郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「黒土」  

2019-12-10 18:40:39 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「黒土」   宍粟市千種町


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■黒土(くろづち)
千種川上流域。地名の由来に関しては、明治10年「御用留書」に「地味大に悪 敷く土質黒マサ多くして土力劣り」とあるように、火山灰層の黒ぼこと呼ばれる真砂土層の土柄に由来するか。

【近世】黒土村 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、慶安2年(1649)幕府領となる。享保6年(1721)幕府領姫路藩領地、寛保元年(1741)幕府領、延享元年(1744)大坂城代堀田正亮(出羽山形藩)領、同3年6月幕府領、同年10月幕府領三日月藩預地、宝暦2年(1752)幕府領上野高崎藩預地、同13年幕府領、明和元年(1764)幕府領三日月藩領預地、同6年尼崎藩領、文政11年(1828)幕府領となり幕末に至る。

 河内が少ない割に牛馬が多いのは鉄山荷物・商人荷物の駄賃稼ぎに従事するものがあったことを示すものと思われる。享保17年(1732)凶作による年貢銀納願のため江戸表へ越訴した一件では、訴願した者だけでなく参加した若者も入牢せられ、残された女・子供・老人たちが困窮している状況を記す訴状や、当時の記録を克明に記した日記が、当時の庄屋であった尾崎家に残っている。銀納願は山間の僻村ではあるが鉄山などの関係で比較的に現金入手が容易であった一面もあらわしている。


姫路の奉行所への訴状(一部)



 神社は地内城ケ乢(しろがたわ)にある五社神社、のち明治41年須賀神社・滝神社を合祀。千草城跡に建立された神社で、土地の人は城宮と呼んでいる。千草城は石原城ともいわれ、城跡は黒土の集落西側の標高390mの山頂に位置する。慶安元年(1361)美作国へ侵攻してきた山名時氏に備え、赤松則祐が播磨・美作境の「竹山・千草・吉野・石堂ガ峯」の四ヵ所に城を構えているが、この時の千草城が当地のものをさすかは不明。「赤松家播備作城記」によれば、文明17年(1485)まで包里四郎右衛門が城主であったが、のち大河原氏・石原氏が城主となったという。最後の城主は宇野氏の重臣石原勘解由で、天正8年(1580)羽柴秀吉軍に攻略されて落城したという。また地内の山中にたたら跡が残る。地内字中島に教信上人の墓所がある。明治22年千種村の大字となる。

【近代】黒土 明治22年千種村の大字となる。明治10年代の鉄山の休山、同11年地租改正による国有林への編入と、二重の打撃を受け、村は再生への道を林業・養蚕業・蓄牛に求め、同26年村農会を創設、スギ・ヒノキの苗圃、養種の共同購入、種牛飼養などに力をいれた。特に当地は他5大字とともに蚕種貯蔵、養蚕教師聘用、繭共同販売などの事業を進め、また蚕業組合を開設して定款を定め、基本金を蓄積するなど養蚕の発展に力を尽くした。大正12年千種川支流黒土川の流水を利用し水力発電が設置され、村の一部に電灯が点灯。昭和13年村が県下2位の子牛生産頭数になった時、当地の牛歩有数は49であった。

◇今回の発見
・黒土は年貢の銀納願の処罰に、村の働き手がしょっ引かれて生活に窮した村の一つである。庄屋にその事件の古文書があり、残された女・子・年寄りの困り果てた状況が克明に記されている。(千種町史、ちくさの蹝(あしあと)に詳しい。)
・城ケ乢(小字に残る)に千草城(址)があり、そこに五社神社が建てられている。城宮と呼ばれている。





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