郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

備前 乙子城跡 宇喜多氏ゆかりの城①

2020-05-16 11:32:52 | 城跡巡り


 宇喜多氏ゆかりの城跡を巡って備前を訪れました。はじめに宇喜多直家の最初の城といわれる乙子(おとご)城跡を紹介します。

 戦国期の備前国は、西半を松田氏が支配し、東半を浦上氏が支配していましたが、宇喜多氏は浦上氏に仕えて直家のとき備前を手中にしています。

 戦国の世に最後まで生き延び備前の覇者となった戦国大名宇喜多直家の足跡を城跡から見ていきたいと思います。






▲乙子城跡全景鳥瞰   by Google Earth




▲乙子城の南方面 吉井川河口から




▲関連諸城の位置関係  by Google Earth



 乙子城跡は、岡山市の乙子にあり、位置は、はだか祭りで有名な西大寺の南約5km南で吉井川の河口近くにあります。

 河口とはいうものの、中世のころは、海に突き出した丘陵の先端にありましたが、近世の初めに干拓による新田開発が進み城の周辺地形が大きく変化しています。拡大した新田の灌漑用水に丘陵を掘削して千町川を二つに分流させています。

※宇喜多直家の子、秀家により干拓が始まり江戸時代を通じて、「児島」は陸続きの「児島半島」となり、『児島湾』が大きな変化を遂げています。



その変化は、下図(周辺図)と写真をみるとよくわかります。




▲乙子城跡主郭の説明板より  乙子城跡は中央

※海に破点で書かれた現在の海岸線をみれば、干拓地は児島湾を埋め尽くすほどで広大な事業であったことがわかる。左は沖新田、右は幸島新田




▲昭和23年(1948)航空写真 国土交通省

※中央の吉井川河口の左右の白っぽい部分はすべて干拓地



 現地へはナビをたよりにたどり着くことに気を取られて、広々とした水田を見ても
干拓だとは気が付きませんでした。まして東の神崎緑地は小さな丘陵が削られてできたということも。(・_・;)



▲向こうの見えるのが神崎緑地、400年前は陸地つづきだった


 城があった戦国時代には、北は吉井川の河口、西は一面に児島湾、南は瀬戸内の島々が手に取るように見えたと思います。
 つまりこの乙子城は、周りを海で囲まれ、防備にすぐれ、瀬戸内から児島湾内に出入りする船の監視の役目をもった城だということになります。


 天文12年(1543)宇喜多直家は、天神山城主浦上宗景に仕え、同年宗景の軍に従い、赤松晴政の軍勢と播磨の地で戦い、わずか15歳の初陣で殊勲をたてた。この戦功と祖父能家の旧交によって、翌年邑久郡のうち300貫の所領を賜り、30人の足軽を雇って乙子城主となった。『備前軍記』とある。
 そのほか『備前記』、『吉備秘録』等にもあるが、書かれていることが一致しないあるいは、触れられていないなど、史実とは判断できないのが実情のようです。

 さて、直家はその後、浦上政宗に味方していた同族の宇喜多大和守を倒し、その功労によって浦上宗景より上道部奈良部城を与えられ、こちらに移った。だいたいこれが弘治2年、3年(1556~57)頃のことだということが研究により判明しつつある。(森俊弘氏「岡山藩士馬場家の宇喜多氏関連伝承について」)

 その後、この乙子城の動静は全くわかっていない。ただ、直家に滅ぼされた浦上宗景の残党が、天正3年(1575)以降乙子城南方の幸島を根拠に暗躍しており(坪井文書など)、小島海峡を挟んだ向こう岸の小串に毛利方の高畠和泉守が在城していた(萩藩閥閲録など)ことなどを考えると、これらへの備えとして天正10年(1582)ごろまで機能した可能性が高い。(乙子城 落穂ひろいふーむ氏 より引用)





▲乙子城古図 『吉備群書集成』より



▲主郭



 
▲主郭の下の曲輪




 
 乙子城への3つの登り口




▲鳥瞰に登り口を書き込むby Google Earth




 乙子城跡の登り口は、① 右(東)からと、② 集落南東の乙子神社の参道から、③ 西端の神社(大国主が祭られている)の急石段からの三か所から登れます。駐車場所に困らないのは、三つ目の西端からです。



 東の登城口



▲ここには真新しい案内板が設置されている



 
▲すぐに乙子神社に至る             ▲神社前の案内板





② 集落南東の登場口(乙子神社の参道から)



 
▲集落の東側に乙子神社の参道があり、鳥居の左を歩く




 
▲鳥居の左を進んだところ                     ▲墓地の横をとおり抜ける  




③ 西端の登城口(鳥居から)


 
▲西の神社から登る                      ▲このお宮の横を抜ける。
 



▲手すり付きの階段を登る、急坂だが最短で登城できる


【関連】

沼城
砥石城
新庄山城
天神山城

城郭一覧アドレ
















三石城跡と船坂峠

2020-05-12 16:01:08 | 城跡巡り
【閲覧数】5,325 (2016.2.13~2019.10.31)                                  

 


 三石城跡を大手道ルートで登城したいと思いつつも、数年経ち、今回やっと大手道からの登城で展望のよい見張り所や大きな井戸跡等を見ることができた。山ろくに延びる西国街道の数キロ東には船坂峠があり、そこにも立ち寄ってみた。
 
 
 


 ▲三石城跡の全景(南東から)
 
 


三石城大手道からの登城
 

 大手道から登るほどに広がる眼下は気持ちがよく、時より山ろくを走る電車の音に目をやる。ここ備前三石城は人工林が少なく、自然林が比較的低木なのでそれぞれの見張り所からの展望がよい。そのため築城当時の見張りの感覚で見ることができる。
 大手道の半ば、山肌に露出した岩場あたりは急斜面となる。第一見張り所から城山を見上げたとき林の中に石垣を見ることができた。

 谷筋を登り切ったところに大手門跡が待ち構えていた。三石城の最も味わい深い場所である。
 
 


 
 アクセス


▲城山マップ 



城下町筋に案内板がある。登り口はこの奥にある。階段を登る途中の民家に、三石城跡の説明書の栞(しおり)が用意されていた。




 

 
               

▲「三石城の栞 編集西川晃男氏」 より                 
 
 
 

途中右手奥に宝篋印塔が目に付いた。三石城の武将のものだろうか。
 


 


 
上部には第一見張り所まで右700mとある。左に第二見張り所がある。



 
  
 

 


第二見張り所に城址の説明板がある。ここからの展望は南一円に広がっている。
 
 
 

 










さらに登っていくと、岩場の狭い道がある。。
 


  
 


 
その近くに、「息つぎ井戸」という岩の縁に小さな水たまりがある。その先に「千貫井戸」の案内板がある。
 


 
▲これが「息継ぎの井戸」?

 

千貫井戸は横長2m、幅1m程あり今でも水をたたえている。篭城には貴重な水の手である。
 

 

▲千貫井戸



大手道から左に進むと、第一見張り所に到着。結構広い削平地になっている。ここからの眺めはいい。
 



 
 ▲第一見張り所 
 



 ▲第一見張り所からのパノラマ展望
 


元に戻ろうと振り返ると、山頂の木々の間に石垣を発見。前回見落としていた石垣だった。



 
▲第一見張り所から山頂を望む                   ▲木々の間に石垣が見えた(望遠)
 




▲三の丸下にある石垣 
 


次に間道本丸跡への案内に進み、谷筋に沿って上っていくと大手門跡だ。左側の石垣の隙間が目立ち何らかの処置が必要に思う。こういった大手門は近世の平山城・平城の城造りの原型になった貴重な戦国期城跡だ。 




 
 
 


 ▲大手門跡
 

 
 
 
船坂峠に立寄る


 
  
▲国道2号線 上郡町から                     ▲旧道 勾配9% 境には車止めがある
 
 


 三石城の南麓を走る西国街道(山陽道)の北東約2kmには船坂峠という西国街道随一の難所がある。この峠は備前国と播磨国の国境にあり、現在の行政区割りでいうと、岡山県と兵庫県の県境、ひいては近畿地方と中国地方の境目になる。 江戸期には関所があり、この国境をへだてて備前と播磨の生活・文化や言葉(方言)の違いが見られるという。

 

 
▲県界                 ▲播磨国・備前国境
  


 船坂峠のことは「太平記」に児島高徳が隠岐遷幸の途にある後醍醐天皇を救い出そうとしてこの峠で待ち伏せしていたこと、赤松円心の鎌倉幕府打倒の挙兵に赤松貞則が鎌倉加担の西国武将の上洛をくい止めたこと、足利尊氏が九州落ちに際し、尾張氏頼がこの地に留まったこと等が記されている。


 

 ▲船坂山義挙之趾
 
 
 
■ 羽柴秀吉の中国大返し 



▲中国大返しのルート図(イメージ)


中国大返しのルート

 中国大返しとは、天正10年(1582)6月2日本能寺の変(織田信長が明智光秀により襲撃をうけ、自害した事件)の一報を受け、羽柴秀吉(兵3万)は備中高松城攻めの最中であったが、すばやく毛利と和議を結び、明智光秀討伐を急いだ。記録では京都山崎までの約180kmをわずか8日間で行軍を果たしている。その速さは当時の行軍としてはありえない記録的なものであった。

 その中国大返しの開始日時、ルートは不明な点も多いいが、経路は山陽道で野殿(岡山市北区)を経由して、姫路に至るルートが定説となっている。

 このルート上には吉備と播磨の国境に船坂峠という難所がある。『太平記』には、「山陽第一の難処」とある。秀吉軍2万以上の兵がこの狭く急坂のある船坂峠を抜けるのには、蟻の行列のような遅遅の歩みが予想される。

 その記録的な行軍を成し遂げることができたのには、なんらかの工夫があったのではないかということで海路も利用した説もある。数多い足軽の行軍を早めるため、兵站(へいたん)部隊が武器(銃・刀・槍)弾薬・食料等の輸送に海路を利用した可能性が指摘されるのである。その海上ルートは牛窓から坂越、片上津から赤穂岬が考えられるという。
 
 思うに、牛窓港は船の数が多いいが少し南に距離がある。片上津については山陽道に近接し、古くからの備前焼の搬出港で、当時この周辺は織田方の宇喜多氏の支配下になっており、船の早期手配が可能であっただろうし、ここで重い武器を外して船で運べば、雨で抜かるんだ急坂の峠でもさほど支障もなく通過できると考えられて、実効性がありそうだ。


帰路につく秀吉の返書

 6月5日付(本能寺の変4日後)秀吉より摂津茨木の中川清秀への返書が残されている。それによると、

 書状を野殿で読む、これより沼城まで行く予定。京都に下った者の話では、上様(信長)と殿様(信忠)は無事に難を切り抜け、近江膳所(大津市)に逃げられている。福富平左衛門の働きはめでたい。自分も早く帰城する。(大意)
と記している。

帰るコースにある野殿と沼城の具体的な地名を記していること。そのあとの内容は明智光秀に最も近い中川清秀に対して信長が生きているという偽情報を知らせ動揺しないように私が帰るまで待てと巧みな心象操作をしているのである。こんな非常時においても秀吉の人たらしの人心掌握の手腕が発揮されている。
 
参考:『日本地名大辞典』、『戦乱の日本史2』、「ウィキペディア 本能寺の変」



 
雑 感
 
 今回は、三石城の築城当時の見張りの視線を感じることができたのと第一見張り所から茂みの中の石垣が見えたことが印象に残っている。後日、地図マップを見ていると、大手道の入口は町筋からではなく、西の尾根筋先端からではないかと感じている。
 
 江戸時代には船坂峠には関所があり、山陽道の備前側には三石、播磨側には上郡町有年(うね)に宿場があったという。この船坂峠の道が今どのようになっているかについて近くには来たもののこれがその道だといういものを未だ見ていないのが心残りとなっている。






【関連】
三石城跡 
沼城(亀山城)跡

城郭一覧アドレ

関ケ原前夜 黒田官兵衛と長政の動き②

2020-05-11 10:52:41 | 城跡巡り
【閲覧数】1,635(2014.10.10~2019.10.31)                                   
              
 

 関ヶ原古戦場に地元郷土研究会主催の旅行で訪れた。予定より30分早く着いたので、ボランティアガイドさんの勧めで歴史民俗資料館の北向うにある黒田長政の陣跡に行くことになった。

  山すそでバスを降り、そこから山手を望むと陣旗がたなびいていた。関ヶ原の地形を見てみたいという個人的な思いがあったので、予定外の動きにワクワクしながら上っていった。

  見通しがよい陣跡からは、工場や建築物のため当時の風景とは違うが、戦場の広さと周辺の地形がわかり、南正面には小早川秀秋が陣をしいた松尾山も見ることが出来た。


 
 
 




  関ヶ原は、北は伊吹山系、南は鈴鹿山系にはさまれた南北2km、東西4kmほどの狭い地域である。古代より東西交通の要衝の地であった。伊吹山の影響を受け、日本海型の気候が見られ、冬季は北西の方角から伊吹おろしと降雪に見舞われる。




▲彦根市の佐和山城跡からみた伊吹山



 
 
 
 
 
天下分け目の関ヶ原の戦い
 
  慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とした西軍がここ美濃不破郡関ヶ原において激突した。それは全国の大名が二つに分かれ雌雄を決する天下の分け目の戦いであった。
 
 

関ヶ原の戦いまでの黒田如水の動き
 
  関ヶ原決戦が近ずくなか、九州豊前の黒田如水は豊後の主力のいない西軍の城を次々と落としていた。慶長5年8月28日如水は元の領国の奪回を狙った大友義統(よしむね)が豊後に上陸したことを知り、急きょそれを追った。豊後国速見郡(別府市)の石垣原で黒田・細川連合軍と大友軍の死闘が繰り広げられた。それは関ヶ原の戦いの2日前の9月13日であった。
 

 
黒田長政 丸山(岡山)に陣をしく
 
 長政の陣は西軍の本陣石田隊の近くの丸山に陣をしいていた。その場所は東軍の陣の中で最も高い位置にあり、味方の陣地も見通せる格好の場所で、烽火(のろし)場が置かれた。
 


 
▲南に松尾山が見える 丸山烽火場より             




▲松尾山のズーム  小早川秀秋の陣跡が残る



▲黒田長政の陣跡からのlパノラマ(北から南方面)
 



 この丸山の陣には、竹中重門(しげかど)がいた。二人は奇しくも黒田と竹中の二(両)兵衛の息子であった。二人は、長政(松寿丸)が重門(吉助)の父竹中半兵衛に匿われていたときに、関ヶ原の北東の菩提山城(垂井町岩手)に8ヶ月ほど過ごした幼なじみであった。実に20年ぶりの再会であったという。

  長政は地元であり関ヶ原の地理に詳しい重門と組み、西軍石田隊を守る屈強の島左近清興に勇猛果敢に立ち向かい追い詰める働きをし、さらに西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返り工作、いわゆる調略が功を奏し、戦いはわずか1日で決着した。
 
 


▲ 陣形図 (東部の布陣は省略)  昭和22年の航空写真(国土交通省)上に作図 
 
 


  戦後の論功行賞では、長政は関ヶ原で一番の働きと評価され筑前名島(後の福岡)で52万3千石を受領した。ちなみに竹中重門については、最初は西軍に組みしていたが、途中東軍に寝返えっている。関ヶ原では伊吹山中に逃げ込んだ西軍の小西行長を捕縛するなどの手柄を立て、美濃岩出山6千石を安堵され、以後幕府旗本として仕えた。

 

 関ヶ原戦陣図屏風(部分) 石田三成隊を攻撃する黒田長政隊 

 
福岡市博物館蔵
                
 


 昭和22年 大日本紡績関ヶ原工場 航空写真(国土交通省) 




 昭和22年の航空図を見ると何やら大工場のような建物が見える。ボランティアガイドさんがこの地に昭和の時代ユニチカの工場があり、女工3、500名が働き活気に満ちていたことを話されていたので、これがユニチカなら時代が合わないが・・・何だろう? と調べてみると、ユニチカの前身の大日本紡績関ヶ原工場(大正13年・1924年創業)であることがわかった。
 
 この関ヶ原町には関ヶ原の戦い、壬申の乱など歴史の転換期の貴重な遺跡・遺産が残されている。明治以降の日本の基幹産業の一つ紡績で栄えるも、ユニチカが80年代の紡績不況で去ったあと大規模な土地の再利用が町の課題として残されていることも知った。

 

 
 
 


雑 感 
  
 長政の高台の陣跡から小早川のいた松尾山や東軍・西軍の陣地を見て、おおよその地形・陣配置がわかった。次回ここへ来る機会があれば、その松尾山に登りたいと思っている。小早川が東・西両軍の陣と兵力が見て取れる格好の場所に陣をしき、いつ寝返りを決意したのか、それは陣をしく前からなのか、それとも戦況を見てからなのかを想像してみたいからである。また小早川の動きに呼応した脇坂・朽木等の陣跡も見てみたいと思っている。


関ケ原布陣図について

 関ケ原の東軍・西軍の布陣や戦いの状況などがどこまでわかり、わかっていないのか気がかりで、新しい見解や発見に興味をもっている。

 現在知られている関ケ原の戦いや布陣図は、江戸時代成立の二次史料に基づき、その文献に、『黒田家譜』、『石田軍記』、『関ヶ原軍記大成』、『大垣藩地方雑記』等があるが、互いの記述は一致していないというのである。
 私たちが、よく目にする布陣図についは、明治26年(1893年)旧陸軍参謀本部によって刊行された『日本戦史』関ヶ原の役(附表・附図)に掲載されたものがベースとなっている。これは何を根拠に作成され、あるいは創作されたのかはっきりしないのでその信憑性がおぼつかない。
 ただ、これらを基に記述された著書や映画などによって、何ら疑問もなく信じられてきたこの戦いが、最近では一次史料を基に様々な分野の研究手法により見直され、従来の説にメスが入っているのは興味が尽きない。

 よく「歴史は勝者・為政者によって塗り替えられてきた」とよく耳にする。そのため後世に書かれた文献の扱いは二次史料としての扱いであり、鵜呑みにすることの危険性もあることなど、改めて感じている。




 ▲関ケ原の布陣図 部分  『日本戦史』(附表・附図) 旧陸軍参謀本部 (国立国会図書館デジタルコレクション)


【関連】
関ケ原前夜 黒田官兵衛と長政の動き①


播磨・宍粟の城跡一覧
 



関ケ原前夜 黒田官兵衛と長政の動き①

2020-05-10 09:21:54 | 城跡巡り
【閲覧数】6,145(2013.114.4~2019.10.31)



九州の関ヶ原  ~如水九州制覇をめざす~ 
 

関ヶ原前夜
 
 慶長3年(1598)8月天下人豊臣秀吉が没した。次期政権をめぐって、徳川家康を中心とする東軍と石田三成を中心とした西軍に分かれ決戦の動きが活発化していた。
 慶長4年(1599)1月如水と息子長政は朝鮮より引き上げたあと、京都伏見にいた。その後、如水は長政と別れて豊前中津城に戻った。長政は、6月上杉討伐の家康軍に参加した。
 
※黒田官兵衛は、朝鮮の出兵での二度の無断帰国を秀吉に叱責され、剃髪して「如水円清」と号した。よって、九州での動きは黒田官兵衛孝高の表記を如水に統一します。
 


如水の九州制圧の戦い
 
 中津城のにいた如水に、兵乱勃発の一報が入った。天下が乱れることを早くから予測していた如水はかねてよりの作戦を実行した。それは九州のほとんどの諸大名が西軍につくなか、その主力のいない留守城を一掃することだった。

 慶長5年(1,600)9月9日如水はにわかに備蓄の米と銭を放出して浪人などの多くの兵を集め軍備を整えると、豊前を南下し豊後の西軍の諸城を次々と攻略していった。
 



▲黒田軍(先発隊と主力部隊)の経路と石垣原(いしがきばる)
 

 
中津城からの黒田軍の行軍ルート
 
 高森城 東軍  城主黒田利高は如水の弟。兄より1万石分与され城主となった。

 豊後高田城 西軍から東軍へ 城主竹中重利は竹中半兵衛重治とは従兄弟。家臣を西軍に派遣していたが、如水に説得され東軍についた。

 富来(とみく)城 西軍 元は大友氏家臣富来氏の城であったが、大友氏の没落で垣見氏の居城となる。垣見家純の家臣垣見理右衛門がよく守ったが、説得により開城した。

 安岐(あき)城 西軍 元は大友氏の一族田原氏の居城であった。熊谷直盛(石田三成の妹婿)は朝鮮出兵で失敗し一旦所領を失っていたが関ヶ原の戦いの時、旧領安岐に復帰し、叔父の熊谷外記を城代として守らせた。10日間籠城するも、開城した。

 木付城(杵築城) 東軍 元は木付氏の居城。島津氏の大軍による攻撃も耐えた。大友氏の失態で自刃。そのあと2代城主がかわり、慶長4年(1599年)家康の推挙により丹後宮津城主細川忠興の所領(飛地)となり、重臣の松井康之・有吉立行を城代として置く。木付(きつき)の地名は江戸中期に杵築と改称された。
 
     
 
大友義統(よしむね)の軍と激突
 
 黒田軍の行く手に立ちはだかったのが、大友義統だった。義統は名門大友宗麟の息子で朝鮮の出兵の失敗(敵前逃亡)で秀吉に豊後6万石を改易され、流浪の身であったが、秀吉の死後毛利の後押しもあり西軍につき、旧臣を集めて豊後に侵攻したのだ。そして細川氏の家老松井、有吉が守る木付(杵築)城を攻めたて追い詰めたが、如水軍が応援に駆けつけたため、引き上げて別府湾近くの立石村に本陣を張った。
 
 
石垣原の戦い  豊後国速見 郡石垣原(大分県別府市) 

九州の関ヶ原 ~黒田・細川連合軍と大友軍が対峙~
 

別府の開発前の石垣原一帯
▲昭和14年(1939)の航空写真(国土交通省)

上部の丸い黒い部分が実相寺山、中央に横断する白い線が境川。その実相寺山と境川の間で戦闘があった。※右下の楕円形は競馬場(現在総合運動場)
 




▲合戦図部分 元禄7年(1694年) 国立国会図書館蔵
 ※東(右)は別府湾
 


 かくして慶長5年(1,600)9月13日如水軍と細川軍の連合軍は実相寺山と角殿山(かくどのやま)に布陣した。別府湾を望む石垣原(別名鶴見原)の南に大友軍、北に黒田・細川連合軍が本陣を置き両者相対峙した。あたりは湯煙の立ち込める広い荒地であった。この場所で九州の関ヶ原ともいわれる一大決戦が白昼から始まった。
 
 はじめ黒田軍は久野次左衛門・曾我部五右衛門の武将が討たれ劣勢であったが、黒田軍の井上之房と野村右衛門が吉弘統幸(よしひろむねゆき)と宗像鎮続(むなかたしげつぐ)を討ち大勢を決した。大友義統は両翼の要の大将を失ったため、黒田軍に投降した。義統は中津城を経て江戸に送られ、家康により出羽秋田に幽閉された。
 
  如水は石垣原の戦いで勝利を収めるや、再び国東半島の安岐城、富来城を攻撃、毛利高政の居城玖珠(くす)郡角牟礼(つのむれ)城、日田郡隈(くま)城と次々と攻略し、さらに筑後の久留米城をも開城させた、
  東軍の熊本城主加藤清正は、小西行長の宇土城を開城させたあと、如水軍とともに立花宗茂の柳川城を取り巻き攻略。これでいよいよ九州の最後の敵が薩摩の島津氏のみとなった。
 
 慶長5年11月12日島津攻めを開始しようとしたやさきに、家康より停止命令が届き、それぞれ本国に引き上げ、東軍の九州の戦は終わった。関ヶ原の戦いから既に2ヶ月を経ていた。
 
 
        
   ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 
 

如水の挙兵に思う
 

 そもそも如水はなぜ挙兵という独自の行動を起こしたのか。
豊後への怒涛の動きは、関ヶ原の動きと呼応したものだったが、大友氏の旧領回復の動きと時を同じくし、石垣原の戦いで大友氏を倒したあとは、肥後の加藤清正と連合して、島津氏を討ち取れば九州全土が手中にできるあと一歩に迫っていた。
 その如水の九州西軍掃滅の行動は家康にどう評価されたのだろう。

 
如水の行動は評価されなかった!?
 
 関ヶ原の戦いがあまりにも早く決着したために、如水の計画が狂った。先見性に長けた如水も天下分け目の関ヶ原の戦いが東軍家康の圧勝となることは予測していなかった。皮肉にも息子長政が関ヶ原の勝利に大きく貢献したことも、如水のスケジュールに狂いを与えたといえなくはない。しかし息子長政は戦後の論考行賞で高く評価され52万3千石(12万石から40万石加増)の所領を与えられた。

 同じ九州で東軍につき如水と連携をとった熊本城主加藤清正は、周辺の西軍の城を押さえ、関ヶ原の恩賞で肥後52万石(25万石から27万石加増)を得た。清正が関ヶ原の戦いに参加しなかったのは、家康の指示で、肥後と筑前は切り取り次第の約束があった。しかし如水の行動は家康に許されてはいたものの九州豊後・筑前等の制圧の功績は評価外となったと考えられる。
 

九州で有終の美を飾ろうとした!?
 
 関ヶ原の戦いの2年前の慶長3年(1598)9月中津の如水へ懇意にしていた毛利輝元の家老※吉川広家から秀吉逝去の知らせがあった。その返書に「上様に対する悪い評判があり、このようなときには戦が起きるでしょう。すぐにではないとしても、その時にそなえ覚悟をめされてください」とさらに慶長5年10月広家に宛てた手紙※に「関ヶ原の戦いがもう1か月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで、華々しい戦いをするつもりであったが、家康勝利が早々と確定したため何もできなかった。」とある。もうひとつ如水が関ヶ原の戦いの結果を知らない9月16日(関ヶ原合戦は9月15日)に家康の側近藤堂高虎に書状を送り如水と加藤清正が自力で切り取った西軍領を拝領できるよう家康に取り成しを依頼している。 

 以上のことからしても、九州制圧、さらに中国制圧への思いは、家康からの最大の評価を得るためともいえるが、その前に戦国武将としての人生最後の華々しい一戦で有終の美を飾ろうとしたと言えないだろうか。
 

戦いに明け暮れた人生に幕
 
 関ヶ原の戦いの4年後の慶長9年(1604)3月戦いに明け暮れた如水は京都伏見で静かに人生の幕を降ろした。享年59歳。自らの死期も予言したとおりとなったという。
 



 ▲関ヶ原の戦いの前の勢力図と関係諸城


 
参考 「日本城郭大系」「県史 大分県の歴史」「新説九州の関ヶ原」「角川日本地名辞典」他
 
 
 
追記 2014.11.8
 

 如水円清自筆書状から見えてきたもの
 

 黒田如水円清が慶長5年(1600)10月4日吉川広家に出した書状(返書)がある。
この個条書きした五つめに「関ヶ原の戦いがもう1か月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで、華々しい戦いをするつもりであった」とあり、この一文が、官兵衛が内心天下取りの野望を抱いていたという俗説の根拠になったようだ。注目すべきは、その次六つめには、九州の諸城を落としていったことは逐次家康に報告し、支持を受けていたことを表していることがわかった。

 つまり如水の九州の挙動は単独の行動、事後承諾ではなかったといいえる。関ヶ原の恩賞に対して家康の判断基準は黒田家に対するものとすれば、如水に対する評価がなかったとはいえないのではとの思いに到った。如水の九州の行動特に毛利の後押しによる大友義統を撃退したのはむしろ、総合判断にプラスになったのかも知れない。
 


 
▲ 如水円清自筆書状 山口・吉川資料館蔵



【関連】
周防 岩国城をゆく

➡関ケ原前夜 黒田官兵衛と長政の動き①

城郭一覧アドレ

但馬 宮本高城跡

2020-05-09 10:36:21 | 城跡巡り
【閲覧数】1,321(2016.6.30~2019.10.31)


                                   
 
宮本城砦群の中心的役割のあったと考えられる宮本高城跡を紹介します。
 



▲大屋町南部の俯瞰    by Google Earth


 

▲宮本城砦群図 上部が宮本高城

 


宮本高城跡  養父市大屋町宮本字高取・ヨットチ
 
 宮本集落北部、宮本川の右岸の丘陵尾根及び頂部に位置する。標高310m、比高190m地点に主郭(約9m×25m)があり、背後に二重の堀切・竪堀を有する。さらに主郭から300m程上部の山頂部に自然地形に近い削平地があり、南側の尾根筋に2筋の大規模な竪堀(約5m×34~37m)が築かれている。

 城主は不明である。この宮本高城跡の南部には尾根筋が3つに分かれ各々の先端部に城跡が残されている。西から東にかけて高取城、城ケ腰城と御井神社がある。御井神社の本殿の上部には横堀(幅3.5m、深さ0.5m)を有した直径約30mの円形の遺構が残されている。御井神社は天文15年(1546)4月8日、北東2kmの御祓山(773.1m)の中腹から現在地へ遷されたとある(伝承では、天文以前より移転されていたとも)。いずれにしても神社一帯が城域であった可能性が高い。

 大屋庄の南部、播磨(一宮町)と但馬の国境に通じる明延方面の街道と宮本川上流で養父の建屋方面の街道を押さえていたと考えられる。   ※参考:「大屋町史」
  


大屋の城攻め ~安積盛兼軍忠状から~
 
 播磨守護赤松則祐(赤松円心三男、赤松惣領家2代)の配下であった安積盛兼が大屋に攻め入り主君赤松則祐より軍忠状を受けた記録がある。
 これによると南北朝時代の文和3年(1354)に宍粟郡一宮町を地盤とする安積盛兼が、赤松南朝方の石堂頼房方の湯浅等と戦い大屋庄の城を攻め、在家を焼き払ったとある。

 この大屋の城が宮本地区にある城砦群ではないかと考えられている。その理由はこの城が最も国境に近く、大屋庄の南玄関口を守る攻守に富んだ城郭群であるからである。
 

 
▲安積盛兼軍忠案  「兵庫県史 資料編第三巻」
 
 

 

アクセス
 
 宮本高城跡は宮本城砦群中の最も高い位置にあります。これまでに高取城、城ケ腰城そして、今回の宮本高城と紹介してきましたが、実はこの順番で登城はしていません。

 宮本の御井(みい)神社に立ち寄った時に神社の上の曲輪跡を探って、城砦の位置関係を知ったのが最初で、日を改めて残りの城ケ腰城、宮本高城、高取城の三城を一度に探索しました。

 宮本高城へは御井神社のすぐ上にある曲輪跡からも行けるのですが、同じ場所を避けて城ケ腰城の背後から登城しました。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 

 
城ケ腰跡の背後の尾根筋を登っていくと上部に二段の曲輪跡が見え始める。
 



 
▲城ケ腰城跡の背後の尾根
  
 

 
▲最初の曲輪跡                            



▲堀切
 
 

最初の曲輪の先にはもう一つの堀切がある。その上が主郭である。
 
 


▲主郭の手前                      



▲主郭       
 
 

主郭の背後の堀切につづく尾根筋を登ること約20分。途中にかなりの傾斜地に大規模な二筋の竪堀を見つける
  
 

 
▲主郭後方の堀切                      




▲大きな二筋の竪堀
 
 

 さらに登っていくと平たん地が現れる。その上が丘陵山頂の曲輪跡だ。自然地形に近い楕円形の曲輪跡だ。展望は聞かないが、東につづく尾根から南の山並みが見える。
 

 
▲最初の曲輪跡                              ▲自然地形に近い曲輪跡
 


 
▲山頂から東にのびる尾根                         ▲その尾根から南を望む
 
 
 
御井神社と曲輪跡
 




▲中央山頂に曲輪跡がある
 
 

 
▲参道入り口の鳥居                                   ▲本殿
  


▲本殿前の境内の右から登る                             ▲円形状の曲輪に帯曲輪跡がある
  

  
▲上部には石が並んでいる(祭壇の跡か)                        ▲尾根上部の堀切        
 
 
 

 
雑 感
 
 宮本城砦群を全体を観ると、宮本高城が3城の背後の指令塔であって山麓の二つの主要街道を押さえていたように思う。

 ただ、一つ気になることがある。それは宮本高城の100m上方の二筋の大規模な竪堀である。ふつう竪堀は横の移動を阻止するためだが、北西方向はその必要がなさそうな勾配があるにもかかわらずである。これは北西上部からの侵入を警戒したことによるのだろう。
 
 今回の収穫は、南北朝期に播磨宍粟一宮の安積氏が但馬大屋へ攻め入った史料が残されていることがわかったこと。また、大屋庄・三方庄内に数多くの城跡が残されたのは、但馬内部でも南朝方、北朝方に分かれ敵味方と争ったことによるものと考えられるのである。




城郭一覧アドレス