この絵は大堤の八重桜を前景にして隅田川を隔てて対岸の真崎を望んだものである。
水神社の南の道は奥州街道で、当時は須田宿という駅舎が設けられ人が往来した道で、この道を左に行くと水神の渡しがあり、対岸に見える真崎の北へ通じていた。
36 真崎辺より水神の森内川関谷の里を見る図の対岸である。
現在神社の裏手から対岸を望む事は、首都高速・高い土手が有り、出来ない。
この辺りの土手も綺麗に整備され、川面に近づく事が出来るのだが
首都高速が上を走っていて雨をしのげる為か、ブルーテント群が乱立していて
ムードは無い。
隅田川の左岸の向島に、森に囲まれて隅田川の総鎮守といわれた水神社が
建っていた。この社のあるやや高い土地を水神の岡とか浮島と呼び
周囲が洪水になっても水を被る事は無かったという。
この水神は水難・火難除の神であり、船頭達ばかりではなく
庶民の間でも厚い信仰を得ていた。
水神社の南の道は奥州街道で、当時は須田宿という駅舎が設けられ人が往来した道で、この道を左に行くと水神の渡しがあり、対岸に見える真崎の北へ通じていた。
36 真崎辺より水神の森内川関谷の里を見る図の対岸である。
現在神社の裏手から対岸を望む事は、首都高速・高い土手が有り、出来ない。
この辺りの土手も綺麗に整備され、川面に近づく事が出来るのだが
首都高速が上を走っていて雨をしのげる為か、ブルーテント群が乱立していて
ムードは無い。
隅田川の左岸の向島に、森に囲まれて隅田川の総鎮守といわれた水神社が
建っていた。この社のあるやや高い土地を水神の岡とか浮島と呼び
周囲が洪水になっても水を被る事は無かったという。
この水神は水難・火難除の神であり、船頭達ばかりではなく
庶民の間でも厚い信仰を得ていた。
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