山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

天方城跡

2024-07-21 14:04:20 | 日記

15日、Chi、Ryoと一緒に車で森町・城ヶ平(天方城跡)へ
たかだか248mの端山だけど、よく整備された城跡をゆっくり巡れば、風に吹かれて少しは涼しいかな〜
誰もいない櫓風の展望台は南西に開け、森町の市街、磐田原、遠くに浜松のアクトタワーが見える

森町の城郭

森町の山城(やまじろ)をめぐる戦いは1501年(文亀元年)の天方本城(あまがたほんじょう)(大鳥居)に始まる。城を守ったのは今川方の天方通季(みちすえ)軍、攻めたのは斯波(しば)・小笠原連合軍。通季は一時、城を奪われ、付近の山上に避難し、今川軍本隊の応援によってようやく城を奪還(だっかん)することができた。
通季の孫にあたる 通興 ( みちおき ) は、徳川家康軍が遠江に侵攻してくることを予想して、1568年(永禄11年)ごろ、向天方に天方 新城 ( しんじょう ) (現在の天方城)を築いた。1569年6月、徳川軍は大挙して同城を襲い、通興を降伏させ、続いて飯田城の 山内 ( やまのうち ) 通泰 ( みちやす ) 軍を攻めてこれを滅ぼした。通泰の 庶子 ( しょし ) 伊織 ( いおり ) が、家臣の 梅村 ( うめむら ) 彦兵衛 ( ひこべえ ) に伴われて三河(愛知県)へ落ちのびたのは僅かな救いであった。
1572年(元亀3年)、こんどは北から武田信玄軍が遠江へ攻め込んできた。 
信玄は天方新城に部下の久野弾正(くのだんじょう)を入れ、飯田城も攻略し、さらに南下して東海道に出て磐田原(いわたばら)台地を北上し、二俣(ふたまた)城を落としたのち、三方ヶ原(みかたがはら)で徳川軍を大破したが、西進の途次、陣中で病没した。
家康は1573年3月、いったんは武田軍に攻略された天方城・ 各和 ( かくわ ) 城などを奪い返し、 一宮 ( いちのみや ) ( 片瀬 ( かたせ ) )城・ 向笠 ( むかさ ) 城を攻めた。一宮城を守っていた 武藤 ( むとう ) 氏定 ( うじさだ ) は 亀ノ甲 ( かめのこう ) (掛川市)へ逃れ、向笠城も一戦も交えず敗れ去った。6月、徳川軍は一宮城・ 社山 ( やしろやま ) 城(豊岡村)に防御柵を構築して 二俣 ( ふたまた ) 城の押さえとし、浜松城へ帰陣した。
氏定は、その後も武田方に属し、1581年(天正9年)、高天神(たかてんじん)城(大東町)で徳川軍と戦い、壮烈な戦死を遂げた。

(森町HPより)