思って、どういう構成にするかいま考えている。

丸木俊・・・・・田中正造は、直訴なんかして天皇主義者じゃないかという人もいるから、
        どうしても幸徳秋水を出さないとダメということになったの。
        彼は幸徳に直訴文を書いてもらって、それに自分がちょっと修正して、
        直訴に行くの。おもしろい人だったと思いますね。

澤地・・・・・・天皇の権威を頼ったのではなく、
        当時の最高権力者だからそこにぶつかったんだと、
        私は思いますけどね。

俊・・・・・・・幸徳秋水の力も借りようという発想はすごいと思うんですよ。
        直訴のときはすでに国会議員を返上しているんです。
        それまで明治憲法といえども、
        人権を守る部分もあると思ったんだそうです。
        しかし、国会を通して請願をやっても限界が見えたわけです。
        それで辞めて農民の中に入り、
        シラミだらけになって生きてゆくのです。

澤地・・・・・・貧乏のどん底に落ちてね。俊さんが語ってらした中に、 
        闘争は負けて、みんながそっぽを向いた中で臨終が近くなったとき、
        谷中の村民たちが見舞っても、同情しても志をついで  
        闘おうという人間がいないときには、会わなかったという話がありますね。
 
俊・・・・・・・そうです。それで結局、孤立無援の中で死んでいます。
 
位里・・・・・・「女の押し出し」には、女も警察と取っ組んだと言う話まであるんだが、
        記録にはないんだ。
        次々と農民が逮捕されるものだから、男はみんないなくなり、
        残ったのは女と子どもになって、それで国会へ請願に行くのよ。
 
俊・・・・・・・初めは、それごらんなさい、
        女のことだから、男が記録しなかったんでしょう。
        よし、そんなら思うように勇ましいのを描いてやるから、と言ってたの。
        おまわりと取っ組んでぶん投げているのを。
        そうしたら、面白い記録が少しはあるんだって。
 

澤地・・・・・・・どんな記録ですか。
 
位里・・・・・・・・国会へ行くでしょう。
         東京へ行くんだからと、貧乏しておるのに
         いい着物を借りて行ったんだそうな。
         いい着物を着たものだけが逮捕されなかったそうな。
         百姓の風体をしてボロボロで行ったものは逮捕された。
 
俊・・・・・・・・そうしたら、一つの画面の中に、
         紋付着ている人とボロの人と両方あっていいわけ。


澤地・・・・・・・むしろ絵としてはそのほうがリアルになりませんか?

俊・・・・・・・・かえってなるかもしれない。
         そういえば、うちの姉ちゃんはとっても強くて、
         おまわりをとって投げたという八十歳幾つかの
         おばあちゃんがまだ生きているんです。
         その人に会って、話を聞けば、きっと記録にない
         面白いことがいっぱいあると思うの。
         そういうのを私たちは描きたいの。

位里・・・・・・・絵は女が出てこんと魅力がないな(笑)。
         この前描いたのは男ばっかりの「押し出し」だが、
         女が出てきて、少し裾のほうを乱すようになったり、
         足が出たりする女がいなきゃ・・・・。


澤地・・・・・・・赤ん坊抱いていたりしてね。男だけじゃダメですものね。
         完成は三月ですか。

位里・・・・・・・あと三部、「田中正造の直訴」と「女の押し出し」と「正造念仏」。
        「正造念仏」は、なかなかいいからね。
         あれはもう描くのは一番楽なんだ。いまのことも描かなきゃいけない。


澤地・・・・・・・どんな念仏なんですか。
 
俊・・・・・・・・いま草取りしてきたばっかりみたいな、顔なんかピカピカに汗かいて
         日に焼けたおばあちゃん達が、歌いだすの。
 
位里・・・・・・・こっち(左手)で鈴を持って、こっち(右手)でドラをパンと叩いて、
         みんなそろって、何か書いたものを持っている。
         歌がずっとできている。

俊・・・・・・・・方言の発音でしょう、よくわからないんです。       
         ただ「田中正造念仏」は二部に分れていて、
         初めは「子育ての歌」ってあるの。
         女が子を育てる歌、妊娠して産んで、おむつ取替えたりして、
         子どもが何歳になったらどうするとか、洗濯の話がずいぶん出るの。
         汚れ物はどこで洗いなさいとか、 
         何歳になったら女になるからこういうことをしたらいいとか。
 
澤地・・・・・・・子ども、特に女の子の躾のようですね、
         それを、お念仏のように唱えながら鉦と鈴とを間の手に、
         みんなで講中のようにして歌うのですね。
  

俊・・・・・・・「田中正造念仏」は公民館の床の間みたいなところへ
         正造の肖像画をかけ、鈴をぶら下げて、ろうそくを立てて線香上げて、
         おばあちゃんたちがつくったナスやキュウリの
          漬物なんかそなえて、念仏が始まる。

澤地・・・・・・・念仏は、命日とか、特別の日にやるのですか。

位里・・・・・・・一ヵ所でやるんです。
         私たちが聞いたほうは月三回やるそうで、
         もう一ヵ所のほうは月二回だそうです。
 
澤地・・・・・・・ずいぶんたびたび集まるんですね。
 
俊・・・・・・・・ずうっとつづいているんですね。
        「いつごろから正造念仏できたんですか」と聞くと
        「昔からですよ」って言う(笑)
        「どなたがつくったんでしょう」
        「わかんないですけど、昔の人がつくったんでしょう」と(笑)


位里・・・・・・・のんきなんだよ。おもしろいよ(笑)

俊・・・・・・・・「正造念仏」のほうは、ほんとに何歌っているかよくわからない。
          ただ、文句を読めばわかると思うけれども、
          ときどき「正造さんよありがとう」というの(笑)。
          それだけわかる。

澤地・・・・・・・何人ぐらいでやっているんですか。

位里・・・・・・・・二十人くらい。女ばっかり。ほとんど年寄が多いですね。


俊・・・・・・・・・五十くらいの方もいます。きっとあの中に、
          いまから次へ伝えてゆく人がいるはずです。

澤地・・・・・・・じゃ、女の人たちがずうっと明治、大正、昭和とやってきたんですか

俊・・・・・・・・それは確かですね。
          誰も提案した人はわからない。
          いつの間にか女たちが集まって、
          ほんとに土の中から出てきたみたいに歌われています。

澤地・・・・・・・いきなり聞いたのでは意味のわからない言葉に
         深い意味をこめた人たちがいて、
         それも二人三人でなくいっぱい重なるようにいて、
         それでできた歌なんでしょうね。
         お二人が描かれるのは、現在の、その「正造さんよありがとう」を
         歌っている人たちを「正造念仏」として描くのですか。

俊・・・・・・・・そうです。
         お年寄になったいまの人。皆がいい顔していらっしやるの。
         お百姓さんの顔です。
         種蒔いて、芽が出て、育てる事を知ってる人の顔です。

澤地・・・・・・・田中正造と最後のころまで一緒にいた人たちは、
         むしろを下げたような小屋に住んで、ひどく疲弊して、
         大変だったようですね。

俊・・・・・・・・正造のずた袋に石二つと聖書が一冊、それだけ。

澤地・・・・・・・そして、これがほんとに紋付かというような
         羊羹色のよれよれの紋付を着ていたとありますけど。

俊・・・・・・・・風呂へ入れてくれると、ブーッと頭までもぐっちゃんですって。
         そうするとシラミが浮くんだって。
         それを正造は手で外へ流すんだって。すぐそばにいて、
         いろいろ身のまわりの世話をした人の息子さんが
         生きていらっしゃつて教えてくださった。

(澤地久枝対話集・語りつぐべきこと・岩波書店より引用)