高木ますおブログ

日々の出来事や感じたことなどを綴っています

ホタル博士大場信義先生の北川講演会の案内

2012-04-25 11:17:37 | Weblog
 ホタル研究の第一人者として知られる大場信義先生が北川やっちみろ会(会長早瀬順一郎)主催のホタル講演会で北川にいらっしゃいます。

 インターネット(タウンニュース 横須賀版)で調べた先生のプロフィールを紹介します。

 大場信義先生は日本を代表するホタル博士だ。 かつて、水辺で舞うホタルの発光パターンには地域差がある ことを発見した。明滅はオスとメスの会話。東日本では4秒に1回ののんびりトーク、西日本では2秒に1回のせっかちトーク。この法則性を「ホタルの方言」と命名、30年に渡る独自の研究でホタルが放つ光の神秘を解き明かした。

 里山に囲まれた逗子の片田舎で生まれ育った。野山を駆け巡り昆虫を採取、図鑑と首っ引きでその生態を調べ上げる、そんな少年時代を過ごした。

 大学を卒業後は企業の研究所勤務などを経て、横須賀市自然・人文博物館の学芸員に就いた。ホタル研究に没頭するきっかけは、同館の創設者で発光生物研究の大家、羽根田弥太博士との出会い。「ホタルはなんで光るのか?」好奇心を刺激するテーマを与えられた。

 以来、ホタルが語りかけるメッセージに耳を傾け続けてきた。   「分かったことの先に、また分からないことを発見する。深遠なホタルの世界は興味が尽きない」

 以上、タウンニュースの記事を引用して紹介しました。


大場信義先生を招いてのホタル講演会(無料)

  日時 平成24年5月20日(日) 19時~20時30分
  場所 北川町熊田 北川公民館(旧北川町中央公民館)
  主催 北川やっちみろ会(会長早瀬順一郎
  後援 延岡市北川町総合支所  0982―46―5010



西南の役延岡隊と延岡市戦没者招魂祭

2012-04-25 06:16:26 | Weblog
 延岡市の西南の役戦没者招魂祭は毎年今山で行われています。

 今年は雨にたたられ、今山八幡宮蓬莱館のホールで、戦没者の御子孫、田口県議会議員、延岡警察署長、延岡西南役会の会員等50余名が出席し開催されました。
 
 明治10年(1877)2月15日に「政府に問うところあり」として兵を率いて鹿児島を出発して始まった「西南の役」では、延岡からも旧藩士や農民など1400人を超す人が薩軍に加わったといわれています。

 延岡西南役会 高浦宗一郎会長のあいさつによると、延岡隊は、明治10年2月23日に130人余が出兵以来、その後も参戦者が増え、各地を転戦し、4月20日、熊本市郊外で官軍と遭遇(竹宮の戦い)、戦役中で最大の戦死者が出ました。延岡隊は、参戦から降伏するまでの間に戦死者80人を出しました。(その名は今山の招魂碑に刻まれています)

 延岡西南役会は、延岡隊が奮戦した4月20日、この日を「延岡市西南の役戦没者招魂の日」と定め、明治11年より毎年開催しており、本年で134回目を数えるとのことです。

 
 高浦会長は、「西南の役は日本最後の内戦であり、以後、日本民族同士で武器を手に争うことはありませんでした」

 「この民族としての結束こそが、後の日清、日露の戦役をはじめ幾多の国難を打破し、近代日本の礎を築く原動力となりました。近年、各地より和田越の決戦場をはじめ、延岡の西南の役関連の地を訪れる方が増えています。このことも、「西南の役が単なる士族の反乱としてではなく、・・・」歴史を今一度見直そうということの現れではないでしょうか。今後も、郷土の歴史、西南戦争を語り継いでいく覚悟を新たにしました」と御あいさつされました。

 最後の正規軍同士(薩軍・政府軍)の戦い となった「和田越えの戦い」は8月15日朝に始まり昼過ぎには政府軍の勝利で決しました。

 その後、薩軍は北川俵野に撤退し、最後の軍議を開き、西郷さんは軍に解散命令を出し、陸軍大臣の軍服を裏庭で焼き捨て、この時点で、事実上、西南の役は終結しました。

 この日本最後の内戦「西南の役」の終結をもって、鳥羽伏見の戦いに始まった「明治維新」は延岡の地で終結しました。

 その後、西郷さんたちは夏真っ盛りの険しい九州山地の道なき道をふるさと鹿児島を目指して落ち延びていくことになります。その道を、私は、「坂本龍馬脱藩ルート」になぞらえて、 「西郷隆盛・鹿児島望郷ルート」と呼んでいます。

 延岡西南役会では、  西南の役戦没者の盆供養を和田越しの戦いがあった、8月15日朝8時より和田越峠の碑の前で行っており、帰省中の方々も三々五々訪れて冥福を祈っています。

「報恩の想い」貫いた松谷希次さん 戦友の待つ靖国へ

2012-04-23 23:10:10 | Weblog
 松谷さんの「報恩の想い」は、2008年10月21日「報恩に生きて」、2009年1月24日「ブーゲンビル島の戦没者の御霊よ安らかなれ」でも話しましたように、松谷さんは南方の激戦地で脚を負傷し歩けない氏を、一人でも大変なジャングルを戦友達が担架で担いで撤退してくれ九死に一生を得て帰還しました。

 復員後、北川の長井郵便局に勤めましたが、定年を待たず退職し、昭和55年より戦友の遺骨収集や残留兵士捜しに第二の人生を捧げてきました現地に26回おもむき、慰霊の為の観音像も建立しました。

 勿論、延岡にも今山大師の立つ敷地の一角に立っています。そして、毎年1月23日11時から松谷家が一族こぞって慰霊の祭りを催しています。

 そして平成24年4月20日、その生涯のほとんどを戦争に翻弄された松谷希次さんは「報恩の想い」を貫き、多くの思い出と受け継ぐべき想いを我々に託し、89歳で戦友の待つ靖国へ旅立たれました。

 来年も再来年も松谷家は、今山平和観音像前で慰霊祭を続ける事でしょう。私もブーゲンビル島で戦死した叔父の為にもと思い毎年参加してきましたが、これからも参加し続けます。ご冥福をお祈りいたします。

大にぎわいだった延岡お大師さん

2012-04-16 11:53:43 | Weblog
 祇園町の山下通り出口から100mくらいの場所、「呑んノン」の反対側あたりに陣取り(別に座って待ったわけではない)、春の強い日差しの中、行列開始を待った。

 先頭は自衛隊の軍楽隊、「いよいよパレードが始まる」。次々と「連」が通ると思いきや、山下通りからなかなか出てこない。
テンポの悪さに前に陣取るご婦人方から辛口のコメントがポンポンと出だす。

「えれー遅せねー。何しよちゃろかい」「段取が悪りわー」「仕切るもんがおらんちゃろかい」

 「ごもっとも」と聞こえないようにあいずちを打つ。それにしてもテンポが悪かった。行列の間隔が開き過ぎ、イライラはげらしい思いを、多くの観客がしたのではないでしょうか。

 縁石に座ったお年寄り、立ってみているお年寄り。背が低くて山下通りの出口が見えないのでなおさらいらだつ。

 「次は来よらんけ」と誰かが聞く。「まだ来てません」と私が割って入る。思わぬ声に「誰だろうか」と首をひねり、上目使いで後ろの私を見上げる。残念、私が誰か分らないふうだ。

「そんにしても間が開き過ぎじゃ」「そうですね。今年は特に開き過ぎですね」とまた割り込む。

 今度は見上げない。分る事のみ解説を交えながら行列を流す。

 「尻が痛くなった。足がパンパンじゃ。帰ろうかな?」「大名行列が来るまで待ちましょうよ」

 国保の「検診が無料」の行列が来る。「お金が要らんなったと?」「そうです。今年から無料になりました。検診してください」

 行列の容姿の品定めをしながら(本人が聞いたら腹かくような事を色々)、結局、最後まで辛抱してくれました。

 大名行列では質問が相次ぐ

「お殿様は誰かい?」「旭化成の松居支社長です」

「あん大きなじょは?」「あれは佐藤市議会議長です」「強いごたるな」「あんげしちょってん、見た目と違ごち優しとですよ」

 サムライが次々と通る。「あの少し背の低いのは宮野北川支所長です」他の市職員もサムライ姿で通り過ぎて行く。

 そこに「ひときわ似合った」、というよりは「なりきった」侍が見えた。分らない。誰だろうとメモリーオーバーの頭を検索する。

 「えっ!」意外な人物をはじき出した。そして、「あれは三星消防長です」とそこいらに聞こえる大きな声で叫んだ。

 「へー消防長かい。えれ似おちょるが」「ホントですね。そんまま水戸校門に出らるるわ」

 いわきの行列が通り去るまでは全員楽しく残って頂きました。

 商工会女性の会の踊りには、「やっぱ祭りんごたるね」「笠をかぶってかっこいいね」「阿波踊りを思い出したわ」と特に好評でした。

 センコーのばんば踊りが通るときには「やっぱ延岡はばんば踊り。踊りてーね」と体を動かす60代のご婦人もいらっしゃいました。

 多くの市民が街に繰り出し、パレードに参加し、テンポのいい行列で、初めて活気のある祭りになる  と思います。

 要望ですが、来年は「連の間隔」をせめて50m~60mにしてもらえないでしょうか。検討してください。

自衛隊よお前もか!ミサイル感知もヘリ墜落も!

2012-04-15 22:36:55 | Weblog
 田中防衛大臣も渡辺防衛副大臣もその、ど素人ぶり、ノータリンぶりは先日お話しいたしましたが、それが自衛隊全体に蔓延したようです。

ミサイル発射が米軍から伝わって後の「自衛隊のドタバタ劇」は、世界が注目していただけに、情けなくて悔しくて涙が出そうです。自衛隊のていたらくは何が原因でしょうか。まさか東日本大震災での高評価に慢心し、気が緩んだわけではないとは思いますが。

 あれだけのテストを繰り返し準備したJアラート、北朝鮮の挑発に乗った振りして南西諸島に展開した自衛隊。

 世界は北朝鮮のミサイルと日本の防衛体制の精度に注目していたのです。結果はご存知の通り、両国ともそのレベルの低さを世界中にさらけ出し、いい笑いもの。

 そして今日、自衛隊の「ていたらく」はここに極まりました。

 海上自衛隊のヘリが、練習艦隊に展示飛行中に、乗船する若い幹部にいいとこ見せようとして接近しすぎ、護衛艦に接触し、海に落ちるという間の抜けた事故を起こしてしまいました。

 自衛隊は、事故調査委員会を設け、原因を調査するといいますが、調査する必要はありません。原因は気の緩みと分っているからです。

 平成22年8月、瀬戸内海で第6管区海上保安本部のヘリコプターが送電線に接触して墜落、5人が死亡した事故がありました。この時も今回と同じく、船に乗船した司法修習生に、海保のヘリがいいカッコしようとしたことが原因です。

 海保は海の警察、自衛隊は国を守る軍隊、この両方が「いいかっこし」で事故を繰り返す。おまけに政治が機能不全、この国は大丈夫なのでしょうか。このままでは手遅れになります。手術が必要です。

「私は選挙で」と思うのですが「選挙するべきでない」とする世論がまだ強い。迎合する政治には賛成できません。

原発再稼動「政治が責任をもつ」チャンチャラおかしい

2012-04-14 11:24:07 | Weblog
民主党政府の失政には枚挙にいとまがない。

 国防・外交・危機管理等、国が責任を持たなければならない部門の能力が特に欠けている。地方行政ならまだしも、国政を預かる政党としては本当に心もとない。

 自民党政権は?と聞かれると、これとて、決してほめられる事ばかりではありませんでした。
 しかし、少なくとも戦後60年、あの焼け野が原から、厳しい国際社会の中で、一人の軍人も血を流すこともなく、社会的にも経済的にも現在の地位を築き得たのは紛れもない事実で、それは評価しなければなりません。

 今の自民党は民主党より「ちったマシだろう」ぐらいの評価でしかなく、「民主党がエラーの連続で塁は溜まるのに、凡打で残塁の山」の現状では観衆の万来の拍手と行かないのは、支持力アップにつながらないのは当然の事でしょう。

 ここでは野党の自民党の再生は自民党にお任せして、国政を預かる民主党、野田内閣に苦言を呈します。

 野田内閣には、能力が伴わない役不足の閣僚が複数いますが、その最たるものは田中防衛大臣ではないでしょうか。適材適所では全くなく、不得意な部署に配置になった、いわば人事の犠牲者で、見てて気の毒にさえ感じます。

 しかし、防衛大臣です。しっかりしてもらいたい。が、支える渡辺周副大臣もこれまた無知のノー天気議員。震災直後のテレビで、 「学校のプールにガソリンを貯蔵できないか検討」と、そのど素人ぶり、ノータリンぶりを天下に発したその人なのです。

 「良い考えだ。こんなこと思いつくなんて天才」などと、ガソリンには保管に厳しい規制がある事を知らない人の評価する書き込みもありました。「ガソリンをプール」に貯蔵したら、3日もせぬうちに何処もかしこも火の海になる事が、お利巧さん育ちの「天才」には分らなかったのでしょうか。

 せめて、 「ガソリンスタンドを真っ先に復旧し、地域に供給できる体制を取ります。地下のタンクは大丈夫でしょうから。その為にもスタンド周辺の片付けを最優先させていただきたい」ぐらいの事は言って欲しかったな。天才君。しかし、田中大臣の横にいると、しっかりしているように見えるのはなぜ?そんな2人が防衛省のトップ。そんなの有り?

 福島原発事故の戦犯の枝野経済産業大臣も、詭弁・詭弁の連続で、世渡り上手でまだしぶとく生き残る。

 「福島原発の事故を超える地震や津波が起きた場合の対応が不十分ではないか」という質問についての答えに「さすが詭弁護士」と呆れ返りました。

 「じゃ、どこまで対応すれば良いのですか。100メートルを超える津波が来れば、日本中の原発が全部水かぶって全電源が止まる。それを全部想定するの?」

 居直りもはなはだしい。これが一国の大臣か?と憤りを越えて寂しささえ感じる。謙虚さが、責任を感じ、真摯に取り組む姿が全く感じられない。「さすが詭弁護士」!

 そんな枝野詭弁護士「再稼動し事故が起きたら政治が責任を持つ」という。

 アホか。そんなことを素人のあなたに。素人の国会議員に言われたくない。原発再稼動の安全宣言は誰が何と言おうと技術者の仕事だ。

民主党政府のボーンヘッド。危機管理、子供以下

2012-04-13 23:00:53 | Weblog
 民主党政府のボーンヘッド。危機管理、子供以下。 こんな見出しを見たら子供達は真っ赤な顔して怒るでしょう。「民主党政府と同じにするな」と。

 それにしても「民主党政府」の危機管理は話にならない。もはや、国を、国民の安全を任せられる状況にはない。

 今回の衛星打ち上げは事前にわかっており、発射に備えて、訓練も兼ねて、イージス艦や迎撃ミサイルを日本海や沖縄に配備し、もし落下物があった場合、迎撃する態勢をとり、発射されたら瞬時に 「Jアラート」 で全国の自治体に衛星を通じて情報を発信する予定で、1週間前から何回もチェックしていたではありませんか。

 そんなに点検をして準備万端、「発射されたら瞬時に全国の防災無線から発表される予定」だった。しかし、そのシステムが政府の誤った情報管制のため機能しなかったのです。こんな実戦の機会はそうありません。

 「Jアラート」をなぜ発信しなかったのだろうか。全く理解できません。100回の訓練よりよっぽど貴重な経験だったのに。 見逃し三振は看過出来ません。

 民主党政府の今回の情報管理の素人的な対応は、福島原発事故の際の「メルトダウン隠し」や、「スピーディーの情報隠し」と全く同じで、無知が権力を持った怖さをまた露呈しました。



覚えていますか? 「メルトダウンの可能性がある」と発表した原子力安全・保安院の中村幸一郎審議官が即日更迭された事を。

覚えていますか? 枝野官房長官の大うそつきの「安全」発言を。

「爆発は原子炉のある格納容器内のものではなく、放射性物質が大量に漏れ出す危険はありません」

「爆発前にくらべ、放射性物質の濃度は上昇致しておりません。現時点で爆発前からの放射能物質の外部への出方に状況は大きな変化はないと認められる物でありますのでぜひ冷静に対応していただきたいと思っています。」と言って国民をだましました。 
 この時点で、既にアメリカは80km圏外に避難指示を出していたのです。

覚えていますか? 政府の「スピーディー情報隠し」を。

「発表すればパニックを起こす」との素人考えで情報を隠し、結果的に住民をホットスポットへ行かせてしまった事を。

 これ以上任せる事に我慢できません。原発事故の戦犯の枝野が大きい顔をしている、ど素人の細野が環境大臣なんていうそういう内閣に。

 選挙をしましょうよ。まだ日本に体力があるうちに。そこで勝った者に日本を委ねましょう。

延岡学園高校の入学式、私も洗われました。「チェンジと一歩前に」に

2012-04-12 08:32:52 | Weblog
 10日、延岡学園高等学校の入学式に行って来ました。

 御存知の通り、延岡学園高校は、昨年度、バスケットボール部が高校三冠を達成し、また、調理科2年の井本優香さんは、「食の甲子園」と言われる「全国シーフード料理コンクール」で、最優秀賞に輝きました。

 そんな延岡学園高校の入学式に、副議長として、議長代理で議会を代表して出席させていただきました。
 式では、生徒達が「国歌」や「校歌」を大きな声で斉唱しました。大きな声で歌うということが、聞く人にとってどれだけ気持ちのいいことか、再確認させられました。

 学校長は「3つのC」を新入生に訴えました。

 1.コンペティション (負けるものか。競争心)
 2.チャレンジ  (挑戦すること。やってやろうじゃないか)
 3.チェンジ  (変える)ものの考え方を変える。自分自身を変える。すなわち発想の転換を。

 「心機一転」 、私も、好きな言葉ですが、出来そうでなかなか出来ませんね。この言葉には「過去には出来なかったがこの際、一念を発起して」という意味合いが込められているのです。

 生活環境も、取りまく人間関係も大きく変わる高校への入学時は、最適な時期かもしれません。いい歓迎の御挨拶でした。


延岡学園高等学校後援会の横山康弘会長も、「仲間がいるから意見の違いも議論もある。言える自由と一方では責任も必要」、「若さと情熱と行動力をもって前へ」、「遅くてもいいから一歩一歩前へ進むこと」と新入生にエールを贈りました。

 これらのエールに応えて、入学生代表の簑田さんが、「人を思いやる心を持って、努力を怠らず、夢に向かって仲間と助け合い、切磋琢磨し、充実した学校生活を送るため、3年間努力します」と決意を込めて宣誓しました。


人として必要な4つの能力  ①気力、②体力、③学力、そして、④心力を身につけ、3年後には胸を張って学窓を後にしてください。

 努力に勝る天才なし。汗はウソをつきません。  君達の3年後が見てみたい。  


「島流しをくさるな」気持の持ちようで明日が変わる。

2012-04-04 18:13:11 | Weblog
 35才で測量設計業から土木建設業に転職して、いきなり島野浦の砂防工事責任者を命じられました。絵に描いていた砂防を今度は現地に。アニメの実写番に出演です。

 離島島野浦。「島流しの刑じゃ」と半分ふて腐れながら、いやいや赴任した島の砂防工事。人家の庭先を行き来するような狭い空間。それでなくても閉所恐怖症の私には息が詰まりそうな毎日でした。

 しかし、時間とともに、島野浦区の役員の方々とも親しくなり、多くの友人も出来、  「狭い路地にも、腐れた魚の臭いにも、弁当に集まりたかる銀ばえにさえも」、いつしか慣れ親しむようになっていました。 

 「足かけ8年の刑」では、多くの友人、多くの島人に助けられ、素晴らしい役員や監督員にも恵まれ、砂防2基、急傾斜2ヶ所を大きな事故もなく、無事終わらせることが出来ました。

 「島の人情と風土に慣れ親しんでの、今思えば、楽しい8年間」でした。工事が完了し、「御赦免船」で島を離れる時には、島野浦から「土木技術者としての多くの経験と確かな自信、人間としての成長」をお土産にいただいて、後ろ髪を引かれる思いで、しかし、さわやかな意気揚々の「島帰りの御赦免船」でした。

 
 4月、皆さんの中にも、「多かれ少なかれ合点のいかない人事や評価、その他の不満があるのでは」と思いますが、 不平不満はそっと胸にしまい、その任された職を誠心誠意全うされ、「御赦免船」が来た時は、後ろ髪引かれる思いが感じられるような、そしてその仕事ぶりが評価されるような御活躍を期待いたします。

 あなたしかいないからあなたが選ばれたのです。