幹線通りを歩く途中で何度かコンビニに立ち寄ってみたりした。
これから向かっている実家のライフラインは、
現在のところ水も電気もガスも大丈夫とのことだったが、
これからどうなるか判らないから、おにぎりでも買って持って行こうと思っていたのだ。
ところが、その類の米モバイル系食料は売り切れに近く、お弁当の棚はすっからかんだった。
パンが若干ある。
そうか、配達の車両すら遅れているのだ。
夜に差しかかろうとしてるこの時間帯も悪いのかもしれない。
とにかく、欲しいと思っていたおにぎり系は既に無かった。
みんな、考えるコトは一緒だ。
仕方ないので、500ミリペットボトルだけ購入。
レジ横には、「給水サービス、あります」とか張り紙がしてあった。
この時には、まさかそんなことまで必要? なんて思っていたけれど。
これは大手コンビニの災害時避難用のポイントとしての対応だったみたいだと、
あとになって改めて知る。
そしてその後に発生する「東京の生活物資が店頭から姿を消す事態」は、
こんなふうに地震直後から起こっていたのだった。
二人で歩き続ける途中では、何度か 行き交う人に道を聞かれたりした。
「○○駅はこの方向ですか?」
「このまま行くと、○○街道に出られますか?」など。
大概の方は合っている。 方向は間違っていない。 でも細かいところが判らないようだ。
これをコト細かに教えるほど道に明るくない残念な私。
「この道の少し先は○○街道になりますから、道なりに行ってそこでまた何方かにお聞きになって下さい」
なんて、すみません説明が大雑把で。
そんなこんなしながら着々と実家に近づく。
あと少しのところにドラッグストア兼スーパー形態の店舗があったので入ってみる。
食品類はさっきのコンビニよりも品数があった。
そのかわり今度はミネラルウオーター類が既に無かった。
何だか今夜は長い夜になりそうな予感も手伝い、
軽食やスナック類を購入。
こんな時にそんなお菓子を買い込んでどうする?的だが、
人間って、買って置くと気分がほっとするってあるじゃないですか。
そんな意味で、ポテトチップスや菓子パンも購入する息子。
それらを手土産のようにぶら下げながら、
実家へやっと辿り着いた。
結局約2時間歩いていた。 いつもなら車で15分程度の距離なのにw。
母はすでに私たち用の夕飯も一緒に準備してくれていた。
「お風呂も沸いてるから、先に入ったらいいよ」という父。
二人とも単純に、孫に会えた喜びでいつものように向かえてくれており、
それが心底ほっとして、気持ちが少しずつほぐれていく感じがした。
戸建である実家は幸いにも被害らしきものがなかったようだ。
ただ、ダイニングの壁に掛けておいた三十幾年前の重い掛け時計が、
母曰く「跳んできた」とのことで 下に置いてあった。
ガラス面にはヒビが入っていたものの 割れずにある。
TVニュースのよくある一場面みたいに、その針は「2時46分」を指して止まっていた。
余震が続く中、食事を終え、
父と母、息子と私、4人でテレビのニュースを見る。
津波がこれほどまでに恐ろしいものかと。
津波の惨事がまた新たな惨事を生んでしまい、燃えている気仙沼の市街地を呆然と観る。
東北の人たちはどれだけ怖い思いをしているのかと。
東京の親戚筋、家族筋にはなんとか連絡が取れて、
それぞれ無事を確認することが出来たが、
なかなか連絡が取れないのが夫と仙台の友人たちだった。
仙台友人へは充電すらままならない可能性があるから、今は少し控えよう。
しかし夫に連絡が取れないのは不安だった。
メールは送れているものの、それがサーバーに溜まっているのか、
受け取れなかったり、時間差で入ってきたり、なぜか時系列までがめちゃくちゃになっている。
キャリアが違う相手だと、苦手なのか?SB!!
・・・・・2年縛りが満期になったら、キャリア乗り替えてやる!SB!
めちゃくちゃな時系列ながら、届いたメールによると
どうやら夫は、先程からの報道とおりに帰宅難民になっているっぽかった。
・・・というか、車通勤の夫は、
その勤務先から特に遠い部下たち4名をその車で送り届けていた。
そんな渋滞の中にはまっていたのだった。
~~~~~~~~つづく~~~~~~~~~~~
これから向かっている実家のライフラインは、
現在のところ水も電気もガスも大丈夫とのことだったが、
これからどうなるか判らないから、おにぎりでも買って持って行こうと思っていたのだ。
ところが、その類の米モバイル系食料は売り切れに近く、お弁当の棚はすっからかんだった。
パンが若干ある。
そうか、配達の車両すら遅れているのだ。
夜に差しかかろうとしてるこの時間帯も悪いのかもしれない。
とにかく、欲しいと思っていたおにぎり系は既に無かった。
みんな、考えるコトは一緒だ。
仕方ないので、500ミリペットボトルだけ購入。
レジ横には、「給水サービス、あります」とか張り紙がしてあった。
この時には、まさかそんなことまで必要? なんて思っていたけれど。
これは大手コンビニの災害時避難用のポイントとしての対応だったみたいだと、
あとになって改めて知る。
そしてその後に発生する「東京の生活物資が店頭から姿を消す事態」は、
こんなふうに地震直後から起こっていたのだった。
二人で歩き続ける途中では、何度か 行き交う人に道を聞かれたりした。
「○○駅はこの方向ですか?」
「このまま行くと、○○街道に出られますか?」など。
大概の方は合っている。 方向は間違っていない。 でも細かいところが判らないようだ。
これをコト細かに教えるほど道に明るくない残念な私。
「この道の少し先は○○街道になりますから、道なりに行ってそこでまた何方かにお聞きになって下さい」
なんて、すみません説明が大雑把で。
そんなこんなしながら着々と実家に近づく。
あと少しのところにドラッグストア兼スーパー形態の店舗があったので入ってみる。
食品類はさっきのコンビニよりも品数があった。
そのかわり今度はミネラルウオーター類が既に無かった。
何だか今夜は長い夜になりそうな予感も手伝い、
軽食やスナック類を購入。
こんな時にそんなお菓子を買い込んでどうする?的だが、
人間って、買って置くと気分がほっとするってあるじゃないですか。
そんな意味で、ポテトチップスや菓子パンも購入する息子。
それらを手土産のようにぶら下げながら、
実家へやっと辿り着いた。
結局約2時間歩いていた。 いつもなら車で15分程度の距離なのにw。
母はすでに私たち用の夕飯も一緒に準備してくれていた。
「お風呂も沸いてるから、先に入ったらいいよ」という父。
二人とも単純に、孫に会えた喜びでいつものように向かえてくれており、
それが心底ほっとして、気持ちが少しずつほぐれていく感じがした。
戸建である実家は幸いにも被害らしきものがなかったようだ。
ただ、ダイニングの壁に掛けておいた三十幾年前の重い掛け時計が、
母曰く「跳んできた」とのことで 下に置いてあった。
ガラス面にはヒビが入っていたものの 割れずにある。
TVニュースのよくある一場面みたいに、その針は「2時46分」を指して止まっていた。
余震が続く中、食事を終え、
父と母、息子と私、4人でテレビのニュースを見る。
津波がこれほどまでに恐ろしいものかと。
津波の惨事がまた新たな惨事を生んでしまい、燃えている気仙沼の市街地を呆然と観る。
東北の人たちはどれだけ怖い思いをしているのかと。
東京の親戚筋、家族筋にはなんとか連絡が取れて、
それぞれ無事を確認することが出来たが、
なかなか連絡が取れないのが夫と仙台の友人たちだった。
仙台友人へは充電すらままならない可能性があるから、今は少し控えよう。
しかし夫に連絡が取れないのは不安だった。
メールは送れているものの、それがサーバーに溜まっているのか、
受け取れなかったり、時間差で入ってきたり、なぜか時系列までがめちゃくちゃになっている。
キャリアが違う相手だと、苦手なのか?SB!!
・・・・・2年縛りが満期になったら、キャリア乗り替えてやる!SB!
めちゃくちゃな時系列ながら、届いたメールによると
どうやら夫は、先程からの報道とおりに帰宅難民になっているっぽかった。
・・・というか、車通勤の夫は、
その勤務先から特に遠い部下たち4名をその車で送り届けていた。
そんな渋滞の中にはまっていたのだった。
~~~~~~~~つづく~~~~~~~~~~~