宇喜多氏ゆかりの城跡を巡って備前を訪れました。はじめに宇喜多直家の最初の城といわれる乙子(おとご)城跡を紹介します。
戦国期の備前国は、西半を松田氏が支配し、東半を浦上氏が支配していましたが、宇喜多氏は浦上氏に仕えて直家のとき備前を手中にしています。
戦国の世に最後まで生き延び備前の覇者となった戦国大名宇喜多直家の足跡を城跡から見ていきたいと思います。
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▲乙子城跡全景鳥瞰 by Google Earth
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▲乙子城の南方面 吉井川河口から
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▲関連諸城の位置関係 by Google Earth
乙子城跡は、岡山市の乙子にあり、位置は、はだか祭りで有名な西大寺の南約5km南で吉井川の河口近くにあります。
河口とはいうものの、中世のころは、海に突き出した丘陵の先端にありましたが、近世の初めに干拓による新田開発が進み城の周辺地形が大きく変化しています。拡大した新田の灌漑用水に丘陵を掘削して千町川を二つに分流させています。
※宇喜多直家の子、秀家により干拓が始まり江戸時代を通じて、「児島」は陸続きの「児島半島」となり、『児島湾』が大きな変化を遂げています。
その変化は、下図(周辺図)と写真をみるとよくわかります。
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▲乙子城跡主郭の説明板より 乙子城跡は中央
※海に破点で書かれた現在の海岸線をみれば、干拓地は児島湾を埋め尽くすほどで広大な事業であったことがわかる。左は沖新田、右は幸島新田
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▲昭和23年(1948)航空写真 国土交通省
※中央の吉井川河口の左右の白っぽい部分はすべて干拓地
現地へはナビをたよりにたどり着くことに気を取られて、広々とした水田を見ても
干拓だとは気が付きませんでした。まして東の神崎緑地は小さな丘陵が削られてできたということも。(・_・;)
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▲向こうの見えるのが神崎緑地、400年前は陸地つづきだった
城があった戦国時代には、北は吉井川の河口、西は一面に児島湾、南は瀬戸内の島々が手に取るように見えたと思います。
つまりこの乙子城は、周りを海で囲まれ、防備にすぐれ、瀬戸内から児島湾内に出入りする船の監視の役目をもった城だということになります。
天文12年(1543)宇喜多直家は、天神山城主浦上宗景に仕え、同年宗景の軍に従い、赤松晴政の軍勢と播磨の地で戦い、わずか15歳の初陣で殊勲をたてた。この戦功と祖父能家の旧交によって、翌年邑久郡のうち300貫の所領を賜り、30人の足軽を雇って乙子城主となった。『備前軍記』とある。
そのほか『備前記』、『吉備秘録』等にもあるが、書かれていることが一致しないあるいは、触れられていないなど、史実とは判断できないのが実情のようです。
さて、直家はその後、浦上政宗に味方していた同族の宇喜多大和守を倒し、その功労によって浦上宗景より上道部奈良部城を与えられ、こちらに移った。だいたいこれが弘治2年、3年(1556~57)頃のことだということが研究により判明しつつある。(森俊弘氏「岡山藩士馬場家の宇喜多氏関連伝承について」)
その後、この乙子城の動静は全くわかっていない。ただ、直家に滅ぼされた浦上宗景の残党が、天正3年(1575)以降乙子城南方の幸島を根拠に暗躍しており(坪井文書など)、小島海峡を挟んだ向こう岸の小串に毛利方の高畠和泉守が在城していた(萩藩閥閲録など)ことなどを考えると、これらへの備えとして天正10年(1582)ごろまで機能した可能性が高い。(乙子城 落穂ひろいふーむ氏 より引用)
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▲乙子城古図 『吉備群書集成』より
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▲主郭
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▲主郭の下の曲輪
乙子城への3つの登り口
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▲鳥瞰に登り口を書き込むby Google Earth
乙子城跡の登り口は、① 右(東)からと、② 集落南東の乙子神社の参道から、③ 西端の神社(大国主が祭られている)の急石段からの三か所から登れます。駐車場所に困らないのは、三つ目の西端からです。
① 東の登城口
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▲ここには真新しい案内板が設置されている
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▲すぐに乙子神社に至る ▲神社前の案内板
② 集落南東の登場口(乙子神社の参道から)
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▲集落の東側に乙子神社の参道があり、鳥居の左を歩く
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▲鳥居の左を進んだところ ▲墓地の横をとおり抜ける
③ 西端の登城口(鳥居から)
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▲西の神社から登る ▲このお宮の横を抜ける。
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▲手すり付きの階段を登る、急坂だが最短で登城できる
【関連】
沼城
砥石城
新庄山城
天神山城
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