郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

戦国期 塩田城・明證寺の伝承

2019-11-18 23:28:46 | 城跡巡り
            
【閲覧数】2,925件(2015.09.03~2019.10.31)            


戦国期 塩田城・明證寺の伝承
  と宇野村頼の書状から見えてきたもの

                          
 
塩田城の伝承と塩田集落に残された地名
 
  塩田城は、菅野川上流の塩田集落の字谷にある。地元でも知られていなかったこの城が、黒田官兵衛ゆかりの地としてにわかに知られるようになった。それは官兵衛が仕えた小寺政職(まさもと)が塩田城主だっというのである。『播磨鑑(はりまかがみ)』(江戸時代の播磨地誌)には小寺政職が御着城主になる前の天文12年(1543)から同年14年(1545)の二年間、塩田城(構居)の城主であったと伝えている。


 






   塩田城は規模こそ小さいが、南方面に青木、西の峠を越えれば葛根、東の峠を越えると宇野氏の居城長水城に通ずる。つまり戦国期長水城への西からの進入を監視する番所的役割を持った城であったと考えられる。城の東には、荘園があったことを示す地名「政所」(地元では “まどころ”と呼ぶ)と「木戸」という地名が残されている。木戸は政所のあった荘館の門、あるいは長水城への関所があったのであろう。




 




赤松春日部家(かすかべけ)の所領であった塩田村


 戦国期の長水城主宇野村頼(宇野氏最後の当主祐清の祖父)の書状に塩田村が見られる。この書状は豆州御領(赤松伊豆守)の所領であった宍粟の塩田村・塩生野村(塩山)・□村及び美作国讃甘庄(美作市大原町)を守護(赤松晴政)に土地を差し出す趣旨の文書で、塩田村が室町期以降春日部家の所領であったことがわかる。春日部家というのは赤松則村(円心)の次男貞範を祖とする赤松一族で、室町幕府より丹波春日部庄を与えられ、以後この家筋は赤松春日部家と呼ばれた。


 
   宇野村頼請文(うけぶみ)


※兵庫県史(資料編中世9)春日部文書より

 
 この請文には年月の記入がないが、天文6年(1537)頃ではないかと推定されている。その頃の宇野村頼は宍粟郡全域をほぼ掌握していたようであるが、赤松総領家の指示で横領していた荘園を返還したと考えられ、主家に従う主従の関係があったとみなされる。   
 しかし、天文7年(1538)に出雲の尼子氏の播磨侵入が始まるや宇野村頼・政頼は尼子氏と関係を結び、主家赤松氏と決別し尼子氏に従って赤松氏と争っているのである。
 
 


    赤松氏・宇野氏・小寺氏の略系図



     
美作岩屋城の戦いで赤松軍敗退(小寺祐職の討死)
 

 少し遡(さかのぼ)るが、応仁の乱(1467~1477)で、東軍(細川陣営)に組していた赤松政則が西軍(山名陣営)の美作岩屋城を落とした。乱の終結後の文明5年(1477)赤松政則は播磨国・備前国・美作国の守護職に任じられ、赤松悲願の旧領回復に成功した。
 
 政則の跡を継いだ赤松義村は宿老の浦上村宗と対立した。永正16年(1519)浦上氏が備前三石城(備前市)に立て篭もり赤松氏に反旗を翻えしたため、義村はすかさず三石城を攻撃するも失敗した。翌年の永正17年(1520)には浦上氏に同調した美作守護代中村則久に美作岩屋城を奪われた。同年義村は、岩屋城奪回のため、家老小寺則職(のりもと)と祐職(すけもと)を差し向け城を二百日余りも包囲するも、浦上家臣宇喜多能家の助けを得た堅城岩屋城は落ちず、赤松軍は大敗し、この戦いで小寺則職・祐職父子が討死している。




 



 小寺則職は岩屋城の戦いによる祐職ほか多くの犠牲者を弔ったという。その場所が引き上げの途中であったのか、現在の塩田・明證寺があるところで、元は真言宗瑠璃寺(佐用町)の道場があったという。後に徳證寺(姫路市御着)の僧道悦は小寺政職が塩田城に移るとき随行し、浄土真宗の一宇(お堂)を建てたのが現在の明證寺で、寺名に徳證寺の證の一字をとって名づけられたと伝える『徳證寺由来記』。また菩提山明證寺の山号の菩提とは岩屋城の戦いの弔いにちなむと伝えている。

 
明證寺の古記録類の焼失で真相は闇に
 
 塩田城主に関する確かな資料は見あたらない。そもそも、宇野氏の長水城の膝元にある塩田城の城主が数年の短い期間にせよ宇野氏の主家である赤松家の家老小寺氏であったというのは懐疑的である。ただ明證寺が小寺氏の菩提寺であったとするならその小寺氏の縁者がこの場所に住み着いたと十分考えられるが、明證寺は明和6年(1769)に大火にあって古記類がことごとく焼失したため、真相は闇に葬られてしまった。
 

 参考:「塩田城 調査第11集」藤原孝三氏 、「戦国期宇野氏の宍粟郡支配」川崎普一氏     
※山崎郷土研究会報No.125より転載 (図のカラー化)
 

 
付記
 
小寺政職のこと
 
  大河「軍師官兵衛」では、小寺政職役で片岡鶴太郎のバカ殿ぶりの個性的な演技が鮮烈に残っている。
 しかしこれはドラマでのこと。この小寺氏は赤松一族として、「太平記」に名を残す古い家柄で、主家赤松家を終始支えてきた宿老といわれる重臣であった。
 小寺氏は戦国期に御着・姫路を拠点に西播磨に一勢力を築いていた。小寺政職のとき黒田親子(職隆・孝高)を家老に取りたてている。政職は信長の播磨侵攻の折、官兵衛の勧めにより最初は織田に恭順していたものの、荒木村重が織田に反旗を翻したことに同調したため、御着城は織田方の攻撃を受け落城し、毛利領の鞆の浦へ脱出し、同地で没したという。
 織田方の人質策に当主の子斎(いつき)を差し出さずに、替わりに家老官兵衛の子松寿丸を差し出したというが、それで許されたのはどうも解せない。もし人質が斎であったのなら展開は変わっていたのかも知れない。斎(氏職)は官兵衛の配慮により筑後に移った黒田家に仕官している。
 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿