何でも知ってるタカハシ君のうんちく日本史XYZ

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頼朝の東国掌握への奇跡の2ヵ月

2004年12月05日 | 歴史
源平の戦いの当初は、源氏の総領、武家の棟梁の地位を確保しようとした、源頼朝と源(木曽)義仲の争いがあった。木曽義仲は、信濃に自前の軍勢を揃えていたが、流罪人の源頼朝はゼロから出発しなくてはならなかった。これが二人の政策を大きく分けたんだ。義仲は武力で朝廷を押さえようとしたけれど、頼朝は関東の武士たちを集め、これまでの日本になかった新政府の構想を打ち出し、賛同を得るしかなかったんだな。その新政府は、1180年の源頼朝の挙兵から鎌倉に入るまでの2ヵ月間の奇跡によって形成された。じゃ、今回はヴィヴィッドな日めくり式で、頼朝が自立に向けて過ごした波乱の日々を見ていこう。

8月11日、頼朝は兵を挙げ、平家の伊豆の目代(もくだい=京都にいる国司の代理人)、山木判官(やまきのはんがん)の館を攻めて、判官を討ち取った。この情報はたちまち関東に知れわたり、頼朝捕縛の命令が出された。このとき、頼朝に付き従ったのは伊豆の各地の志願兵わずか300人にすぎなかったんだ。

8月23日、頼朝勢は石橋山に陣を張る。三浦半島の豪族、三浦氏が頼朝の救援に向かうが、夜に豪雨となり、三浦勢は伊豆の境の酒匂川(さかにがわ)を渡れなかった。後方から伊東祐親(すけちか)の追っ手が迫り、前方に大庭景親(おおばかげちか)の軍勢が待ち受けた。景親は三浦勢が参戦しては面倒と攻撃を仕掛け、明け方、頼朝軍は総くずれとなり、ちりぢりに逃走。これが石橋山の合戦だ。敗走する頼朝に従ったのはわずか6人。箱根に落ち延びる途中、大庭軍の梶原景時(かじわらかげとき)が洞窟に隠れた頼朝を助けたんだ。

8月24日、頼朝は箱根権現に保護された。それにしても、なぜ平家側に頼朝を助ける武士がいたり、箱根権現が頼朝を保護したんだろうか? 国司や目代は開拓領主の武士の領地を奪い、勝手な税金をかけたんだ。ことに山木判官は平家の権勢を笠に着て悪事が多く、山木館の襲撃は頼朝の政治表明でもあったんだ。そして箱根権現のような神社も、法皇の荘園整理などの政策に反対していたから、頼朝に期待して保護したんだな。

8月26日、武蔵の有力武士団である畠山・河越・江戸氏が、頼朝に味方する三浦氏を攻撃。当主の三浦義明は戦死してしまった。船で逃れた三浦一族は、海上で安房(千葉県)に向かう北条時政の軍船に出会って合流したんだな。

8月28日、箱根を出た頼朝一行は船で相模湾を横切り、翌日、安房に着き、北条時政や三浦一族と落ち合った。

9月1日、この日から、頼朝は関東の豪族に加勢するよう手紙を書きつづけた。大豪族、上総介広常(かずさのすけひろつね)、千葉介常胤(ちばのすけつねたね)には和田義盛(よしもり)らには使者を派遣し、兵を率いて参加するよう説得。この和田義盛は外交・軍事に通じ、鎌倉幕府の骨格をつくっていくことになる。

9月13日、頼朝は安房を出て、上総(かずさ=千葉県北部)に向かう。千葉介常胤が上総の目代を討ち取って頼朝軍に加わりたいと伝えてきた。頼朝は許可を与え、常胤勢は目代の館を襲ってその首をとった。これは源氏の棟梁の命令で敵を倒したら、その土地や財産を恩賞とすることを実践によって示したんだ。そこで、頼朝軍が東京湾沿いに北上するうちに、つぎつぎに武士団が忠誠を誓って結集してきたんだな。

9月17日、下総(しもふさ、千葉県)の国府を制圧。千葉常胤は、このまま軍勢を増やしつづけ、源氏代々の所領、鎌倉に入るのがよいと進言する。これが新政府の首都を鎌倉とするきっかけとなったんだ。

9月19日、上総介広常が約2万の兵をひきいて国府の頼朝のもとにきた。上総介が頼朝の配下となると、頼朝軍に加わる将兵はますます増え、4万人をこえる大軍となったんだ。

9月20日、北条時政が甲斐におもむき、新羅三郎源義光の子孫の武田信義(のぶよし)に同盟をもちかけていたが、この日、頼朝が関東を制圧したことを伝える使者が到着。甲斐の源氏と頼朝軍の同盟が成立した。

9月28日、敵方の江戸氏に使者を出し、「以仁王の令旨」を守って頼朝軍に参加するよう伝える。これは三浦氏への攻撃を許し、頼朝が武蔵に入るに当たって、その妨害を除くためでもあった。

10月2日、千葉介常胤、上総介広常とともに、隅田川を渡り武蔵に入る。武蔵の武士団は、みな頼朝に従った。

10月6日、頼朝は5万人もの軍勢を従えて源氏の本拠地、鎌倉に入る。もちろん、こんな大軍を収容する建物はなかったから、全員が野営したんだ。集まった武士たちの合意によって、源頼朝を棟梁と仰ぎ、鎌倉を武家の国の首都と決定した。政府の機関として、「侍所」(さむらいどころ)が設置された。ここに関東の新政府が発足したわけだ。これは、頼朝のもとに駆けつけた武士を御家人として登録する業務から生まれたんだな。

「侍所」では、武家の棟梁と御家人の主従関係を明らかにし、実行する戦闘や行事などの部署が割り当てられ、恩賞が約束される。そのトップは別当、次席は所司で、初代別当に和田義盛、初代所司に梶原景時が就任した。職務は、御家人としての任務の判定、罪があれば処罰を決定すること、および鎌倉の治安を守り、有事のときには前線の指揮官「軍奉行」として、全軍を掌握することだった。これらの職務が独立した部署となり、鎌倉幕府の組織ができていったんだな。

と、この激変激動の2ヵ月の出来事は、日本を大転換させたんだ。関東武者たちは、それぞれが武家の棟梁の源頼朝と主従関係を結び、その御家人(ごけにん)となることで、新政府を支える「公衆」、英語で言えば「パブリック」となった。これは、公衆のすべてがいつでも自主的に武具や軍費を負担し、郎党を引き連れて、政府の軍隊を構成する軍事政権だったわけだ。初めての強力な組織である軍事政権の軍隊には、木曽義仲も平氏もとうてい太刀打ちできなかった、というわけなんだな。

2001 コメント

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Unknown (ガンちゃん)
2004-12-28 11:31:18


頼朝が挙兵したのは1880年ではなく1180年では?
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お礼 (takahashikun)
2004-12-28 15:04:34
書き間違えました。ご指摘ありがとうございます。早速修正しました。
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Unknown (Unknown)
2004-12-30 15:07:45
殺してやる。
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戦国 時代 武将 (戦国 時代 武将)
2009-04-21 15:23:53
日本史はすこぶる好きなのですが、
こちらのサイト様の情報には
とうてい適いませんね。


千年前の経過を日にち単位で
表すとは!もっと勉強します。

http://nidaime.seesaa.net/
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Unknown (kazu)
2009-05-22 20:38:26
歴史ものはいいですね。
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京都のお茶・宇治茶・抹茶スイーツ通販 (京都のお茶・宇治茶・抹茶スイーツ通販)
2009-11-02 21:36:55
京都のお茶・宇治茶・抹茶スイーツ通販
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Unknown (うどんのひと)
2010-03-01 08:34:43
>酒匂川
×さかにがわ
○さかわがわ
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doc@yahoo.com (drug)
2010-05-03 20:33:05
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御礼です。 (miki)
2010-08-11 17:43:35
しっかり読みました。ありがとうございました。
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Unknown (はるか)
2010-08-14 09:28:37
どうも。
興味深く見てしまいました。
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