平らな深み、緩やかな時間

88.持田季未子『絵画の思考』『芸術と宗教』―ロスコ論から―

持田季未子(1947 - )の本について書く前に、まずそのきっかけについて、書いておきたいと思います。それは藤枝晃雄(1936-2018)の『現代芸術の彼岸』をぱらぱらと読み返していたときのことでした。その中の「美術批評の現在」という章で、次のような一節が目にとまったのです。

持田季未子さんという方は『絵画の思考』という著書のなかのマーク・ロスコ論においてこの画家の《私は色と形の諸関係ということには興味はない。…私は、悲劇、陶酔、破滅といった人間のベーシックな感情を表現することにのみ興味がある》という言葉を引いてこう述べておられます。
《ロスコの言明はフォーマリズム批評的な接近を拒否するかのようである。自分の芸術は色と形の関係ごときで語りつくせる幾何学的図形じみたものではない、と言わんばかりのロスコの断固たる主張はその意味で重要である。私たちはグリーンバーグらによって60年代まで盛んになされたフォーマリズム批評をいつまでも踏襲すべきではないだろう》。
これははなはだ不当な批判です。グリーンバーグは色と形の幾何学的な図形じみた絵画に対しては消極的であり、フリッツ・グラーナー-この画家は「関連の絵画(リレーショナル・ペインティング)」というタイトルを持つ作品を描いています―のようなモンドリアンの亜流の幾何学的抽象を高く評価したわけではありません。ただ、モンドリアンは評価していてその絵画のなかの形ではなくその空間構築の諸要素の「等価性」なる特色を見出したのです。
(『現代芸術の彼岸』「美術批評の現在」藤枝晃雄著)

この文章を以前に読んだときは、ふむふむ、そうなのか、と思ったのですが、今回は何かが引っかかりました。何が気になったのでしょうか?
それは藤枝晃雄が批判しているのが、「幾何学図形じみた絵画」をグリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)が評価した、と読み取れる部分だけ、のようだからなのです。藤枝晃雄は、持田季未子が言わんとしている「フォーマリズム批評をいつまでも踏襲すべきではないだろう」という趣旨の全部、あるいは『絵画の思考』という著作全体を批判するところまで言っていない…、というふうに読めたのが、私にとって意外でした。彼は「フォーマリズム批評」を狭義にとらえて批判する人(狭義のフォーマリズム、あるいは通俗的なフォーマリズムの解釈については、2月のこのblogに引用した川田都樹子の文章を参照していただけるとよくわかります)、さらにグリーンバーグを不当に批判する人に対しては、たいへんに厳しくあたる批評家なので、この「持田季未子さんという方」への批判は、何となく抑制がきいているような気がしたのです。もしかしたら持田季未子の著作『絵画の思考』には、「フォーマリズム批評」を批判的にとらえながらも、何か読まれるべきことが書かれているのかもしれない…、これは『絵画の思考』という本を読んでみるしかない…、というふうに考えました。
そこからさらに芋づる式に、この本が1992年に出版されて吉田秀和賞を受賞しているということがわかり、そういえばこの本が話題になっていたころ、読もうと思っていて読み逃してしまっていたな、ということを思い出しました。つまり私は最初の機会を逸したものの、四半世紀以上たってから再びこの本と巡り合ったわけです。
前置きのような話が長くなってしまって申し訳ありません。しかし、この『絵画の思考』の著者がフォーマリズムを「踏襲すべきではない」と書いている点が、私にとって重要だったので、ついそのあたりの事情を書いてしまったのです。それもグリーンバーグによって評価された抽象表現主義の画家の一人、マーク・ロスコ(Mark Rothko, 1903 - 1970)を論じた文章において、そのようなことが書かれているわけですから、興味をそそられます。
それで持田季未子という著者は、どのように芸術作品と向き合い、どのようにロスコを論じているのでしょうか?順を追って、見ていきましょう。

まずは『絵画の思考』の「序」の文章に注目してみましょう。この文章はモンドリアン(Piet Mondrian、1872 - 1944)晩年の、ニューヨーク時代の挿話から始まります。モンドリアンは晩年の『ブロードウェイ・ブギウギ』において、それ以前のデ・スティル時代からの表現様式、いわゆる新造形主義のスタイルを変えました。それを見たモンドリアンの支持者が、「これは理論に逆らっているではありませんか!」とモンドリアンに言ったのだそうです。それに対してモンドリアンは、「絵画がまず最初に来、絵画から理論が来るのだ」と答えたのだそうです。その挿話を引きながら、持田季未子はこう書いています。

芸術をなんらかのメタ言語的な言説を用いて解説することは本書の目的ではない。ましてやあれこれの西欧近代思想家の言説の祖述やその実地応用が目的ではなく、具体的作品の中に思想上の問題のサンプルを求めることも意図しない。それらの反対を志している。あらかじめ画家の頭のなかに哲学、美学、宗教思想などがやどり、しかるのちにそれをヴィジュアルな表現に置換翻訳したというなら、そのような方法も有意義だろう。だが絵画における思考はモンドリアンの言うとおり、最初からいきなりヴィジュアルな表現を存在せしめるという行為、黙ってテクストを差し出す実践によってしか表し得ない、繊細にして直覚的な、別種の思考なのである。未知に向けての自由な創造である絵画の真理は、そのようにして示されるしかない。
(『絵画の思考』「序」持田季未子著)

この部分に引き続いて著者は、美術史や図像学などの学問が、ある程度の有効性を持ちつつも、それらが明らかにできる範囲は限定的である、ということを指摘したうえで、次のように書いています。

本書の野心は、絵画の現象学とでも呼べそうな方法で作品をできるだけ厳密にたどり創作の本質をとらえるようにしつつ、テクストに言葉を与え、ディスクール(言説)の次元に引きつける端緒をみつけ、無言のテクストを世界・社会・歴史・人間に向けて開くことなのである。絵画を美術史の言説の内部に閉じ込めておいてはならない。絵画を思想へ向けて開くディスクールが必要である。それは行為者である当の画家たち自身がよく成し得るところではない。ここに批評の出番がある。
(『絵画の思考』「序」持田季未子著)

これはすばらしい文章だと思います。しかし平たく言ってしまうと、あらかじめ作品の見方を規定してしまうような学問的方法論をもたずに作品と正面から向き合う、ということになりますから、たんなる印象批評に終わってしまう危険性もあると思います。だからこそ、「絵画の現象学」という言葉を用いて、作品の本質に迫ること、そしてテクストを世界に向けて開くことが必要である、と書いているのだと思います。それが実現できるのかどうか、それは文章のクオリティー次第…、当然のことながら、批評も芸術作品と同様に、作者の力量が問われることになるのです。「序」の文章でこう書く以上、著者にはその覚悟があるのでしょう。
ところで同じ「序」のなかで、ロスコに触れた部分もあります。これは先ほどの「現象学とでも呼べそうな方法で作品をできるだけ厳密にたどり創作の本質をとらえる」ということを具体的に、かつ簡潔に言い表していると思うので、引用してみます。持田季未子はこのような画家として、ロスコを認識しているのです。

世紀なかばのアメリカン・マスターのひとりマーク・ロスコは、抽象ではあるが、先輩のモンドリアンとは違った行き方をとり形式や関係の純粋化をめざす道を迂回し、霧が滲むようなムラの多い色面のなかで人間の運命、悲劇、感情、自由といった永遠の主題をもう一度正面からテーマとした芸術家である。
(『絵画の思考』「序」持田季未子著)

この「永遠の主題をもう一度正面からテーマとした芸術家」という部分が、さきの「創作の本質をとらえる」ということを言葉にしたところでしょう。このような捉え方、つまり画家の制作方法や絵の形式ではなくて、絵の制作目的や動機に当たるもの、つまり画家が目指したと思われるものを「創作の本質」として捉えるやり方は、狭義のフォーマリズム的な批評からは出てこないでしょう。というよりも、そもそもこれは学問的に探究することが困難な領域だと思うのですが、いかがでしょうか。下手をすれば、何やら精神的な、あるいは神秘的なものを感じる、といったような、さきほどから危惧している印象批評に終わってしまう危険性もあります。実際に、ロスコの晩年の作品への批評は、やや雰囲気的だと思えるような宗教的な解釈に満ちていますし、私はそんな解説に出会うとがっかりしてしまいます。
『絵画の思考』では、「雲のドラマ―ロスコ」という章が設けてられていて、さきの藤枝晃雄が批判したロスコ論の文章もこの中のものです。そのことについては後で確認することとして、とりあえず私が心配している、ロスコの絵画を漠然と宗教的なものとして語るということについて、著者がどのように考えているのか、探ってみたいと思います。実は持田季未子の別の著作、『芸術と宗教』の中で、著者の考え方がはっきりと書かれている部分があります。そこでは、ロスコと宗教との関連性について次のように書かれています。

最晩年の一連のモノクロームの作品は、二つの矩形が層をなすように描かれているので一見以前のスタイルの延長上にあるが、よく見ると黒とグレーのアクリル絵の具だけを使っていること、色面の端にささくれや塗りムラがなくなり直線的な硬直した印象を与えること、などの点で成熟期のものとは一線を画している。豊かな色彩を失い、表現力に欠けたものになっている。率直にいうと、まるで別人のような痩せかたである。チャペル壁画を境に画風が一変した。
晩年のこの急速な変化を私は不思議に思いながら、画家が老齢になり力が衰えたためかぐらいに思ってそれ以上気にとめないでいた。だがこれを宗教的世界観のあらわれとして説明する研究もある。すなわちロスコが1959年にイタリアを旅行した際に訪れたヴェネツィア近郊の12世紀の寺院の壁画が、チャペルの建築、キャンバスの配置、個々の絵の表現法、配置構成など全般にわたって決定的な影響を与え、さらにチャペル後に制作された「ダーク・ペインティング」の上下二段構成の画面にも天上と現世を二分するキリスト教的世界観が象徴的なかたちで反映しているという推定である。
この影響関係の推定が事実とすると、残念だが宗教と芸術の出会いは、少なくともロスコ最晩年にかぎっては、よい成果を生む方向に働かなかったと言わざるを得ない。なぜなら結果として生じた作品が以前とくらべてあきらかに表現力を失っているからである。第一ロスコ芸術は色彩がいのちであったのに、無彩色を選んだのは自殺行為であろう。かれの実人生もまもなく自殺というかたちで悲しい終わりにいたる。
教訓は、現代における宗教と芸術の実りある関係は、共同体のなかに信仰が生きていた中世の宗教美術や教会建築などとは異なるものであるべきだ、ということであろうか。
(『芸術と宗教』「二0世紀の死者たちのために」持田季未子著)

著者はこのように、晩年のロスコの絵画、その宗教との出会いについて否定的な見解を示しています。また、現代において「宗教と芸術の実りある関係」は宗教が社会の中心であった中世のようにはいかない、ということを客観的な目で指摘しています。このような冷静な見方が、テクストを世界に向けて開くことにつながるのでしょう。
さて、それでは著者が指摘したロスコの絵画の本質である「霧が滲むようなムラの多い色面のなかで人間の運命、悲劇、感情、自由といった永遠の主題をもう一度正面からテーマとした」という作品は、具体的にどのように描かれていたのでしょうか。そのことについて著者が具体的に書いている部分を探ってみますが、実をいうと『絵画の思考』という本は、実際の絵画に寄り添うように書かれた文章がほとんどなので、どこを引用してよいのか迷ってしまいます。例えば次のようなところでいかがでしょうか。

間近に寄ってみると、ロスコの絵はニューマンの大画面やモネのオランジュリーなどと違っていちじるしく薄塗りであることがわかる。絵具の物質感がない。絵具を塗っては布で拭き、さらに別の色を塗っては拭いたとしか思えない、ほとんど布を染めるという感じがするほどの薄さで、そのことも透明感を作り出す一因であろう。透明ないし半透明の薄い色の塊が薄い地色のなかに浮かんでいる。こうしてふしぎに奥行きのイリュージョンさえ生じてくる。作品によってはどこまでも奥深く見えたり、またピカソとブラックによる分析的キュービズムの実験やポロックの『ラヴェンダー・ミスト』(1950)などと同様、浅い奥行きだけが感知されるときもある。どこまで深いか測れない空の上に、綿の光ったような濃い雲が懸かっており、微風の力に雲の端が吹き散らされると、青空の地が透いて見える程に薄くなる。吹き散らされながら塊まって、針を集めたようにささくれ立つ…というわけである。
(『絵画の思考』「雲のドラマ―ロスコ」持田季未子著)

作品を注意深く観察していると境界線の滲み具合に程度の差があることがわかる。一般に上下の色面間のそれのほうが、周縁と地色の間にくらべて境界線がより鋭く直線的である。傑作『ダーク・グレーの上の赤とダーク・ブルー』(1961)や『オレンジの上の黄とオレンジと赤』(1954)などが典型的だが、外へ外へと拡散しようとするエネルギーに満ちた異種の気体が上下から押し合って激しく闘うために、ぼやけが消えてしまったのである。まさしくこの水平線部分にロスコの絵画のドラマ性が集約されていると言えよう。闘争、矛盾、悲劇というものがこの横の線から生じる。
(『絵画の思考』「雲のドラマ―ロスコ」持田季未子著)

このような具体的な記述から見えてくるのは、ロスコの絵画が抽象表現主義の画家たちに共通して見られるような、絵の具の物質感や、描く行為の激しさ、などといった特質とは異質である、ということです。しかし、その表面的に穏やかな画面とは裏腹に、そこには不思議な奥行きやドラマ性、感情の表現があるのだ、と著者はいうのです。「闘争、矛盾、悲劇というものがこの横の線から生じる」というあたりは、見る者の感受性による部分が大きいので、まるごと頷ける、というわけにはいきませんが、画面の詳細な分析に説得力があります。これこそが「絵画の現象学とでも呼べそうな方法で作品をできるだけ厳密にたどり創作の本質をとらえる」ということなのでしょう。
このように、ロスコの絵画は絵の表面から読み取れる部分以外のところで、人間の感情に訴えかけてくるような特質があるのですが、そのことについて述べているのが、実は冒頭の(藤枝晃雄が引用していた)文章なのです。あれだけの部分ではわからないので、その前後も含めて書き写しておきます。

ロスコを理解するとは、こうした感情が作品のどのような構造から発しているのかを考えることにほかならない。かれの絵の背後に暗鬱な空と海を描いたかつてのロマン派の風景画の残響があってもなくても同じである。私たちは色と形が構成する絵画ということから出発すればよい。しかしロスコはあるインタビューに答えて、じぶんは抽象派ではないと断り、次のように言う。
「私は色と形の諸関係ということには興味がない…私は、悲劇、陶酔、破滅といった人間のベーシックな感情を表現することにのみ興味がある。そして多くの人が私の絵画に対すると、抑え切れずに泣くという事実が、私がこういう人間のベーシックな感情をよく伝えているということを示している」
これは絵画空間を色や形の関係で構成していくモンドリアン的な抽象とのちがいを主張している言葉のように読める。モンドリアンの絵画が有限のコードに限定されている。水平と垂直の線、それに三原色と無彩色である。これらわずかな要素から、その位置関係、比例関係を無限に変化させることから、驚くべき多様性と豊かさが産出されるが、基本をなす原則はきわめて限られているのである。これを基本要素の関係がつくる絵画と呼ぶとしたら、ロスコの「悲劇、陶酔、破滅などの人間のベーシックな情念を表す媒介手段」という色彩についての考え方は、むしろファン・ゴッホを思い出させる。「僕は赤と緑によって恐るべき人間の情念を表現しようと努めた」と言ったあのゴッホの色使いを。じっさいロスコの芸術の実質は色の美しさにあるといっても過言ではないのだ。
ロスコの言明はフォーマリズム批評的な接近を拒否するかのようである。自分の芸術は色と形の関係ごときで語りつくせる幾何学的図形じみたものではない、と言わんばかりのロスコの断固たる主張はその意味で重要である。私たちはグリーンバーグらによって60年代まで盛んになされたフォーマリズム批評をいつまでも踏襲すべきではないだろう。
(『絵画の思考』「雲のドラマ―ロスコ」持田季未子著)

このように、藤枝晃雄の引用した部分の前後まで読むと、いかに持田季未子の視点が藤枝晃雄のそれとは違っているのか、がよくわかります。藤枝晃雄がゴッホの風景画についてすばらしい批評を書いていたことを、2月にこのblogでも書きました。「『dialogue』展、『藤枝晃雄批評選集』よりゴッホについて」という文章です。さきほど紹介した川田都樹子の文章もこの中に含まれます。そのときにも私は書きましたが、藤枝晃雄は決してゴッホの絵から「人間の情念」といったものについて語ろうとはしません。彼は「ファン=ゴッホは、色彩を主情的、恣意的に施しているのではない」とはっきりと書いています。私も、ほぼその意見に賛同します。けれども、その一方でゴッホが「僕は赤と緑によって恐るべき人間の情念を表現しようと努めた」と書いていることも、まぎれもない事実です。これらのことを、どう考えたらよいのでしょうか。
ゴッホが、あるいはロスコが絵を制作するときに、色彩について画面上での構成や対比といった以上の意味を見出していたと自ら言うのなら、それを否定しようがありません。しかし、だからといって一枚の絵を描くときに、主情的な観点に偏って色や形を選んでいたら、表現として成り立たないでしょう。彼らの絵は、視覚的にも優れているからこそ、絵画として鑑賞に耐えうるのです。そこに絵画表現としての面白さがあります。藤枝晃雄にしろ、持田季未子にしろ、狭義のフォーマリズム、つまり絵画の表面的な形式を云々する批評に対しては、厳しい態度をとっています。しかし画家がどういう動機から絵を描いたのか、あるいはどういう思いをもって制作したのか、ということへのアプローチは、ずいぶんと違っています。私は持田季未子の本を読み始めたばかりなので、彼女の批評の可能性について軽々しいことは言えませんが、少なくとも傾聴すべき何かを感じています。それが何なのか、これから読み解いていかなくてはなりません。
最後になりますが、『絵画の思考』のロスコ論を持田季未子がどのように結んでいるのか、見ておきましょう。ロスコの絵画を著者がどのように受け止めていたのか、よくわかる文章です。そして、芸術というものがこの世界に存在する理由について、著者がどう考えているのか、ということもわかります。これは美学的なアプローチ、と言ってもよいのかもしれません。

しんと静かに見えながら無限に運動をはらむ絵画。近寄ってみると表面の細部はあくまで優しく目に心地よいのに、大きな画面全体となると異様に強烈なエネルギーを発散し、凄いような緊迫感、危機感を漂わすときすらある。そこに参加する人は、なにかしら別の新たな世界の創成に立ち会い、みずからの再生をも体験する。ロスコ芸術は体験されたものとしての世界を示すことにより、人それぞれに世界体験への窓をひらく。それは情報過剰の社会では稀になった、人間存在にかかわる根源的な体験である。小論ではしばしば宗教的体験と芸術のあいだの距離の近さと遠さにふれた。両者がどこまで近似したどこで別れるのか、明らかにすべき問題はまだまだ残るが、少なくとも芸術が宗教とちがって人間のジレンマに対し決まった回答を与えないことだけは確かだろう。芸術という回答なき問い掛けを真摯になしたマーク・ロスコは、あらためて人間の自由とか芸術による解放ということを考えさせて、感動的である。
(『絵画の思考』「雲のドラマ―ロスコ」持田季未子著)

ところで今回取り上げた本ですが、『絵画の思考』はロスコのほかに、モンドリアン、アースワーク、村上華岳、モネなどについて、書かれています。どれも面白い内容でしたが、とくに村上華岳(1888 – 1939)はこれまでまったく興味がなかったので、新鮮な驚きがありました。華岳といえば、仏画や人物画が代表作として目にすることが多いのですが、ここでは風景画について論じられています。実際の絵を見てみないと何とも言えませんが、テクストそのものは興味深く、華岳という画家の見直しを迫られた気がしています。
それからもう一冊、『芸術と宗教』についてですが、このタイトルを見ると、宗教に関連する芸術作品について連綿と語った本ではないか、と思ってしまうのですが、ロスコに関する引用部分からも分かるように、そうではありません。はじめの章で「芸術は宗教に代わりうるか」と厳しく問いかけているのですが、そのあとで芸術の存在意義や芸術が生み出された動機について、かなり掘り下げた話が展開されます。考えてみると、洋の東西を問わず、芸術の成り立ちには宗教が何らかの形でからんでいることが多いので、この成り行きは必然的なことなのかもしれません。また、「無神論と芸術」という章では、カント(Immanuel Kant、1724 - 1804)を軸にして美学の成り立ちがとても分かりやすく解説されていて勉強になります。カントと当時の宗教との葛藤が、現代の神なき時代において参照すべきものとして、浮かび上がってくるのです。
いずれの本も、そのうちにそれぞれ一冊ずつ取り上げて、文章を書いてみたいと思います。


最後に、追記させていただきます。
これらの本を取り寄せて、文章を書くのにひと月ぐらいかかってしまいました。その間に、著者の持田季未子さんの訃報が新聞に載っているのを見つけました。
「12月18日、癌による多臓器不全のため死去。71歳。」
なんということでしょう。この著者が、昨年、『セザンヌの地質学―サント・ヴィクトワール山への道』という本を出していることがわかったので、来年早々に読んでみようと思っていたところです。元気に著作活動を続けておられるのかと思っていました。ここで取り上げた「絵画の現象学」がどのように発展していくのか、ということも、もう少し見せていただきたかったのですが…。あるいは、どこかにまとまった文章が残っているのでしょうか。探してみなくてはなりません。仮にそれがなかったとしても、彼女の示唆した道に可能性があるのか、これから考えていく必要があります。
ちなみに、冒頭に掲げた彼女のロスコ論を批判した藤枝晃雄さんも、今年の4月に亡くなられました。お二人とも、面識のない一般読者の私にとっては遠い存在ですが、ご健在で次の著作が期待できるのと、そうでないのとでは、やはりずいぶんと心持ちが違います。
そして当然のことながら、彼らの本だけが残されました。画家は作品を残し、著作家はテクストを残していくわけで、それを正当に受け止めるのが生きている者の務めです。彼らの深い知識と思索の領域には到底とどきそうもありませんが、私なりに取り組んでみましょう。

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中村路子
石村実様
私は持田季未子(本名公子)の姉の中村路子と申します。
「美的判断力孝」につきましての貴投稿を拝読させて頂きました。公子は良く盲千人,目開き千人と申しており、仕事を続けていれば、真意を理解する人も何処かにきっと居るという意味の話しをしたものです。貴投稿を拝読して、やっぱりそのような方に読んで頂けたかと大変嬉しく存じます。2017年にセザンヌの地質学を出版した直後から、新たに取りかかりました本著作を亡くなる前に完成させておりまして、その遺稿を彼女の早世を惜しんで下さる有志の方々のご尽力により、5月末日に出版させる事が出来ました。公子の他の著作に興味をお持ちと拝読致し、失礼ながら絶筆になりました「美的判断力孝」を送付させて頂きたいと存じます。つきましては 送付先をご教示下されば幸甚に存じます。

ます。どうぞよろしくお願い申し上げます。
  
中村路子
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