多摩爺の「時のつれづれ(水無月の19)」
長州の女(ひと)
義母の遺影をどうしよう。
5年前にカメラマンの息子が撮った、普段着のまま縁側に腰掛けて笑ってる、
この写真が良いねと話し合っていたとき、
生前、遺影に使ってほしいと・・・ 30年ぐらい前に撮った写真があると義弟が言いだし、
おもむろにアルバムを出してくると、パラパラとめくりだした。
そして、「これこれっ」と指をさした写真をみて・・・ 一瞬、ドキッとしてしまった。
まさに遺伝子の妙というか・・・ これぞ親子というか、
当たり前と言えば、当たり前なんだが、隣に座って見ていた女房と、
すっごく似ていたので驚いてしまった。
日本海に面した漁村に生まれた義母は、
体は小さいが、とっても元気が良くて、よく笑う楽しい人だった。
十数年前だったと記憶してるが、義母が・・・ 笑いながら喋ってくれた武勇伝があり、
晩メシのときにその話がでると、姉弟は顔を見合わせて「その話知ってる。さすが母ちゃんだわ。」と
一瞬にして、その場は笑いに包まれていた。
それは、生まれ育った漁村から、山あいの農家に嫁入りするのが嫌で、
仮病を使ってお見合いをすっぽかしたという・・・ とんでもない武勇伝だった。
結局は親同士が縁談を進めたことから、本人の意思は考慮されることなく、結婚に至ったんだが、
「私は町に住む人と一緒になりたかった。」と、
笑いながら話してくれたことを、皆が思いだしていた。
女房の実家は、三代に渡って子宝に恵まれず、養子をもらって田畑を守ってきている。
岳父は、山を二つほど超えた集落から5歳で養子に入っており、
血の繋がりがないままの親子関係が、三代も続いたなか84年ぶりに産まれた子供が女房だった。
そういった状況もあって、子供を産まねばならないというプレッシャーが重くのしかかり、
嫁入り前の義母は、岳父がどうのこうのではなく、
この家に嫁ぐことが苦痛だったと・・・ 話してくれていた。
ちなみに戸籍謄本をみると・・・ 岳父は助左衛門さんの五男で、義母は栄次さんの四女だから、
生まれた時代と、家族構成などが如実に分かってしまう。
閑話休題
ふるさとの銘菓の一つに「長州の女」という、
カステラ風の生地に餡子を包んだ、日本茶に相性抜群の和菓子があり、
ふるさと出身の直木賞作家・故古川薫さんが「長州の女」とのタイトルで、
次のような短文を綴っておられるので紹介させてもらいたい。
幕末、長州藩が黒船を撃つ大砲を鋳造すると聞いて、
藩内の女性は、命と大切にしていた自分の鏡を惜しげもなくさし出したという。
やがて文久三年、関門海峡で始まった攘夷戦に「男なら、お槍かついで・・・ 」と、
心意気をみせた萩女が、無口でしっかり者の、日本海型だとすれば、
討幕を叫んで石城山頂にたむろし、第二奇兵隊の若者たちに明るい笑顔をおくった周防女は、
働き者で快活な・・・ 瀬戸内海型である。
そして、明治維新の国際的舞台となった、下関で活躍した高杉晋作や、伊藤博文をはじめ、
多くの志士を助け、豊満な肌を投げ出して彼らに愛されたのは、馬関の女たちだった。
日本海と瀬戸内海が、関門海峡で合流するように、
港町下関では長州の二つの女の熱い血が入りまじる。
疾風怒濤の歴史のひとときを彩る・・・ 長州おんなの健気さ、美しさ、あやしさ、
その魅力のすべてを味に籠めた銘菓「長州の女」が、
海峡の町・下関で誕生したというのもまた、故なしとしないだろう。
※ 文中の一部には、女性蔑視ではないかと、取られかねない表現があるが、
作者の意思と時代背景を鑑み、本文をそのまま記載させていただくことにした。
私自身には、全くもって他意がないことだけは記しておきたい。
「疾風怒濤の歴史の中で美しく健気に生きた長州の女、
彼女たちの魅力のすべてを銘菓の味に表現してみました。」
というのがオチになるが・・・ これを義母に当てはめれば、
間違いなく、無口でしっかり者の日本海型と、働き者で快活な瀬戸内海型の、
両方の性格を併せ持った、生粋の長州の女性であり、歴史を支えてきた無名の庶民だった。
歴史とは、華のある表舞台で活躍し、名を残す人たちだけが作っているのではない。
けっして表舞台に登場することはないが、陰で支える無名の庶民が数多いて、
長きにわたって、後生に語り継がれてゆく。
先祖代々の田畑を守り、額に汗して働く男性がいて、健気にそれを支える女性がいたから、
いま、私たちがここにこうしている。
肩書きなどというものは一つもない、たかが農家、されど農家だが、
農家には、農家なりの意地と矜持があり、語り尽くすことすらできない汗と涙が流されている。
中国自動車道「壇ノ浦PA」で見つけた・・・ ふるさとが自慢する銘菓「長州の女(ひと)」
その傍らに置いてあった、故古川薫さんが記す、菓子に込めた思いに触れたとき、
「あっ、これは義母のことだ。」と、心の琴線が共鳴する瞬間があり、
帰京したら、必ず「長州の女(ひと)」というタイトルで、
義母のエピソードを記そうと思い・・・ 今日に至った。
享年88歳
子供や、孫たちが大事にしている記憶の引き出しを、そっと開けて、
楽しかった思い出を、たくさん詰め込んだと思ったら、
突然吹いてきた水無月の風に誘われて、静かに逝ってしまった義母に「感謝」という言葉を捧げたい。
ありがとうございました。
追伸
結局、遺影は5年前に息子が撮った1枚を採用することになった。
義母の意思に反することになってしまったが、キリッと前を向いた写真は、美人で良いと思うものの、
「笑顔の方が、絶対良いよ。」が・・・ 皆の総意になった。
壇ノ浦PAで見つけた郷土の銘菓「長州の女」、その傍らには直木賞作家・古川薫さんが記した短い文章がある。
ちなみに実母は、生まれも育ちも石見人(島根県西部)であり・・・ 長州出身の女性ではない。
コメントを頂戴しありがとうございました。
お世話になった義母だったんで、どうやって感謝の気持ちを伝えようかと考えていました。
空上から喜んでくれていたら・・・ 嬉しい限りです。
返信をいただき恐縮です。
もう20年以上も前のことですが、壇ノ浦PAに来ると思い出します。
また、ななだいさんの写真はアングルというか、切り取りが素晴らしいので思い出が蘇ります。
楽しみに待ってます。
お父様が壇ノ浦PAに!
壇ノ浦PA、まだ先ですが写真を載せる予定にしておりますので良かったら見てくださいね。
関門橋は確かに補修中で私の時はめかりPAの方が残念な状態でした。
あの界隈は見どころ満載で是非是非又行きたいと思っております。
コメントを頂戴しありがとうございました。
3月に亡くなった父は、国鉄(JR)を定年退職して、国民宿舎に再就職しましたが、
勤勉さが評価されて、壇ノ浦PA(お土産コーナー)に再々就職し、古希まで勤めていました。
よって、みもすそ川の界隈は、特別な思いがある場所の一つでもあります。
いま関門橋は補修工事が行われており、インスタ映えの邪魔をしてますが、
工事が終わったら北九州工業地帯を借景に100万ドルの夜景が美しいところです。
機会がありましたら、再訪していただけると嬉しく思います。
コメントを頂戴しありがとうございました。
妻の実家にいくと、大事にしてくれる感がたくさんあって、女性と違って男性には特別なものかもしれません。
また、実母と違って口うるさく言われることもないので、
逆にこちらが迷惑かけてないかと気遣いしたりして、私にとっては話しやすくて居心地のよい場所でした。
とはいうものの、そういった感覚など、すべてを用立てしてくれている女房あってこそだと思っています。
義母に感謝、女房に感謝ですね。
亡き義母様への思いが伝わります。
そしてみもすそ川公園にて馬関戦争で使用された大砲のレプリカを見て来たので
二つの女についてのお話を一層興味深く読ませて頂きました。
私も壇ノ浦PAに行ったのでつくづくこの文章を読んでから行けば良かったと思いました。
又、これから何度も読み返したいと思います。どうもありがとうございました。
とても素晴らしく、為になるブログありがとうございます。
お義母さま お婿さんにこんなふうに思われ(慕われて)お幸せです。
そう思われてます!絶対。
恐縮ながら 私の母と私の夫も似てるように思いました。
母は女手一つで子を育てました。
夫はそんな母(夫には義母)を尊敬してました。
年老いて弱る母を逆に叱咤激励しました。まるで本当の親子のように。
読ませていただきありがとうございます。
気遣いのある文章にも感銘いたしました。