田中正造に学ぶ会・東京

真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず人を殺さざるべし!

歴史を学ぶということ

2011-07-07 09:16:29 | 歴史
散歩することは季節の色の中を通りぬけてゆくこと
一雨来る前に近くの公園を散策いたしました。
先日、鴨が4匹の子ども連れていたのですが、
今朝は3匹がいなくなりカラスに咥えられたものか
それとも虎視眈々と隙を狙っていた猫に食べられたものか
自然界の摂理とはいえ、なんとも寂しい感があります。

さて、戦争の悲惨さを語り継ぐというのは容易なことではないなあと
思ったのは、先に、神に召された久世光彦さんの話によると、
あるドラマに出演する女子中学生二人が撮影の合間に
小林薫、田中裕子、加藤治子さん等の会話を聞いていたそうです。
話題が偶々終戦のころの話になりました。
傍らで話を聞いていた一人の中学生が
「エーッ、日本がアメリカと戦争したんですか?」
とびっくりしたので、みんながそれにびっくりしたというのです。
つづいて、もう一人の中学生が「それで、どっちが勝ったんですか?」
と真顔で聞いたそうです。
加藤治子さんは思わず椅子から滑り落ちそうになったといいます。

文芸春秋の編集者をしていてベストセラーになった「昭和史」を書いた
半藤一利さんは、女子大で教鞭をとっていた際に授業の後に50人の
女子学生にアンケートをとったそうです。
そのなかの一つに、太平洋戦争に関するアンケートで「アメリカ、ドイツ、
カナダ、オーストラリアのうち、日本と戦っていない国はどこですか?」と
いう質問を設けました。
答えはドイツなのですが、
なんと、女子学生50人中、13人が「アメリカ」と答えたのです。
半藤さんは、当初学生達がふざけているのかなと思ったと言うのですが、
本当に知らないので驚いたともいいます。
自分の国の歴史を知らない若い人たちが親になっていくのを見て、
これは由々しき事態だと思い「昭和史」を
書いてみようとしたのだそうです。

歴史を学ぶというのは、未来に対する責任を過去に問う、
いわば生き方の問題でもあると思われます。
かそかな気配に耳を澄ませ、心の土を耕す作業が肝要ではと
我が身に言い聞かせているところです!

☆定例会会場・板橋区大原社会教育会館
☆毎月第三土曜日・ PM5時30分~9・00
☆代表 鮎澤正幸 Tel03-3966-1715

田中正造は「私がもっとも敬愛している人です」

2011-07-05 18:32:15 | 歴史

昨夕の「毎日新聞」に反原発の第一人者
小出さんの記事が掲載され、
田中正造は「私が最も敬愛している人です」
と述べられていましたのでご紹介いたします。

特集ワイド:研究の前線で反原発 住民支える「異端」
--京大原子炉実験所・小出助教
◇リスク負うのは後世…犠牲少なくする責任ある
学者の良心とは何か--。福島第1原発事故は、
すべての原子力研究者に問いを突きつけた。
その一人でありながら、一貫して反原発の立場を取ってきた
京都大学原子炉実験所(大阪府熊取町)の
小出裕章助教(61)は今、何を思うのか。
【宍戸護】
 


◇田中正造「もっとも敬愛する人」

暑い昼下がり、訪ねた研究室は薄暗かった。
蛍光灯もエアコンもスイッチを入れていない。
2人一部屋の真ん中をついたてで仕切られた細長いスペースで、
小出さんは机に向かっていた。
「余計なエネルギーは使わない。
皆さんぜいたくになり過ぎて、不要なものを使い過ぎています」

原子力の文献が山積みされて、記者が座るともう身動きがとれない。
小出さんの専門は放射線計測、原子力安全。愛媛県・
伊方原発の設置許可取り消し訴訟で原告側証人となり、
99年のJCO東海事業所臨界事故では土壌の放射線を測定し、
別の争いでは地域のがん死者数の推計作業も行う--
放射性物質の被害を受ける住民を支える活動をしてきた。

福島第1原発の事故後は新聞、テレビ、ラジオ、講演、
あらゆる場で事態の深刻さや政府・東京電力の
対応のまずさを指摘し続けている。
6月に出版した「原発のウソ」(扶桑社新書)は
20万部のベストセラーになった。
いまや一分一秒を惜しむ忙しさだ。

  ■
小出さんは東京都台東区生まれ。私立開成高校卒業後、
1968年、東北大学工学部原子核工学科に入学。
授業を一回も欠席しない学生だったという。
「あのころ、原子力は未来のエネルギーと信じていました。
原爆のものすごいエネルギーを
平和利用したいと思い込んでいました」

東大安田講堂事件をテレビで見た69年、
宮城県女川町・石巻市にまたがる女川原子力発電所設置を巡り
漁師たちが「電気は仙台で使うのに、なぜ自分たちの町に
原発を造るのか」と抗議していることを知った。
小出さんは原発のあり方について考え抜き、一つの結論にたどりつく。
「女川原発が事故を起こした場合、地元住民はそこに住み続ければ
健康に害があり、健康に害がないようにすれば、
その地域に住めなくなる」
その懸念は42年後、福島県で現実となる。

原子核工学科は、
原子力発電を支えるための科学者や技術者を養成する場。
「この学問は受け入れられない」と去っていった仲間もいたが、
小出さんは「原子力の学問の中にいながら、原子力が抱える問題を
指摘し続けるのが自分の歩む道」と決断した。

 京大原子炉実験所が助手を募集していることを
「大学院の掲示板で偶然知り」、74年春に採用された。
そこには既に、反原発を唱える助手が4人もいた。
原発関連の訴訟を支援し、のちに加わった今中哲二助教とともに

「反原発の6人組」と呼ばれた。
中国の文化大革命を主導した4人組になぞらえての揶揄(やゆ)だ。
「反国家的な存在」ともささやかれた。
実験所は「原子炉による実験及びこれに関連する研究」を目的とし、
全国の大学の共同利用施設として63年に設置された。
反原発を掲げる小出さんらがなぜ残れたのか。

「ここの原子炉は、もともと中性子を出すための道具として造られた。
物理学、化学、医学のがん治療にも中性子を使って
研究したい分野があり、推進も反対も関係ないのです。
とはいえ、教員の自由な意思を尊重し、
学問を発展させる京都大学の校風もあったでしょうね」
 
長年、助教(助手)であることについては
「(出身大学からしても)外様ですから」とやんわりかわしたが、
研究者の「原子力村」への舌鋒(ぜっぽう)は鋭い。
「猛烈な選別があります。
例えば東大ならば国家に協力しない人はダメ。
その協力の度合いに応じて出世が待っているのです」

 5月23日の参院行政監視委員会で、
参考人として国の原子力政策を批判した小出さんは、
インド独立の指導者、マハトマ・ガンジーの言葉
「七つの社会的罪」を挙げた。
うち二つは「道徳なき商業」と「人間性なき科学」。
前者を東電、後者を自らも含めたアカデミズムに当てはめた。
「一人一人の人間が生きてきた歴史が根こそぎ壊れた。
失われる土地、生活、健康を考えれば、これからも
原子力が科学の進歩で何とかなるとは、私には到底言えない」
小出さんは静かに言った。

  ■

ふと目の前にあるついたてを見ると、
ひげをはやした老人の顔写真があった。
足尾鉱毒事件の被害者救済に生涯をささげた
明治時代の政治家、田中正造。

「私が最も敬愛している人です」
日本が列強入りを目指し、日露戦争に突き進もうとした時代。
正造は、群馬・栃木県の渡良瀬川流域で起きた足尾銅山からの
鉱毒公害を告発し、権力の横暴と闘った。
明治天皇に直訴し、自らの命と引き換えに
農民たちを救おうとしたことはあまりにも有名だ。

くしくも震災発生直前の3月8日、
正造の晩年の直筆短歌が栃木県で見つかった。
 <世をいとひ そしりをいミて 何かせん 
身をすてゝこそ たのしかりけれ>

 そしりを受けて世を恨んでも仕方ない。
身を捨てて事に当たればこそ楽しいこともあろう--。
「正造さんは国家に見捨てられた農民に最期まで寄り添い続けた。
亡くなる時も、自分の病気より鉱毒のことを気にして、
住民を叱咤(しった)した。
実に潔い生き方だと思います」

鉱毒と原発--。二つの出来事が時を超えて重なる。
 「原発には都会が引き受けられないリスクがある。
そのリスクを、都会の住人は社会的に弱い立場にある
過疎地の人たちに押しつけている。
仮に原発事故が防げても、原子力を使い続ける限り
核のゴミ(放射性廃棄物)は増え続けるし、
人間はそれを無毒化できない。
私たちの世代は、自らの利益のために、
選択権のない後世にその『毒』を押しつけているのです」

後世への責任。
それは小出さんが常に強調してやまないことだ。
「原子力の場にいる私にも普通の人とは違う責任がある。
そして、普通の日本人の皆さんにも責任はあると思う。
推進派にだまされたかもしれない。
でも、だまされた責任もあるはずです」

とすれば、やるべきことは何か。
「原子力を進めてきたのは大人だが、
そのしわ寄せを受けるのは、おそらく子どもたちです。
子どもたちの犠牲を何とか少なくするために、
私は自分なりに責任を果たしていきたいのです」

この国の原発数は米仏に次ぐ54基。
自ら「異端」と称する研究者は、
これからの長く険しい闘いを覚悟しているようだった。

==============

t.yukan@mainichi.co.jp
ファクス03・3212・0279

(毎日新聞 2011年7月4日 東京夕刊より引用)


☆定例会会場・板橋区大原社会教育会館
☆毎月第三土曜日・ PM5時30分~9・00
☆代表 鮎澤正幸 Tel03-3966-1715