郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「生栖・深河谷・西深」

2019-11-23 06:35:13 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「生栖・深河谷・西深」  宍粟市一宮町

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下三方地区内

■生栖(いぎす)
揖保川下流左岸に位置し、集落中央部を支流築谷(つきだに)川が流れ、合流点南部に平地が広がる。地名由来は、生栖の「生」の「いぎ」と発音するのは事の始まりを意味し、三方の谷の始まる地に立地することからといわれる。栖は、住み処(か)、住んでいる所の意。

【近世】生栖村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。
 当村より上流の揖保川流域は三方谷(三方郷)と称され、当村はその際南部に位置していた。
文政8年(1825)12月、三方谷18か村の※小前百姓は惣氏神御形神社の鐘を合図にするなどして決起し、26日に庄屋の福野村七兵衛宅・七太夫宅および公文村の源七宅へ打毀(うちこわし)を行った。原因は凶作にもかかわらず七兵衛が高値で米を売却し、七太夫・源七は他国へ多くの米を売りさばいていたためという。打毀は三方騒動といわれた(以上、同年「深河谷村百姓願書」・同9年「深河谷村過料請書」土居家文書など)。この騒動に当村の者も参加、捕獲者一人を出し、村に過料銭も科せられている(一宮町史)。
 ※小前百姓(こまえひゃくしょう):一般百姓のなかでも土地を持たない弱小で格の低い百姓をさす。

 築谷川上流の滝に昔から鰻が住み、旱魃(かんばつ)の際にこの鰻に酒を飲ませて祈ると雨が降ったと伝える。
 産土神は大歳(おおとし)神社。秋の祭礼では勇壮な獅子舞が現在でも続けられている。明治22年下三方村の大字になる。

【近代】生栖 明治22年から現在の大字名。昭和51年の抜山(ぬけやま)崩れにより大被害を受けた。




■深河谷(ふかだに)
揖保川上流右岸に位置し、支流深河谷川流域と合流点南部の平地を主とする。地名は、奥深い谷間を流れる深河谷川に由来する。慶長国絵図に「谷村」とみえ、その北西の「池のかいつ」は現在の深河谷内池ノ河内(かいち)であろう。

【近世】深河谷村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、明和6年(1769)尼崎藩領、文政11年(1828)幕府領となり幕末に至る。
 神社は、池王神社。同社は長寿の神と伝え、秋の祭礼には伝統の獅子舞が現在も奉納されている。伝統行事の川スソ祭は、深河谷川と揖保川の合流点に臨時の堂を建て祭礼を行う。近隣では当地と河原田のみに伝わる特色のある行事。明治22年下三方村の大字になる。

【近代】明治22年~現在の大字名。はじめ下三方村、昭和31年からは一宮町の大字。






■西深(にしぶか)
揖保川上流右岸。地名は、揖保川右岸(西岸)のかなり奥深い、細長い地域であることによる。

【近世】西深村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領。明和3年(1766)頃から寛政3年(1791)頃まで三日月藩領地(西深区有文書)、以後幕府領として幕末に至る。明治22年下三方村の大字になる。稲は早稲で裏作は、麦、畑作は五穀のほか蕎麦・煙草など。
 文政8年(1825)の三方騒動に当村から参加したものがあり、捕縛者二人。このとき村役人が大坂谷町代官所(現大阪市中央区)に出張し、当村に過料銭も科されている(一宮町史)。
 産土神の御武(みたけ)神社は安産の神で、古来出産による死亡者はないと伝える。秋の祭礼には伝統の獅子舞がある。

【近代】西深 明治22年~現在の大字名。はじめ下三方村、昭和31年からは一宮町の大字。昭和51年の抜山崩れで大被害を受けた。



◇今回の発見
・難解な読みの地「生栖」、生をいぎと読むのは、山崎町蔦沢谷の入口にある生谷(いぎだに)と同じ。
・生栖・深河谷・西深には、獅子舞などの伝統行事が今も息づいている。
・文政期(1818~30)は、全国的に百姓一揆・村方騒動(一村単位の騒動)が頻発しはじめた時期であり、この打毀し「三方騒動」もその地方版ということになる。


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