一般大衆な日々

ちょっと違うと思いたいのに結局みんなと一緒なSUZUの男前論。

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ @ Zeppなんば

2012-09-29 | 舞台

男性から女性への性転換手術で失敗し、股間に“怒りの1インチ”が残ってしまったロックシンガー、ヘドウィグの数奇な半生を描く。ジョン・キャメロン・ミッチェルの脚本・演出・主演で、97年にオフ・ブロードウェイにて初演。01年に公開された映画版も人気を博す。日本では、三上博史(04・05年)と山本耕史(07・08・09年)より上演されている。今作の舞台となるのは、11年3月11日の大震災から数十年後という、近未来の日本。立入禁止区域の壁の中にある巨大なスラム街で生まれたヘドウィグが、あいまいな性に苦悩しつつ、“愛”を叫び求める姿が描かれる。

演出=大根仁 訳詞/スガシカオ   森山未來/後藤まりこ

三上博史の時は、ちょっと怖くて結局観なかった。三上博史すごく好きなんだけど、今の自分が踏み入る事を許されない感じかして。
次の人にはあんまり興味なくて。
今回、森山未来は何としても観たかった。
彼がこの作品を演じると聞いて、もうそれだけで鳥肌立ったし、なんとしても観ようと思った。
一番早くチケットを手に入れることが出来た時期は、秋の予定なんて何にも決まってなくて、そりゃ、あっちこっち行きたい人にとっては一種の賭けみたいなもんよ。
結果は・・・土曜日のマチネ。この演目をマチネで観ようとするこの勇気!!(笑)
この決断は、正解で(ホントに正解?)金曜夜と、土曜夜に大阪城ホールに行く間に観るという・・・自分でもこの無茶にちょっと引く。違いすぎるやろ?内容が(まぁ大阪城の彼もショーとしてヘドウィグやってるけど)
天才と書いてモリヤマミライと読む。

圧倒された。

もうそれだけ。

スガシカオの訳詞がこれまたすごい。

大阪はスタンディングエリアはなくてすべて座席があったから立ったり座ったり。演劇というよりもライブに近い。
設定が斬新・・・というよりも、怖くなった。絶対にあり得ない未来といえるか?

憑依という言葉は、役者にとっていい意味でつかわれる。確かに憑依かもしれない。私の解釈は、憑依って、なにか神懸かり的で、自分の力の及ばないところで、無意識のうちに、役と役者の境界があいまいになっていくことって思う。
森山未来は、私が思う憑依とは違う。
彼は、確実に、演じている。そこには計算も、冷静に演じている自分を見てるもう一人の自分も存在してる。
ライブ感覚が強かったからかもしれない。
歌も、芝居も、客席とのやり取りも、そして無駄のないカラダも一流。舞台に立つものとして、憑依してると形容されることで弱点を補うのなら、彼はやっぱり憑依ってことではないなぁ。
舞台上で必要なものはすべて持っている。憑依する必要さえない。
そんな感じがした。

面白くて、哀しくて、切なくて、愛を信じて裏切られて、それでも生きなくては行けなくて・・・。

非の打ちどころがないってこういうことか。


こんなすごい子に、私はロミジュリをやってほしいと前々から思ってた。
ロミジュリ??今さら???

いや、ハムレットでなく、ロミジュリ。ハムレットはやれるもん。当たり前に。
ものすごく可愛くて幼くて清潔感のあるロミオを彼ならやってくれる。
このふり幅の大きい期待感が、いつも気になる理由の一つかもしれない。

堺雅人と森山未来の文章は難しすぎて、私には理解できない(笑)
だから、ビジュアル、動画付きで、この難解な青年も頭の中を見せてほしいです。

舞台「100万回生きた猫」
映画「北のカナリアたち」(湊かなえ原作)

楽しみ。


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