毎年恒例の秋のフィールドワークであるが、
今回は本郷界隈とあって直射日光の照りつける中、
キャップを目深にかぶり地下鉄、後楽園前から下歩きを行った。
先ず、最初の目的地は足尾鉱毒事件の田中正造が
谷中村問題に取り組む前、「六角家騒動」といって
村の自治的慣例の破壊と年貢徴収方式の変更に
端を発した騒ぎが持ち上がった。
田中正造は領主を暗君と呼び、首のすげ替えを要求した為に、
「旗本六角家」の座敷牢に閉じ込められてしまった。
毒殺を警戒した正造は監視を逃れた同士から二本の鰹節を
差し入れてもらい1ヶ月の飢えを凌いだとされる。
「六角家」の家屋敷があった場所は、今は「六角坂」として
地名だけが残り、高級住宅地とあって人影も少なく江戸の
切り絵図と付き合わせながらのフィールド・ワークである。
六角坂を後にして「樋口一葉終焉の稗」がある白山通り向かう。
更に一葉が通った伊勢屋質店の菊坂を登る。
一葉がかって居住し、今も井戸が残っている跡へ訪いをし、
突き当りの炭団坂を登った。
入り組んだ細い路地脇に手入れのされた数々の花が
目をなごませてくれる。
炭団坂を登りきったところに坪内逍遥が住んでいた。
無論、平成の御代には影形もなく、
文京区が設置した案内板に僅かな痕跡を拾う。
車の行き交う広い春日通りにでるや、すぐさまにあるのが、
石川啄木が下宿していた「喜之床」である。
明治四十二年(1909)の六月のころであった。
喜之床での生活は2年2か月続いたが、やがて病魔は牙を剥いて
襲いかかり、啄木は僅か26歳の若さでこの世と別れを告げた。
「かにかくに渋民村は恋しかり、おもいでの山おもいでの川」
は、喜之床時代の作とされる。
喜之床を離れ、道を回りこみ本郷弓町教会に行く。
ここは海老名弾正が演説をした場所であり、また谷中村問題で
鉱毒被害の演説会場となったところでもある。
時計を見ると11時を少し回っていた。
今来た道を戻り、今度は明暦の大火、
振袖火事のあった妙法寺を目指し、角を曲がった所に
かってあった「本郷菊富士ホテル跡」に足を伸ばす。
「菊富士ホテル」は錚錚たる文化人達が逗留をし、
主な止宿者には、石川 淳、宇野浩二、宇野千代、尾崎士郎、
坂口安吾、高田 保、谷崎潤一郎、直木三十五、広津和郎、
正宗白鳥、真山青果、竹久夢二、三木 清、中條百合子、
湯浅芳子、大杉栄、伊藤野江、月形龍之介、高柳健次郎
などの名が石碑に刻まれている。
菊富士ホテルから本郷通りにでるや東京大学の正門前にあった
相馬愛蔵・黒光の経営となる「中村屋」跡に寄り、
森鴎外の雁にでてくる「お玉の家」があった無縁坂を下り、
湯島の岩崎邸で大団円となった。
さほどの風もなく、少々の汗を浮かべたが冷たい物が恋しくなった。
https://www.youtube.com/watch?v=hgiFSSVWsQE