平らな深み、緩やかな時間

277.國分功一郎のスピノザ論と「もうひとつの現代絵画」

前回までのblogで、哲学者の國分功一郎さんの著作『スピノザ 読む人の肖像』について勉強してきました。そろそろ、絵画との関連性についてまとめの考察をして、一段落をつけたいと思います。

ところで、なぜスピノザ(Baruch De Spinoza 、1632 - 1677)のことが、こんなに気になるのでしょうか?それはスピノザの思想が、「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」(國分功一郎さんの著作より)の可能性を示しているからです。そして、なぜ私は「もうひとつの近代」という言葉に惹かれてしまうのか、それは現在の美術、とりわけ絵画が行き詰まっていると感じていて、スピノザの哲学がそれを根本から変革する手がかりになるのではないか、と考えているからです。

國分功一郎さんは、スピノザについて学ぶことは頭の中のアプリではなくて、OSそのものを変えることだ、と比喩的に書いていました。詳しいことは、前回の私のblogをお読みください。

これまでの学習で私は、デカルト(René Descartes、1596 - 1650)からカント(Immanuel Kant 、1724 - 1804)、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770 - 1831)という思想家のつながりが、現代美術の批評家グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)やアーサー・コールマン・ダントー(Arthur Coleman Danto, 1924 - 2013)へと影響し、現在のモダニズムの美術評論を形成しているのではないか、と考えました。その流れが現代美術の行き詰まりと関連しているのではないか、と考えてなんとかその流れを見直さなければならない、と思っているのです。このあたりの事情についても、前回の私のblogを参照していただけると幸いです。併せて、スピノザが近代哲学の祖であるデカルトをどのように批判的に検討したのか、そのことについても少しだけ勉強しましたので、確認していただけるとありがたいです。

ここまでを前提として、今回の話題に移りたいと思います。

 

まず、思想家としてのスピノザの特徴がどのようなものなのか、例えばそれがデカルトのそれとどのように違うのか、確認しておきましょう。そんなことよりも、それぞれの思想の核心を見定めて、どんどん話を進めていけばよさそうなものですが、そうはいきません。ここが大事なところなのです。

この両者の違いについて、國分功一郎さんはとても面白い例え話を書いています。実は前回も引用した箇所を含むのですが、その面白い例えのところを省略してしまったので、今回はそこを中心にお読みください。

 

デカルトはどんなに真であると思える観念であろうとも、それを疑わざるをえませんでした。第一真理であるコギト命題にしても、そこから導かれる結論だけを扱っていると、次第に疑いが再燃してきてしまうとすら述べているのです。

それはまるで、部屋を出てすこし歩くと「あれ、鍵は閉めたかな?」と気になって部屋に戻ってしまい、再び部屋を出て歩き出すと「ガスの元栓を閉めたかな?」と気になって部屋に戻ってしまうということを繰り返して、ついに部屋から出られなくなってしまう人に似ています。

デカルトはこの閉域を何としてでも突破しようとして、説得する力をもった強力なコギト命題を必要としたわけです。ある意味でコギト命題が説得しようとしているのはデカルト本人なのです。

それに比べるとスピノザはなんとおおらかなことでしょう。「真の観念を獲得すれば、それが真だと分かるよ」と言っているのです。デカルトに比べるとずいぶん気楽な感じがします。実際にはここで言われる「真の観念」には条件があって、それは根本原理である神の観念から演繹されたものでなければならないのですが、ここではその問題には触れません。重要なのはデカルトとスピノザの真理観の違いであり、そこから導かれる帰結です。

デカルトは誰をも説得することができる公的な真理を重んじました。実際にはそこで目指されていたのはデカルト本人を説得することであったわけですが。それに対してスピノザの場合は、自分と真理の関係だけが問題とされています。自分がどうやって真理に触れ、どうやってそれを獲得し、どうやってその真理自身から真理性を告げ知らされるか、それを問題にしているのです。だから自分が獲得した真理で人を説得するとか反論を封じるとか、そういうことは全く気にしないわけです。

(『100扮DE名著 スピノザ』國分功一郎)

 

この國分功一郎さんの話から、デカルトをろくに読んだことのない私が勝手にイメージすると、デカルトの「真理」は誰から攻撃されても壊されない、手堅い壁の中にあります。それは頑丈な壁ですけど、どこに作ってもいいというわけにはいきません。デカルトは頑丈な壁を、さらに間違いなく安全な場所に構築するのです。そのためにデカルトの「真理」は狭い領域の中に閉じこもってしまいますが、それも致し方ありません。誰からも疑われることのない「真理」の存在する場所は、そういう領域でしかあり得ないのです。

このイメージは、実はデカルトのイメージというよりは、グリーンバーグの批評のイメージに近いものです。グリーンバーグが『モダニズムの絵画』という主要論文で指し示した「絵画の平面性」を追究する方向性は、まさにこのイメージのような狭い領域の中で行われたことなのです。

そして前回のblogで書いた通り、その狭い領域の中で一部のエリート画家たちが身を削るような思いで絵を描いています。それを素晴らしいと思うのか、あるいは不健全だと思うのか、意見が分かれるところでしょうが、私は後者だと思います。これが現代絵画の、あるいはその現代絵画を批評する言葉の行き詰まりを表していると思うのです。デカルトからカント、ヘーゲルへと思想が繋がっていった結果が今の状況だと思います。

それでは、ここでスピノザのOSを入れてみたらどうなるのでしょうか?前回、私はこのように書きました。「ただの平面上に、私たちは奥行きや広がりを見出してしまう、その不思議さと無限の可能性に魅了されたがゆえに、私たちは絵を描く。」この言葉には、私が絵を描く上での「真理」が反映されています。しかしこのような「真理」の示し方では、さまざまなところから疑問が付され、攻撃されてしまうことでしょう。そもそもこの言葉の中には、そのような攻撃に備えて防御の壁を作ろう、という意識がないのです。

しかしこの私の言葉は、國分さんがスピノザについて語った先ほどの文章を拠り所にしています。それは「自分がどうやって真理に触れ、どうやってそれを獲得し、どうやってその真理自身から真理性を告げ知らされるか、それを問題にしているのです」という部分です。それを私なりに解釈すると、私は芸術について語ろうとしていますから、私にとっての「真理」とは芸術作品から受け取る「感動」だと思っています。そしてその「感動」を言葉で言い表したものは、多くの方の心からの共感を得ることによって強くなっていくのだと思っています。

批判されることを恐れてそれに備えるよりも、多くの方に共感していただいて、私の「感動」を共有してもらうことの方が、ずっと大切だと私は思っています。だから、私が魅了された絵画について、あなたにも魅力を感じてほしいなあ、と思って言葉を紡ぐのです。

当たり前のことを書いていますが、思いつきで書いているのではありません。ちゃんとスピノザを学習した成果として、私はこのように書いているのです。そのことをこれからお示ししましょう。

 

私は先ほどから、例えばグリーンバーグのフォーマリズム批評に対し、批判的な見方をしてきました。しかし、私自身もグリーンバーグの批評に惹かれてきましたし、グリーンバーグに学んだ藤枝晃雄(1936 -2018)さんの美術評論は、今でも目指すべきお手本の一つです。それはなぜかと言えば、フォーマリズム批評というのは作品を率直に語る批評だからです。フォーマリズム=形式主義というふうに考えてはいけません。グリーンバーグらのフォーマリズム批評は、画面上に画家が描き表したことについて、正面から語ろうとする批評なのです。彼らは、描かれたものが何なのか、何を意味するのか、作者は誰なのか、どんな人なのか、などといった絵画の周辺のことについては、最小限のことしか語りません。そんなことよりも、画面上に描かれた造形的なことについて多くを語ろうとするのです。これは絵描きにとっては、とても魅力的な批評なのです。

しかし、彼らは普遍的な、あるいはさまざまな意見や疑問に答え得るような批評を目指すあまり、批評の範囲を狭めてしまったように思います。それは、デカルトが普遍的な「真理」を追究するあまり、「気になって部屋に戻ってしまうということを繰り返して、ついに部屋から出られなくなってしまう人」になったことと相似的であると私は思います。私たちは、その狭い部屋から出なくてはなりません。

そのための鍵となるスピノザの示した概念が4つあります。それは「コナトゥス」、「変状」、「欲望」、「エソロジー」です。この中には、以前のblogでも説明した概念も含まれますが、ひとつ一つを見ていきましょう。

 

「コナトゥス」はラテン語で「努力」という意味だそうですが、國分功一郎さんは「ある傾向をもった力」と考えれば良い、と書いています。これは個体を今ある状態に維持しようとして働く力のことで、例えば生物が生命維持のために水を欲することなどがこれにあたるのだそうです。スピノザは、この「コナトゥス」の力こそが、そのものの「本質」である、と考えたということです。この「コナトゥス」に対して、古代ギリシア哲学ではものの「本質」はその「形」にあると捉えて、それを「エイドス」と言ったのだそうです。これを日本語に訳すと「形相」ということになります。この両者の違いはどんなところでしょうか。國分功一郎さんは『はじめてのスピノザ』の中で、次のように説明しています。

 

物の本質はその物の「形」であるという考え方も、それだけを聞くと特に驚くべきものではないと思われるかもしれませんが、実は私たちの考え方はこれと無関係ではありません。

たとえば競馬場や牧場で見る馬と、アフリカのサバンナにいる野性のシマウマとを、私たちは同じ馬だと考えます。色や模様は違うけれど、どちらも馬の形をしているからです。

でも実際には、両者の生態は全く異なっています。家畜化された馬は人を背中に乗せることができますが、野生のシマウマに乗ることはできないそうです。動物は普通、自分の背を傾けるなどという危険なことはしないからです。つまり家畜化された馬がもっている力と、シマウマがもっている力はその性質が大きく異なっている。

力の性質に注目すると、馬とシマウマがまるで別の存在として現れます。にもかかわらず私たちはそれらを形でとらえるから、両者を同じ馬だと考えるのです。

(『はじめてのスピノザ』「第二章 コナトゥスと本質」國分功一郎)

 

これが「形」から物事を見た場合の例です。次は「コナトゥス」から物事を見た場合の例になります。

 

それに対してスピノザは、各個体がもっている力に注目しました。物の形ではなく、物がもっている力を本質と考えたのです。

そう考えるだけで、私たちのものの見方も、さまざまな判断の仕方も大きく変わります。「男だから」「女だから」という考え方が出てくる余地はありません。

たとえば、この人はあまり強くはないけれども、繊細なものの見方をするし、人の話を聞くのが上手で、しかもそれを言葉にすることに優れている。だからこの人にはこんな仕事があっているだろう・・・。そんな風に考えられるわけです。

(『はじめてのスピノザ』「第二章 コナトゥスと本質」國分功一郎)

 

いかがですか?スピノザ的なものの見方は、なかなか素敵ではないでしょうか。

このように、「コナトゥス」ははっきりとした形のあるものではなくて、「ある傾向をもった力」である、ということを覚えておきましょう。実は先ほど挙げた概念の残りの三つ、すなわち「変状」、「欲望」、「エソロジー」は「コナトゥス」を言い換えたものになります。

これも順番に追ってみましょう。ここでもう一度、馬の例が出てきます。現代思想家のドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925 - 1995)にはスピノザに関する著書がありますが、その中に書かれたことを引用して、國分さんは「変状」という概念について次のように説明します。

 

前章でも紹介した哲学者のジル・ドゥルーズがこのことを大変印象的な仕方で説明してくれています。引用してみましょう。

 

たとえば農耕馬と競走馬とのあいだには、牛と農耕馬のあいだよりも大きな相違がある。競走馬と農耕馬とでは、その情動もちがい、触発される力もちがう。農耕馬はむしろ、牛と共通する情動群をもっているのである。(『スピノザ 実践の哲学』240頁)

 

「情動」とは広い意味での感情のあり方を指していると考えてください。「触発される力」とは、ある刺激を受けて、それに反応し応答する力のことを指しています。同じ馬でも、農耕する馬と競争する馬とでは、この「触発される力」が大きく違うというわけです。

つまり、どういう刺激に対して、どう反応するかが違う。私は農耕馬や競走馬に触れたことはほとんどありませんが、そこに違いがあるのは想像できます。競走馬は周囲の速度に反応し、速さを目指す動きをするでしょう。それに対し、農耕馬の「触発される力」はむしろ、同じようにゆっくり畑を耕す牛に近い。

<中略>

ここで言う反応、つまり刺激による変化のことを、スピノザは「変状 affectio」と呼びます。もう少しスピノザに即して言うと、変状とは、ある物が何らかの刺激を受け、一定の形態や性質を帯びることを言います。

先にドゥルーズからの引用で出てきた「触発される力」とは、ある刺激を受けて「変状する力」のことです。「変状」は専門的な用語ですが、『エチカ』を読むにあたって最重要な単語の一つですので、押さえておきます。

変状する力は、コナトゥスを言い換えたものです。たとえば暑さという刺激を受けると、発汗という変状が身体に起こります。これは熱を冷ますための反応であり、コナトゥス作用ですね。力としての本質の原理がコナトゥスであり、それは変状を司るという意味では「変状する力」としてとらえることができると考えればよいでしょう。

(『はじめてのスピノザ』「第二章 コナトゥスと本質」國分功一郎)

 

このように、ものごとを単独で見て、判断するのではなくて、「情動」や「反応」という、ものごとを取り巻く状況を見るというところが、スピノザ哲学の特徴なのだと思います。デカルトはものごとを疑問の余地のない、普遍的な状況に置きたいがために、できるだけ周囲から切り離された、純粋なものとして見ようとしましたが、スピノザはものごとの考え方の、その出だしのところから違うのです。私たちの生きている近・現代社会がデカルト的な思考を基本としているとしたら、スピノザ的に思考するということは、まさに頭の中のOSを切り替えるぐらいの大変革になるのだろう、と思います。

それがわかったところで、さらに先に進みましょう。次は「欲望」という概念についての説明です。

 

私たちは常にさまざまな刺激を受けて生きているわけですから、うまく生きていくためには、自分のコナトゥスの性質を知ることがとても大切になるわけです。

スピノザはさらにこの本質としての力を「欲望」とも呼んでいます。

 

さてまた欲望は、各人の本質ないし本性がその与えられたおのおのの状態においてあることをなすように決定されたと考えられる限り、その本質ないし本性そのものである。(第3部定理56証明)

 

少し分かりにくい文章ですが、次のように読み解くことができます。本質は力です。力ですから、それは刺激に応じてさまざまに変化します。たとえば私の本質は、aという刺激によって、Aという状態になることを「決定」される。そしてそのAという状態は私に、「あることをなすよう」働きかけます。この働きかけが欲望であり、その欲望は本質そのものだと言っているわけです。

話が循環しているように思われるかもしれませんが、スピノザはここで、本質が力であることを頑張って説明しようとしているのです。

普通は、不変の本質があって、その上で欲望という移り気なものが働くと考えられています。しかしスピノザは、力としての本質が変化しながらたどり着く各々の状態が、欲望として作用すると言っているわけです。

(『はじめてのスピノザ』「第二章 コナトゥスと本質」國分功一郎)

 

私たちは通常、「欲望」というのは後から生じてくるものであって、例えばある人の行動を考える場合に、その人の個体としての存在を確認し、その上でその人がある「欲望」をもったが故に何かの行動をした、と考えがちです。しかし、その人の本質が「コナトゥス」という「ある傾向をもった力」にこそ現れると考えるなら、どうでしょうか?その人が外部からの刺激によって「変状」しなければならなくなり、自分を良い状態に保ちたいという「欲望」をもって行動する、というこの一連の流れがその人の本質を表すことになります。

なぜスピノザは、このように考えたのでしょうか?國分功一郎さんはそれを次のように説明しています。

 

たとえば他人から嫌みを言われたとする。強い精神の持ち主ならば、軽く受け流す。つまりほんの少しの変状しか起こりません。しかし繊細な精神の持ち主や、活動能力がやや低めの状態にある人であれば、強いショックを受けるかもしれない。すると、その人の変状する力は、嫌みという刺激に対し、精神の不安定という変状をもたらします。力は低下し、外部からのネガティヴな刺激に対してよりいっそう脆弱な状態に置かれるでしょう。

すると、その不安定な状態を何とか脱出しようというコナトゥスが働き、たとえばそれを忘れようとか、気にしないようにしようという欲望が生まれる。しかし、そもそも力が低下しているから、それはなかなかうまくいかないでしょう。スピノザはこうした一連の過程において働いている力が同一の力であると考えているわけです。

スピノザは力が増大する時、人は喜びに満たされると言いました。するとうまく喜びをもたらす組み合わせの中にいることこそが、うまく生きるコツだということになります。

世間には必ずネガティヴな刺激があります。これはスピノザの非常に強い確信でもありました。それによって自分をダメにされないためには、実験を重ねながら、うまく自分にあう組み合わせを見つけることが重要になるわけです。そしてそのためには、農耕馬と競走馬の違いを見分けるような視点が大事になるのです。

(『はじめてのスピノザ』「第二章 コナトゥスと本質」國分功一郎)

 

長い引用になってしまって申し訳ないのですが、ここが大事なところです。それに「スピノザは力が増大する時、人は喜びに満たされると言いました」とか「うまく喜びをもたらす組み合わせの中にいることこそが、うまく生きるコツだ」などという身近な事例に即したスピノザ解釈が、今までにあったのでしょうか?私は他の専門書を読んだことがないので答えは曖昧ですが、たぶんこんなふうに書いたのは國分功一郎さんだけでしょう。

哲学が何のためにあるのか、といえば、それは人間にとって普遍的な「真理」を探究するためだ、というのが学問的に、あるいは科学的に正しいのでしょうが、私はやはり哲学は、人間がよりよく生きるために存在するのだ、と考えたいです。國分さんの解釈ではスピノザも、もしかしたらそういう人だったのではないか、という希望が持てます。

私は現代において、このようなスピノザの考え方が重要になっていると考えます。身近な例で、男、女という私たちの性別に関わることで考察してみましょう。私たちは、というか私ぐらいの世代の人間は、これまで男と女というと、生まれながらの性別によってその社会的な役割に差があって当然で、男らしく、あるいは女らしく生きる、ということを普遍的な正しい真実として教えられてきました。しかし現代では、さまざまな考え方があることこそが真実です。このことを考えるには、私たちという個体を生物学的な性別によって考えるだけではなくて、例えばスピノザが考える「コナトゥス」という概念によって、一連の流れによってその人の本質を見ていくことが必要になるでしょう。

そこで物事を取り囲むものとして環境に関する考察、すなわち四つめの概念として「エソロジー」が重要になるのです。その説明を読んでみましょう。

 

人間は単に男であったり女であったりするわけではなくて、常に具体的な環境と歴史と欲望が交錯する中で生きている。その中で出来上がる力としての本質は一人ひとり大きく異なります。どういう組み合わせならうまくいくかは、エイドスという形として本質を考えるだけではわからない。「お前は女だからこうしろ」「子どもだからこうしろ」「老人だからこうしろ」というのは、その人の本質を踏みにじることになるのです。

これはドゥルーズが指摘していることですが、このようなスピノザの考え方を、「エソロジー ethology」の考え方になぞらえることができます。エソロジーというのは「生態学」や「動物行動学」と訳される、生物学の比較的新しい分野です。

生物学は、動植物などの形態を分類し、記述することを基本とします。それに対してエソロジーでは、生物がどういう環境でどういう行動をしながら生きているのか、つまり具体的な生態を観察し、記述するという研究方法をとります。

その発想の始まりには、みなさんもご存知の昆虫学者ファーブル(1823〜1915)がいます。私は、ファーブルはある意味ではスピノザに近いのではないかと思います。

「エソロジー」の語源は、前章で見た「エチカ」の語源とまったく同じ、ギリシア語の「エートス」です。スピノザのエチカとエソロジーは、生物や人間が生きている場所や環境に注目し、その中でどのように生きているのかに注目するという意味で発想を同じくしていると言えるでしょう。エソロジー的な視点によってエチカが可能になるとも言えます。

スピノザによる本質概念の転換は本当に豊かな意味をもっているのです。

(『はじめてのスピノザ』「第二章 コナトゥスと本質」國分功一郎)

 

この文章の中で「前章で見た『エチカ』の語源とまったく同じ」と書かれていますが、その前章の「エチカ」の説明は、次の通りです。

 

まず、タイトルの「エチカ」という言葉ですが、これは「倫理学」を意味するラテン語のethicaで、英語だとethicsになります。倫理学とはごく簡単に言えば、どのように生きるかを考える学問のことです。  

エチカの語源はギリシア語のエートス(ethos)なのですが、ここまで遡るとおもしろいことが分かります。 

「エートス」は、慣れ親しんだ場所とか、動物の巣や住処を意味します。そこから転じて、人間が住む場所の習俗や習慣を表すようになり、さらには私たちがその場所に住むにあたってルールとすべき価値の基準を意味するようになりました。  

つまりエチカとしての倫理の根源には、自分がいまいる場所でどのように住み、どのように生きていくかという問いがあるわけです。

(『はじめてのスピノザ』「第一章 組み合わせとしての善悪」國分功一郎)

 

つまり「エチカ」というこの本のタイトル自体が、個体を取り巻く環境を含んだ概念だったのです。

それから、ファーブル(Jean-Henri Casimir Fabre、1823 - 1915)という名前が出てきて、懐かしいですね。私は虫が苦手だし、科学的な思考もからっきしダメな人間ですが、それでもファーブルの書いた「フンコロガシ」の話を、子供の頃に繰り返し読んだ覚えがあります。自分の体よりも大きいフンのかたまりを、後ろ足でうまく操作して器用に運ぶ虫の話ですが、私は虫の生態よりもこのような虫をじーっと観察するファーブルという人が不思議でなりませんでした。彼の『昆虫記』を読み直すと面白いのでしょうか?時間があったら試してみたいです。

 

さて、ここまで読んでいただくと、スピノザ的思考に、自分の頭の中のOSを変革する準備がだんだん整ってきたと思います。これを美術批評に置き換えるなら、ある画家の作品を一連の流れの中で鑑賞する、ということが重要だということになります。実はこれは特別なことではなくて、私たちがギャラリーに行って、作家の方といろんな話をするうちに、その作家がどのような流れで作品を制作をしているのかを知ることになりますが、そのことと実際に作品を見た感触とを掛け合わせて、それらに素直に反応すれば良い、ということだと思います。

例えばこれがフォーマリズム的な批評だと、そういうことを雑念として排除して、ひたすら作品を見入る、ということになるのでしょう。私は、ときにそういう見方も必要だと思います。一人ぼっちで作品をじっくりと見て、それと向き合いたいなあ、という気持ちが湧いてくることもよくあります。しかし実を言えば、そうやって見ている自分の状況だって、その場の環境に影響されているのです。ですから、頑なに「作品だけ!」という思いにこだわる必要はないということです。作品を見ていて、自分にとってしっくりとくるものを探し、あるいは違和感を抱くものがあればその原因を探り、作品鑑賞のあらゆる手掛かりを排除しない、という態度が大切です。美術史的な背景も重要ですし、それを知っていることが時には必要ですが、知らなければ仕方ありません。もしも必要だと感じたら、勉強しましょう。

そして、ある作品を評価することは、それを見ている自分自身を評価することでもあります。自分自身の成長や、自分と作品との関係や環境によって見方が変わることは、ごく当たり前のことです。私はこのblogで、いろいろな作品と出会ったことを綴っていますが、それはその時の私の鑑賞眼の限界を綴ることでもあります。かつての私の見方が無効だと思えるくらい、今の私が成長して新たな気持ちで作品と対峙できているとしたら、それはそれで素晴らしいことではないでしょうか?あの時、お前はこう書いたではないか、という責任はもちろん、負わなくてはなりませんが、成長した私が以前と違うことを書いたなら、ごめんなさい、今の私にはこのように見えるのです、と謝るしかありません。もしも「普遍性」という概念に重きを置くのであれば、そのような私の姿勢こそ私の「普遍性」です。

 

まとめらしいことを最後に書いておくと、國分功一郎さんの一連のスピノザの解説から、とりあえず私は「コナトゥス」、「変状」、「欲望」、「エソロジー」という四つの関連したキーワードを選び、これからはこれらの概念を意識して絵画を描き、あるいは絵画と出会い、文章を綴ることにします。モダニズムの批評に疑問を感じながらここまでも歩いてきたので、私の中のOSはすでにスピノザ的である、という感触も持っています。

それは、例えば持田 季未子(もちだ きみこ、1947 - 2018)さんという優れた美学者が『絵画の思考』(岩波書店、1992)という素晴らしい著書を書いていて、私は幸運なことにその本と巡りあって繰り返し読んでいた、ということも影響しています。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/0780615501eb25b789606e0d69c7973d

持田さんは、画家が無言で示した思いを、批評家はその作品から読み取って、その読み取ったことを言葉にして伝えるのがその役目だ、と書いていました。スピノザの示した四つの概念は、その読み取りを精緻にするために役に立ちそうです。そして文章のはじめの部分に書いたように、彼らから学んだことを糧にして、私は私の「感動」をみなさんと共有できるように努めるのです。

次回以降はさらにスピノザ的OSの変革に関して自覚的に取り組みながら、blogを書くことにしましょう。

具体的な作品との出会いが楽しみですね。みなさまにも期待していただけるとうれしいです。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「日記」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事