はんかくさいんでないかい。

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積極的平和主義の謎

2013年12月25日 | 日記

安倍晋三首相が語る積極的平和主義というのが理解できなかった。普通に考えるならば、例えば個人同士の喧嘩があったとして、それを見てみぬふりをせずに仲裁に入るのが、積極的平和主義のように思える。ところが安倍晋三の言う積極的平和主義というのは、どうやらそうしたものでは無いらしい。

喧嘩は周囲が迷惑するものだ。喧嘩なんかしないでくれと思うのは普通であるし、できれば仲裁したいと思うことも多い。ただ、先日の南スーダン内紛でPKOで駐留している韓国軍への弾薬供与が、実は安倍晋三の語る積極的平和主義に資すらしいのである。

これは見方を変えれば、公共の場で喧嘩している当事者を、全員射殺して「平和になった」とうそぶく態度であって、ヤクザが繁華街の雑踏に腹を立て、「やかまし、手前ら皆静かにしないと皆殺しだぞ」と凄んで銃を乱射し、雑踏のに賑わいを沈め、沈黙させて「静かで平和になった」と嘯くのに似ている。

どうやら、我らが安倍晋三サンは、こうした強権を背景に、皆を静かに従わせることが「平和」だと勘違いしているようだ。

紛争のあるところ、至るところにしゃしゃり出て、お前ら平和にしないと痛い目みるぞ、と脅すのが、どうやら積極的平和主義の正体のようである。

そこには雑多な意見、言論での対立、論争による解決という、民主主義国家のとるべき平和への態度が微塵も感じられない。多種多様な意見が並行して存在し並立しながら、その中で議論を戦わせながらも、世を動かすのが、民主国家のシステムというものだが、どうも安倍晋三サンはそう思っていないようだ。

国会でのねじれで「決められない政治」がマスコミの話題となる。ところが、東日本大震災の復興関連法案、官僚の明らかなサボタージュによって遅滞してはいるが、震災関連では子供被災者支援法は、党派を超えて賛成多数で容易に可決・成立している。ねじれが決められない政治を生んでいるのではない。決めようと決めまいと実は本質的にはどうでもいいことが、ねじれによって決められていないだけだったのである。決めなければいけないことは、ねじれ国会であろうと「決まった」ではないか。

決められない政治を廃し、自民党独裁であるかのような体制になった途端、誰もが「聞いてないよ」という武器輸出三原則の事実上の撤廃。つまりは、問答無用なのである。それが積極的平和主義の正体だ。衣の下からかいま見える鎧。特定秘密保護法という「僕ちゃんは知っているけど、皆には知らせないもんね」というワケのワカラヌ法律の制定。

その先にあるのは、どうやら軍靴の響きだけのように思える。


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