『露草協会』(一緒に晴らしませんか高瀬露の濡れ衣)

宮澤賢治がとても世話になった高瀬露。ところが現実は、露は〈悪女〉にされている。その濡れ衣を晴らさんとするブログである。

伊藤ちゑから見た賢治(相容れない人に変節?)

2019-01-08 08:00:00 | 高瀬露関連論考等
《節分草》(平成31年1月1日))

 (佐藤竜一氏も主張するように、昭和3年6月の賢治の上京は「逃避行」であったと見ることができるから、そう捉えるとあくまでも理屈の上での話ではあるが、前述した事柄に対する次のような解釈がそれぞれ可能となる。←再掲
 例えば、そのような心身の状態にあった賢治と大島で再会したちゑは賢治の「今」を見抜いてしまい<*1>、自分の価値観とは相容れない人であると受け止めたと。ちなみに、そのようなちゑの認識の一つの現れが、先に述べたきつい一言、『私ヘ××コ詩人と見合いしたのよ』であったと考えられる。
 またそれゆえに、森宛書簡<*2>に、「あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました」とちゑは書き記したと解釈できるし、その後、いくら森が賢治とちゑを結びつけようとしても頑なにそれを拒絶したのはちゑの矜恃だったのだ、ということもまたである。
 言い換えれば、佐藤勝治が「憤怒」という言葉を用いて形容している〔聖女のさまして近づけるもの〕は、そのようなちゑに対する賢治の当て擦りであったと考えれば、すんなりと理解できる。つまり、この詩のモデルは露ではなく、限りなく伊藤ちゑであることが論理的には導かれるのである。

 そしてもちろん、もしこのような解釈の仕方が実はその真相であったと仮にしても、それは《創られた賢治から愛すべき真実の賢治》により近づくことであり、何ら悲しむべきことではないと私は思う。

<*1:註> このことに関しては、例えば〝賢治と結びつけられることを拒絶するちゑ〟をご覧いただきたい。
 森荘已池の証言等から、昭和6年7月頃の賢治はちゑとならば結婚してもよいと決意していたということ、一方で賢治は以前と違ってしまってかなり変節していたこと、春本を持ち歩いていて、「草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい」と言ったりしていたということなどの蓋然性がかなり高いことがわかる。のみならず、一方のちゑは賢治との結婚を拒絶したということの蓋然性が高いこともわかる。
<*2:註> 伊藤ちゑが森に宛てた昭和16年1月29日付書簡の中の次のような記述があるという。
 皆樣が人間の最高峰として仰ぎ敬愛して居られますあの御方に、御逝去後八年も過ぎた今頃になつて、何の爲に、私如き卑しい者の関りが必要で御座居ませうか。あなた樣のお叱りは良く判りますけれど、どうしてもあの方にふさわしくない罪深い者は、やはりそつと遠くの方から、皆樣の陰にかくれて靜かに仰いで居り度う御座居ます。あんまり火焙りの刑は苦しいから今こそ申し上げますが、この決心はすでに大島でお別れ申し上げた時、あの方のお帰りになる後姿に向つて、一人ひそかにお誓ひ申し上げた事(あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました)約丸一日大島の兄の家で御一緒いたしましたが、到底私如き凡人が御生涯を御相手するにはあんまりあの人は巨き過ぎ、立派でゐらつしやいました。
             <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)157p>

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