何でも知ってるタカハシ君のうんちく日本史XYZ

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土地からうまれた武士たち

2004年10月26日 | 歴史
平安時代も半ばを過ぎ、いよいよ武士という新しい力が登場した。じゃあ、いったいどのように武士は登場して、朝廷に反抗するまでになったんだろうか? それは日本の軍事体制の方法や荘園の変質という事態が重なったことが原因なんだ。今日は、その事情を探ってみよう。

武士は武者とか兵(つわもの)とかいろんな呼び方があるけれど、「もののふ」という言い方もあるのは知ってるかな。「もの」は物質であり霊魂でもあるって、以前、セイゴオ先生が話をしてくれたね。古代には、さまざまなモノの現象に対応したり、船や馬を操って、朝廷の命令で外敵を打ち負かす戦力のある人物、集団のことが「もののふ」と呼ばれていた。つまり、天皇家の軍隊を担っていた物部氏や大伴氏などの貴族も「もののふ」だった。

「もののふ」は奈良時代の律令によって、武官として整備されていったんだ。平安時代の初め、桓武天皇の命令で、東北地方を制圧するために派遣された征夷大将軍・坂上田村麻呂の軍隊は、まさしく「もののふ」だった。けれども、このような朝廷の武官は、摂関政治がはじまると、藤原一門を中心とする貴族の護衛や平安京の治安にあたる役職になっていったんだ。

平安時代に律令国家体制が弱まるにつれて、すべての土地を国有とした前提が崩れ、荘園が広がり、また、土地の開墾を民間に任せるようになった。その土地の開発を担った地方の土豪が、中央の武官との交わることで、武士となっていくんだね。セイゴオ先生にあった将門の乱を起こした平将門の父、平良将(たいらのよしまさ)は中央政府の武官だったけれど、東北地方を鎮圧するために鎮守府将軍として派遣され、関東に下ったんだ。

関東には貴族の荘園は少なく、新たに土豪が開拓し、政府から経営をまかされた農園が多かった。それらの農園は、それぞれの境界線などをめぐって争いがたえず、武力衝突もおこっていた。その戦いに命をかける連中も出現して、「つわもの」(強者)と呼ばれていた。その争いには県庁にあたる国衙(こくが)さえ口を出せずにいたほどだ。関東の「つわもの」は騎馬軍団であり、武力衝突も強烈だったからね。

ちなみに、このころの東北を抑える鎮守府将軍は、平安京から軍勢を率いて東北地方に向かったわけではなかったんだ。国の令条(命令の文書)を持って国衙に行き、現地の土豪から兵隊、食糧などを調達したんだね。これが日本の軍事体制だった。そこで土豪出身の「強者」(つわもの)が、政府の軍隊、「兵」(つわもの)になる。このように、政府から許可された軍人が「武士」なんだな。

こうなると、土豪にしてみれば、武士となった方が有利なんだ。そうしなければ将軍の権限で討伐の対象とされるからね。そこで関東の土豪は一斉に平良将のもとに結集し、一大軍団になったわけだ。もちろん、平良将が桓武天皇の孫の高望王(たかもちおう)の子孫で、かつて高望王が関東を治めたということも、大きなステータスではあった。平将門はこの平氏一門の威光を背負い、東国の武士を統括して新たな国家をつくろうとしたんだな。

一方、西海でも「つわもの」が出現した。漁業や海運という海を使った生活をしている海民(かいみん)がその母体だね。彼らは敵対する者が現れると海賊となり、武装して立ち上がった。10世紀に入ると、瀬戸内海では海賊の横行が激しくなり、大宰府から平安京に向かう朝廷の船を襲撃して、財貨を奪う事件が続発した。それらの船は中国から輸入された物産を山のように積んだ、文字通り宝の船だったからだ。

もちろん、朝廷も襲撃されて黙ってはいない。海賊を捕らえる活動を始めたが、その役についたのが、藤原純友だった。セイゴオ先生にあったように、純友は実は海賊の首領になっていた。いったいそれはなぜだったのだろうか?

純友の家系は、藤原良房の養子となった藤原基経(もとつね)の兄の子孫なんだ。摂関家は基経の子孫が継ぎ、純友の家系は没落して、都を離れていた。純友の父は大宰府の官吏で、海民との交渉にあたっていたんだ。純友自身も海民のネットワークと親しかったんだな。

西海では、古来の地域に根ざした首長が土豪となる場合が多いんだね。そこで政府は国家の公田を土豪に与え、中央から派遣された受領(ずりょう)が土豪から徴税するシステムをとった。ところが、受領の横暴が増え、土豪たちの反発が強くなってきた。そこで純友は九州、四国、中国の海賊をあやつりながら、土豪たちをまとめ、それを背景に高い官位を得て、西海に君臨しようとしたのかもしれない。

しかし、乱が始まると純友の郎党となった土豪たちはそれぞれの思惑で勝手に戦い、朝廷の警察官である追捕吏(ついぶし)の小野好古(おののよしふる)によって戦線は分断されてしまう。豊後水道の孤島、日振島(ひぶりじま)から出撃した純友の水軍は、大宰府を襲撃して焼き払ったが、戦いはこれまでだった。純友とともに戦ってきた西海の「つわもの」は、一斉に小野好古のもとにしたがっていったんだ。好古のもとで戦えば、政府公認の戦士、すなわち「武士」と認められたからね。

そのうちの一族で純友討伐に加わった大蔵氏は、対馬の官吏となったあと、大宰府に土着して武士団を形成した。1019年、とつぜん大陸の女真族が高麗から海をわたり、北九州を襲った「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」事件がぼっ発したけれど、そのとき政府軍として勇敢に戦ったのが、この大蔵氏の子孫だったんだ。西海の海の兵達は、その後、室町時代にかけて高度に組織化され、各地の水軍として活躍していくことになるんだな。









1981 コメント

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外来語の歴史 (尾関 冴美)
2004-11-30 09:18:41
色々読んだけど外来語については書いてありません色々知りたいので教えてください
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外来語の歴史 (尾関 冴美)
2004-11-30 09:21:51
色々読んだけど外来語については書いてないようなのでもっと知りたいので教えてください
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外来語の歴史 (矢崎 なつこ)
2004-11-30 09:23:48
色々読んだけど外来語については書いてないようなのでもっと知りたいので教えてください
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Unknown ()
2004-12-20 11:47:21
外来語の歴史
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Unknown (Unknown)
2005-03-06 23:07:03
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Unknown (Unknown)
2007-08-13 18:25:03
いろいろわかった!!

ただ・・・・詰めすぎて少し読みにくいところが、残念。
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教えてよぉぉぉぉ (五味 貞子)
2008-06-10 15:19:48
いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい
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わかんねぇぇぇぇぇぇ (けむっそ)
2008-06-10 15:25:43
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しんねぇぇぇ (ざしきわらし)
2008-06-10 15:27:57
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・・・・・・・・・。 (鬼太郎)
2008-06-10 15:30:15
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