《節分草》(平成31年1月1日))
ところで、昭和3年6月の大島訪問以前に花巻で賢治とちゑの「見合い」があった<*1>わけだが、実はこのことについて後にちゑは、『私ヘ××コ詩人と見合いしたのよ』<*2>というような直截な表現を用いて深沢紅子に話していたという。このちゑのきつい一言をたまたま知ることができた私は当初、ちゑは「新しい女」だったと仄聞していただけに流石大胆な女性だなと面喰らったものだが、それは前述したような当時のちゑのストイックで献身的な生き方をそれまでの私が少しも知らなかったことによる誤解だった。
そして、このような『二葉保育園』でスラム街の子女のためのセツルメント活動に我が身をなげうち、あるいはまた何の繋がりもない憐れな老婆に薄給から毎月送金していたという心優しい〈聖女〉の如きちゑからは、当時の賢治がどのように見えたかということを推考してみれば、その一つの可能性が浮かび上がってくる。この当時のちゑと賢治との間にはあまりにも大きな差が横たわっていたと言わざるを得ないからである。
しかも、佐藤竜一氏も主張するように、昭和3年6月の賢治の上京は「逃避行」であったと見ることができるから、あくまでも理屈の上での話ではあるが、前述した事柄に対する次のような解釈がそれぞれ可能となる。
<*1:註>
最近、伊藤七雄・ちゑ兄妹が花巻を訪れた時期は「昭和3年の春」という説が独り歩きし始めているがそれはほぼ間違いで、正しくは昭和2年の秋10月であることが、ある著名な賢治研究家が直接訊いた清六の証言及び藤原嘉藤治宛ちゑ書簡から判断できる。奇しくもそれは、ちょうど露が「下根子桜」訪問を遠慮し出したという昭和2年夏の直後のことになる。
〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)149p〉<*2:註>
現時点ではこの発言を活字にする事は憚られるので一部伏せ字にした。
なおこの『私ヘ××コ詩人と見合いしたのよ』については、私は二人の人から違うルートで聞いている(そのうちの一人は佐藤紅歌の血縁者で平成26年1月3日に、もう一人は関東の宮澤賢治研究家である(ただしその時期はそれ以前なのだがそれが何時だったかは失念した))。
〈同165p〉なおこの『私ヘ××コ詩人と見合いしたのよ』については、私は二人の人から違うルートで聞いている(そのうちの一人は佐藤紅歌の血縁者で平成26年1月3日に、もう一人は関東の宮澤賢治研究家である(ただしその時期はそれ以前なのだがそれが何時だったかは失念した))。
しかも、上掲の賢治研究家はこのことを深沢紅子から直接聞いたのだそうだ。
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