『露草協会』(一緒に晴らしませんか高瀬露の濡れ衣)

宮澤賢治がとても世話になった高瀬露。ところが現実は、露は〈悪女〉にされている。その濡れ衣を晴らさんとするブログである。

伊藤ちゑから見た賢治(聖女の如きちゑ)

2019-01-06 08:00:00 | 高瀬露関連論考等
《節分草》(平成31年1月1日))

 当時、四谷鮫河橋<*1>には野口幽香と森島美根が設立した『二葉保育園』が、新宿旭町には徳永恕が活躍した『同分園』がそれぞれあり、同園は寄附金を募ったりしながらそれらを基にしてスラム街の貧しい子女のために慈善の保育活動、セツルメントをしていた。ところが大正12年、あの関東大震災によって旭町の『分園』は焼失、鮫河橋の『本園』は火災を免れたものの大破損の被害を蒙ったという。
 そのような大変な状況下にあった再建未だしの『二葉保育園』に、大正13年9月から勤務し始めた一人の岩手出身の女性がいた。他ならぬ伊藤ちゑその人である。ちなみに『同園八十五年史』によれば、ちゑは少なくとも大正13年9月~大正15年及び昭和3年~4年の間勤めていたことが判る。おそらく、この在職期間の空白は兄七雄の看病の為に伊豆大島に行っていた期間と考えられる。
 一方、萩原昌好氏の『宮沢賢治「修羅」への旅』(萩原昌好著、朝文社)の288pによれば、同島の新聞『島之新聞』の昭和5年9月26日付記事の中には、
 あはれな老人へ毎月五円づつ恵む若き女性――伊藤千枝子
という見出しの記事があり、兄の看病のために同島に滞在していたちゑは、隣家の気の毒な老婆に何くれと世話を焼き、後に東京に戻って『二葉保育園』に復職してからもその老婆に毎月5円もの仕送りをし続けていたという内容の報道があるという。

 そして、同保育園の設立者は野口幽香と森島美根の二人であるが、共に敬虔なクリスチャンだったという。それから、同保育園をさらに発展させた徳永恕(クリスチャンらしくない)クリスチャンだったいわれている。もちろん今でも同園は、
 キリストの愛の精神に基づいて、健康な心とからだ、そしてゆたかな人間性を培って、一人ひとりがしっかりとした社会に自立していけることを目標としています。<『二葉保育園 リーフレット』より>
と謳っている。
 なお、数年前に同保育園に直接お訪ねしたところ、その責任者の方が、
 基本的には当時の同園の保姆はクリスチャンでしたから、伊藤ちゑもそうだったと思います。
と仰有っていた。

 したがって伊藤ちゑは、まさに聖女の如き、尊崇すべき人物である。よって、賢治の周辺には高瀬露のみならず、伊藤ちゑというクリスチャンがいたとほぼ言えるし、賢治から見て「聖女」のような二人の女性が身近にいた、と少なくとも言えるのである。

<*1:註> 当時の鮫河橋辺りは三大貧民窟の一つであった。

           〈『光りほのかなれど―二葉保育園と徳永恕』(上笙一郎・山崎朋子著、教養文庫)143p〉

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