このままではいけない・・・民の叫びを背負った男の命を懸けた決意。 下総佐倉の領主の圧政に苦しんだ領民のために、名主・木内宗吾が江戸へ出て将軍に直訴した事件を扱った「佐倉義民傳」。 約160前の初演では熱狂的な人気を得、三ヶ月のロングランという大当たりをとったこの作品。2010年6月、シアターコクーンの空間でその熱気を蘇らせるべく、新脚本にラップを使った音楽を散りばめた、まったく新しい「佐倉義民傳」が誕生。
演出家:串田和美 中村勘三郎、中村扇雀、中村橋之助、坂東彌十郎、中村七之助、片岡亀蔵、笹野高史 /ラップ詞:いとうせいこう
最近良く聞くフレーズ、「現代の歌舞伎」
「かぶく」って今ならこうなんじゃないかってことで染五郎ちゃんは新感線の舞台に挑戦し、いろんな演出の人たちが、歌舞伎に挑戦してる。
こういうのが大好きです。本格歌舞伎の大ファンの人は、邪道と言うかもしれないけど、歌舞伎になじみの薄い私なんかはとっつきやすい。ここから大阪松竹座に足を運ぶこともあったりするので、新規開拓という意味では、本格歌舞伎にも貢献してることになる。
これって、猿之助歌舞伎なんかもそうなんじゃないだろうか?
どんな世界でも、最初、異端と呼ばれる人たちのそのエネルギーとパワーに、興味を示さなかった人たちまでが巻き込まれ、やがては本体そのものに還元されていく。
ただ単に反抗的異端なんじゃなくて、本家本元への愛情があればこその異端なんでしょう。(勘三郎さんはもうとっくに異端じゃなくなってるけど)
淡路屋!と大向こうがかかるほどの笹野高史。この人の出てる舞台ってもう、なんか・・・。
決して主役を食うことなく、でも存在感がすごくて、人間臭くて、静かで・・・とにかく!とにかく!長生きしてください(笑)もうそれだけです。
七之助の女形の儚いこと。何を学ぶでもなく、ただ生きてきただけ。
別の世界があるなら、行ってみたい。ここに生まれここで死ぬだけなら行ってみたい。
「哀」って字がそのままのお文でした。
前半、木内宗吾のお人よし加減に腹が立つんです。性善説って言うのだと思う。原作にない役で橋の助が登場するんだけど、まったく反対のキャラクター。宗吾の前に立ちふさがろうとするように見えたんだけど、それさえも自分に道を示すものとしてとらえる宗吾。
この対比っておもしろかった。一体自分はどちらだろうか?極端すぎる二人だけど、きっと宗吾のようにはなれないかなぁって。考えることのできるキャラが登場したことは、深みにつながったような気がする。
ただのお人よしで、子供の命まで取られてしまうって役は、理不尽すぎて感動できなかったどうろうけど、最後に子供が命を取られるときに「民の為に生きたのではない。本当はこの子たちの為に生きてきた」ってとっても親らしいセリフを言う。宗吾はここから守るべきものに対しての偽りのない愛情を語ります(もう、本当に最後だけど)御念仏を唱えるのを遮って「念仏など唱えるな。成仏してはならぬ。」と叫ぶ。この地に魂を残し、行く末を守り神となって見届けると絶叫しながら、目の前で子供は処刑される。
そのあとは、殿様に祟って、気のふれた殿様は身内を殺す。祟りよね。
途中、宗吾が走り続ける中、農民たちがラップで歌う。
「走れ!ソウゴ!ひたハシレ!思いシレ!」
ひた走れ、(だけど)思い知れ・・・・思い知れって、言葉がラストにつながっていきます。
もし、あの時、一揆をおこしていたら、あの結末にはならなかったかもしれない・・・ってことだろうか?
ラスト、ラップで出演者が語ります。
400年前と今は1本の道でつながっている。
政治色の強い出来事がラップ詞で羅列される。
このラストをなんだかなぁって思う人もたくさんいると思う。
だけど、私は、そこに繋げて語ろうと思っていたとは考え付かなかったので、素直に一つ学んだなぁって思いました。
ラップの世界なんて、何にも知らないから、いとうせいこうって人が、こういうことをする人だったって初めて知った。
その今回のラップの中で「百姓の春夏秋冬」は泣けた。
歌舞伎の芝居でラップで泣いた。
可能性っていろんなところに転がってる。