郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来 「下河野」

2019-12-10 18:34:44 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来 「下河野」    宍粟市千種町


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■下河野(けごの)
千種川上領域。地名の由来は、高い山々の懐に抱かれ、それらの山々の渓流を集めて南流する千種谷の最も下流部を占める立地からついたものか。当村の北は東側の高畑山が張り出して絶壁をつくり、日の出が遅く嫁も朝寝ができるという内容の「嫁にやるなら下河野にやられ 下河野山かげ朝寝どこ」という里謡が残る。

【近世】下河野村 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、慶安2年(1649)幕府領となる。享保6年(1721)幕府領姫路藩領地、寛保元年(1741)幕府領、延享元年(1744)大坂城代堀田正亮(出羽山形藩)領、同3年6月幕府領、同年10月幕府領三日月藩預地、宝暦2年(1752)幕府領上野高崎藩預地、同13年幕府領、明和元年(1764)幕府領三日月藩領預地、同6年尼崎藩領、文政11年(1828)幕府領となり幕末に至る。

千種谷各村々の年貢米・大豆の大部分や鉄・小豆などの荷物は、地内砂子から塩地峠―大沢村小河内(山崎町)-出石(同町)-網干を経て大坂・江戸へ送られた。また山崎からこの峠を越えて諸物資が入ってきた。村人の生業は農業・林業(木挽・炭焼)が中心で、ほかに大工・桶屋・屋根屋・黒鍬(土木工事)や、牛馬による駄送に従事する者もあった。

 享保17年(1732)不作による年貢銀納願のため江戸表へ越訴した一件が起きたが、これも比較的に現金の入手が容易であった一面を表している。文政8年(1825) 作州で起こった百姓一揆が当地へなだれ込み、千種谷の村々の百姓も一緒になって砂子から塩地峠を越え山崎に迫ったことが高下村大庄屋庄家「公私用日記」に記されている。

 明治22年に船越・三河方面への平坦な道が開通するまでは、当村の阿踏(あぶみ)と船越村の名目津和(なめつわ)の間は両側の山が千種川の河岸迫り、道は高いなめら(岩の上)を通る坂道で、安全を祈願した明和4年(1767)銘をもつ地蔵と年未詳の牛馬安全供養碑がある。

 神社は八重垣神社。もと千草町の大森神社の氏子であったが、元禄9年(1694)の祭礼で村役人席順についての争論があり氏子を離脱、同年美作国吉野郡海内(みうち)から八代荒神を勧請、明治8年八重垣神社と改称。明治43年妙見神社を合祀。境内に農村歌舞伎の舞台がある。一里堂(大師堂ともいう)は江戸時代の一里塚と明治時代に盛んになった新四国霊場巡りの霊場が合体したもの考えられ、堂内に弘法大師の立像・坐像と六地蔵を安置。地蔵のうち一体は天保3年(1832)の銘をもち、他の一体には「当村女講中」の刻字がある。明治22年千種村の大字となる。

【近代】下河野 明治22年~現在の大字。はじめ千種村、昭和35年からは千種町の大字。明治22年下河野と船越(現南光町)の間に郡道が通じ、宍粟郡の経済中心地 山崎へ馬力による物資の運搬が可能になると、板・丸材・角材など建築用材や木炭が大坂・姫路・神戸・山崎などへ移出され、酒・醤油・石油・黒砂糖などの食料品や日用雑貨が移入された。村は林業のほか養蚕・蓄牛にも力を入れ、養蚕教師の招聘、稚蚕の共同飼育・養蚕組合の設立、優良種牛の購入などを進めた。昭和5年初めてトラックが1台入り、馬力挽き衆との間で騒動が起こった。


◇今回の発見
・(千草)大森神社からの氏子離脱。この下河野の離脱と河呂(既出)の離脱に及んだ争論の原因は、世俗的人間くささがあって興味を引く。それと、トラック野郎に仕事をとられた馬力挽き衆の怒りが目に浮かぶようだ。
・千草谷から南の三河方面へ行くには、下河野村(阿踏:あぶみ)と船越村(名目津和:なめつわ)間の高いなめら(岩の上)の坂道を通らねばならなく、そこは、人・牛馬の通行の難所だったようだ。
(なめらの坂道 塩地の峠 牛馬駄送も大仕事 )

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