横山さんは米沢のとなり高畠出身の建築家です。二井宿の生まれと聞いていますが、間違っているとまずいのでもう一度調べます。今日は25のビルをお持ちの菊地さんとお会いします。
横山さんのエッセイから
住んでいた家は私の五歳のころ建てられたものだが、仮の住まいという気持ちがあったのか住まいの中に治療室があるような、小さくこじんまりした二階建てであった。部屋のどこにいても父と患者さんが話す声、歯を治療するモーターの音、母の炊事や風呂を沸かす薪のはじける音など、全ての音や家族の気配がわかった。六歳違う弟を含めた家族の食事は朝晩いつも一緒である。今の家族は父親の後姿が見えないとか、団らんがないとかいろいろと言われているが、それとは全く異なる濃密すぎる環境であり家族関係であった。
あれほど宮沢賢二や分校の先生にあこがれていたが、家族の喪失感に対する恐れがあったのだろう。
自由業という多くの職種の中で最終的に建築の道を選ぶまでは自分の能力の程度、適正というよりは好き嫌いといったいわば消去法で、いろんな職種が浮かんだり消えたりした。
記録映画制作、医師、画家、演奏家、建築家、等々。自由業の中でも私なりに無意識に選択の基準をもっていたようである。かつて偉人の伝記をたくさん読んで感動し、自分なりに社会的に意義があり後まで残る仕事がしたいと考えていた。理数系は得意でなかったが、幼年時代から図工が好きだったので、総合芸術と言われる建築の道へ進んだ。
後年東京で建築設計に携わり修練を積んでいくうちに、およそ芸術的な建築や要素に無縁な山里が、私の原風景として驚くほど影響を受けている事を知った。新しく設計に入る前に敷地を見、どんな建物がこの地にそして家族にふさわしいかと目を閉じる時、故郷二井宿の目にしみるような新緑や、山の匂いいっぱいの風、集落や暗く恐かった鎮守の森が浮かんでくる。私の設計する住まいは、いかにたくさんの風や、あふれる光、そして緑を住まいの内外に取り入れるかが設計のコンセプトになった。
濃密な家族空間で育ったから、どこにいても家族のぬくもりや気配が感じる家を作る。坂を登りきった道から、母が炊事をしながら待っている台所の灯りがみえたように、
父親が疲れて帰ってきた時、我が家のキッチンや、子供部屋の灯りが遠くからでも見えるような住まいを、出来る限り設計するようになった。
父が不本意に四十年以上住んだ土地が私にとってほんとうに大切な、豊かな心象風景をはぐくんでくれた。人生に「もし」と言うカードはないのかも知れないが、父が望み通り疎開して何年か後、東京に戻っていたらということをふと考える。
昭和二十年から三十年にかけての東京の街で育つということは、想像しようにも全く想像外のことである。しかし、建築の道へは進まなっかたことだけは確かな気がする。