平らな深み、緩やかな時間

278.『大竹奨次郎「竜泉」』という個展について

若い画家の展覧会を紹介します。

 

東京都渋谷区神泉町の「Liamgallery /リアムギャラリー」で、12月25日(日)まで開催されている『大竹奨次郎「竜泉」』という個展です。

http://liamgallery.com/exhibition.html#82_ootake

 

さて、私は前回の大竹さんの展覧会についても、少しだけですがこのblogでご紹介しました。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/14ce436151d7082f4bd0cd82b8077e8f

今回は、もう少しくわしく大竹さんの作品について書いてみたいと思います。

写真を見ていただくとわかるように、大竹さんの作品は抽象画になります。ただし、描き進める過程で、画面が建物を描いたように見えるなど、何か具体的なものに見えることは、別に構わないようです。むしろ、そうしたイメージが制作途中で現れることを、大竹さんは楽しんでいるようです。

しかし、彼は具象的な絵画を意図的に描こうというつもりはないようです。どうしてでしょうか?そのことを、彼の制作方法から探ってみたいのですが、その前に抽象絵画と具象絵画との区別について考えてみましょう。

 

私はここで、便宜的に抽象絵画と具象絵画を分けてみました。

抽象絵画というのは、具体的なものが描かれていない絵画で、具象絵画は人物や静物、風景などの具体的なものが描かれているものです。ややこしいことに、半具象、半抽象などという言い方もあります。これは具体的なものをイメージして描いているのに、その形が分からないくらい変形(デフォルメ)して描かれているものや、抽象絵画として描かれているのに微かに具体的なものの面影や構成が見えるもの、というところでしょうか。

私の作品などは、半抽象ぐらいの感じなのかもしれません。風景的な空間の広がりを意識して描いているからです。

仮にそのように抽象絵画と具象絵画を分けてみるとして、そのことにどの程度の意味があるのでしょうか?具体的なモチーフを前提にして絵を描くかどうか、ということは、確かに絵画の制作上、大切な問題ですが、私は絵画を批評する上では、それほど大きな問題だとは思っていません。むしろ、どういう意識で画家が絵を描いているのか、そのことの方が重要なことです。

 

これはどういうことなのか、ちゃんと説明しましょう。

私が考えるところでは、絵画にとって最も大切なことは、そこにどのような絵画空間が表象されているのか、ということです。

例えばジョルジュ マチュー(Georges Mathieu 、1921 〜 2012)というフランスの画家がいます。「アンフォルメル」という戦後の新しい抽象絵画の動向を代表する画家だと言われています。

https://georges-mathieu.fr/

上のリンクの赤い地に黒や白の荒々しいタッチで抽象的な線が描かれた作品を見てください。一見すると、ダイナミックな絵に見えますが、色の対比は分かりやすく、奔放に見える筆致も四角い画面を意識しておさまりの良いものになっています。つまり、画面の空間としては、旧套的な構成であり、対比的で安易な色彩の絵画なのです。

それと比較してピエール・ボナール(Pierre Bonnard, 1867 - 1947)という同じくフランスの画家がいます。ナヴィ派と呼ばれる19世紀末から20世紀の前半にかけて活躍した画家です。

https://www.momat.go.jp/am/exhibition/pierrebonnard2022_2/

上のリンクの風景画は、確かに風景が描かれていますが、具体的に何がどうなっているのか、一見するとよくわかりません。しかし周囲に溶け出してしまいそうな広がりのある構図と、複雑に絡み合った色彩が輝いていて、描写のわかりにくさなどはまったく気になりません。マチューよりも半世紀ほど前の画家ですが、今見ても斬新な構成であり、複雑で自由な色彩表現の絵画となっています。

 

最悪の抽象絵画と、最高の具象絵画を例に出しているので、「ずるい!」と言われそうですが、このように絵画がいかに自由で斬新であるのか、ということに関して言えば抽象絵画とか具象絵画とかいうような区別はあまり関係ないのです。ついでに、時代的に新しい絵画ほど内容も新しいわけではない、ということも確認しておきましょう。要するに、どれほど自由に絵画を描けるのか、ということは画家次第であって、絵画の便宜的な分類や時代区分などは、あまり当てにならないのです。

このことは、前回のblogの國分功一郎が示した馬の話を思い出しませんか?再度、ここに掲載します。

 

物の本質はその物の「形」であるという考え方も、それだけを聞くと特に驚くべきものではないと思われるかもしれませんが、実は私たちの考え方はこれと無関係ではありません。

たとえば競馬場や牧場で見る馬と、アフリカのサバンナにいる野性のシマウマとを、私たちは同じ馬だと考えます。色や模様は違うけれど、どちらも馬の形をしているからです。

でも実際には、両者の生態は全く異なっています。家畜化された馬は人を背中に乗せることができますが、野生のシマウマに乗ることはできないそうです。動物は普通、自分の背を傾けるなどという危険なことはしないからです。つまり家畜化された馬がもっている力と、シマウマがもっている力はその性質が大きく異なっている。

力の性質に注目すると、馬とシマウマがまるで別の存在として現れます。にもかかわらず私たちはそれらを形でとらえるから、両者を同じ馬だと考えるのです。

(『はじめてのスピノザ』「第二章 コナトゥスと本質」國分功一郎)

 

これはものの本質を形相(エイドス)だけで判断するのではなく、コナトゥス(ある傾向を持った力)に注目するというスピノザ(Baruch De Spinoza、1632 - 1677)の思想を解説したものです。それを絵画に応用すれば、どういうことになるのでしょうか?それは具象絵画、抽象絵画という形相に惑わされずに、それぞれの絵画が何を目指しているのか、というコナトゥスを見ぬくことが重要だ、ということになります。それでは、制作のはじめには具体的なものを意識していないけれども、制作過程でそれが建物などの具体物にも見えることがある、という大竹さんの作品のコナトゥスはどのようなものなのでしょうか?

そのことを考える上で、大竹さんの制作プロセスを含んだ大竹さんの文書があります。『竜泉』というタイトルが付されたこの文書は、展覧会場に行けば置いてあります。前回の展覧会の時も同様のメモがあって、大竹さんの心情が文学的な文章で綴られているのですが、その中から制作に関するところを抜書きしてみます。



方法を発見する方法。

最初は無数にあって、初めて16になる。少しずつ時間をかけて1になる。次に4になる。そこから6になって、7になる。そこからは14でも18でも28でも150でも移っていく。

 

対称と非対称。因果関係と価値。平等と回数。予感と嘘。比喩と似ること。信仰と差異。

すべては決まっているのかどうか。

 

線を引いて、曲がっていくと、あるとき三角形ができた。そのまま線を引き続けて三角と三角を合わせると四角になる。四角と四角を組み合わせると、木枠になる。線に線を沿わせて、梯子ができてずっと続いていく。

四角の角をとると丸になる。丸が複数できて、丸と丸を線であわせる。

すると細胞や地図や街や教会のように関係性があらわれて、色と形が光になって、建てられる。目に見えないものへの比喩になる。

 

過去に予感によって点を打ち、いまここ、現在において回収する。過去にしたことを引き受ける。また未来に向かって投げる。

嘘を無理やり真実にする、なぜそんなことしたか、過去、現在、未来の会話。

 

縦は存在。横は位置。斜めは距離。

筆が自己否定しつづけ、空間が空間を壊すことによって、空間があらわれる。

同時にたくさんのことが進んでいき、ほかになくその通りでなければならないとともに違う可能性が同時にある。何か起こったことだけわかり、理性を保ったまま混乱する。

 

この頭以外に存在しない。

絵を狭い場所や、広い場所、低いところや、高いところに置く。

 

絵を飾るとその街に飾ることになる。

(『竜泉』大竹奨次郎)



断章的な文章で、ちょっとわかりにくいのかもしれませんが、ここには絵画にとって興味深い幾つもの問題が提起されています。まずはその中で、先ほどから取り上げている制作過程について、見ていきましょう。

「最初は無数にあって、初めて16になる。少しずつ時間をかけて1になる。」

絵を描くときに、どこを起点に描くべきか、どこから描き始めるべきか、具象絵画なら、それは単なる手順の問題になるのかもしれませんが、抽象絵画においては、重要な問題です。最初に画面に筆が触れるところを見れば、すでに画家の絵画に対する態度を読み取ることができるからです。その画家が頭の中に精緻な絵の完成像を持っていようと、そうでなかろうと、事情は変わりません。その最初の点は、重要な何かを規定する点なのです。

大竹さんは、画面と向き合っているときに、その描くべき点が見えるようです。その点が「4」、「6」、「7」、「14」というふうに増殖していくのでしょう。このことから、大竹さんは描く前に絵画の構成を考えてから描くタイプではないことがわかります。そのようにして記された点は、互いの関係に目覚めながら、それが線となって現れます。

「線を引いて、曲がっていくと、あるとき三角形ができた。そのまま線を引き続けて三角と三角を合わせると四角になる。」

実際にこのように、つまり子供が無邪気に任意の点を結ぶように、大竹さんは線を引くようです。それが繋がって「三角」や「四角」の図形に見えてくるのです。そのような作業を繰り返すことで、その図形が例えば建物のように見える、ということは先ほどから書いていたところです。こういう絵の描き方は、特に美術教育を受けた者からすると、かなり奇妙なことではないでしょうか?はじめにどんな絵にするのか、白紙の状態で画面に向かうのは良いとしても、点が線になり、そこに図形が現れてくれば、そろそろ画面の構成やバランスを考えたいところです。

「線に線を沿わせて、梯子ができてずっと続いていく。」

ちゃんとした絵に仕上げたければ、こんなことを続けている場合ではありません。

「細胞や地図や街や教会のように関係性があらわれて、色と形が光になって、建てられる。」

こんなふうに、呑気に成り行きを眺めていないで、もっと意志を持って絵を描かないと、先行きが心配になります。ときには一旦描いたところを消して修正するとか、上から絵の具を被せて新たな形に更新するとか、いろいろとやるべきことがあるはずです。

ところが、大竹さんの絵を見ると、絵の具を重ねたところはかろうじて確認できますが、消して修正したところは、どうやら無いようです。次々と連鎖的に、そのときに発するイメージに任せて絵を進行させる大竹さんにとっては、そのように後戻りをすることなど考えていないのでしょう。

それでは、大竹さんは感覚に任せて、何も考えずに制作を続けているのでしょうか?それは、そうではありません。

「縦は存在。横は位置。斜めは距離。」

これはどういうことかと言えば、例えば風景画を描くときのことを考えてみてください。風景画の中で、縦に線が引かれるのは風景の中の木や建物を描くときでしょう。風景の中に、それらの「存在」を描きこむのです。そして風景がどのような広がりを持つのか、それは見上げるような風景なのか、見下ろすような風景なのか、その「位置」を決めるのは横方向の水平線です。そして斜め方向の線は、風景の中に存在するもの同士の距離感を表すことになります。

これらのことは、静物画のモチーフを設定するときのことを考えてもらった方が分かりやすいのかもしれません。あなたは机を置き、布をかけて瓶や果物を置いていきます。机の上に瓶を立てることで、そこに瓶という存在を置いたことを意識するでしょう。あなたは座って描くとのか、立って描くのか、机の横方向の線の位置を決めることで、静物画の位置のすべてが決まってくるでしょう。最後にあなたは瓶や果物の位置を調整します。まさか水平に横並びで静物を置く人はいないでしょう。斜め方向に距離を感じながら調整するのです。

大竹さんは画面上の「縦」、「横」、「斜め」の要素は、徐々に絵の内容を規定することになります。どんなに気まぐれに描いても、その事実から逃れることはできません。

「筆が自己否定しつづけ、空間が空間を壊すことによって、空間があらわれる。

同時にたくさんのことが進んでいき、ほかになくその通りでなければならないとともに違う可能性が同時にある。何か起こったことだけわかり、理性を保ったまま混乱する。」

このときの絵に対する態度が、大竹さんの独特のものです。何も考えず、あるいは感じることもできず、ただそのまま放置するのではなく、かといって体裁を整えるための修正をするわけでもありません。むしろその逆に、新しい世界を見るために、それまでの何かを壊さなければならない、だから「空間が空間を壊すことによって、空間があらわれる」と彼は言っているのです。それは思い通りに描く、というのとは違いますし、かといってつまらない作品になるのも困ります。そのために作品の中の空間に対して、ときに破壊的な行為をするわけですが、その結末を冷徹に見ることも大切です。だから「何か起こったことだけわかり、理性を保ったまま混乱する」という気持ちの持ち方がとても重要なのです。

 

このような大竹さんの制作過程を考えてみると、大竹さんがこのようなことを自然体でやってしまっていることに驚きます。例えば、この文章の中でも「因果関係と価値」とか、「すべては決まっているのかどうか」とか、「嘘を無理やり真実にする、なぜそんなことしたか、過去、現在、未来の会話」などという言葉が見られますが、これは人間の行為に対する偶然性の問題、あるいは意識に対する無意識の問題などを含んでいるのだろうと思います。

実は私ぐらいまでの世代の作家にとっては、どういうふうに自分の作品に偶然性を取り入れるのか、どのように無意識の領域を作品に取り込むのか、というのは切実な問題でした。それらの人智を超えたものが、作品の可能性を切り開くことはわかっているものの、その方法論となると意外と難しいのです。

偶然性をそのまま作品にしたのでは、とりあえずの驚きはあっても作品としては成立しません。あるいは、無意識のうちに制作しようとして、アルコールや薬物の力を借りても、それは一時的なものです。私は以前に、美術のことではなくて、音楽のことでそのことについて書いたことがあります。それはジョン・ケージ(John Milton Cage Jr.、1912 - 1992)と、細野晴臣(1947- )に関する文章です。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/b8caf7ec178316fc4acd61002482ad45

かなりの力作なので、ぜひお読みください。ケージさんと細野さん、それに美術に関することも絡めてこのような文章を書こうと思うのは、私ぐらいのものでしょう。ケージさんが偶然性を作品化するために「チャンス・オペレーション」という概念にこだわり、中国の「易」まで研究したわけですから、その努力は相当なものです。

あるいは、大竹さんがあまり意識せずに実践している制作方法は、オートマティックな方法であるとも言えます。そのオートマティズムを「プリベンション」という概念で理論化し、壮大な作品群を描いた人に宇佐美圭司(1940 – 2012)という人がいて、彼の書いた『絵画論』という著書に、大きな影響を受けたものです。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/015dbd364244af37a43540be5cc95012

これは、私の尊敬する高橋圀夫さんという作家の展覧会をきっかけに書いた文章ですが、これも力作です。宇佐美さんについてあまりご存知なかったら、ぜひお読みください。

このように、大竹さんが何気なく書いている制作に関する概念は、私たちの世代にとっては大きな問題でした。そしてケージさんや宇佐美さんのように、その才能と知力の限りを尽くした人たちがいて、私たちの世代はそういう先達をたくさん見てきたのです。

ところが21世紀まで長生きした結果、大竹さんのようにごく自然に、まだ若いうちから、ケージさんらが苦労して手に入れようとしていた作品観を持っている人に出会い、私は驚いたのです。だから多くの人に、大竹さんの作品を見ていただきたい、と願っています。

 

最後にもう一つだけ、付け加えて書いておきます。

大竹さんが、文章に書いていないことで私に話してくださったことがあります。それは彼が作品の内部から発するような光を意識している、ということです。絵画における光というのは外部から入ってくるもの、あるいは画面上に描かれるものであって、作品の内部から発するものではありません。その典型的な例を挙げておきます。カラヴァッジオ(Michelangelo Merisi da Caravaggio、1571 - 1610)の『聖マタイの召命』(1599 - 1600)です。

https://bijutsufan.com/baroque/pic-caravaggio/the-calling-of-st-matthew/

ところが、大竹さんが言うように、確かに作品の内部から光が発しているのではないか、と思える作品があります。それは例えばパウル・クレー(Paul Klee, 1879 - 1940)の作品ですが、とりわけ次の作品はいかがでしょうか?未完成だという話もあるようですが・・・。

https://www.meisterdrucke.jp/fine-art-prints/Paul-Klee/681492/%E7%84%A1%E9%A1%8C%EF%BC%88%E6%AD%BB%E3%81%AE%E5%A4%A9%E4%BD%BF%EF%BC%89.html

画面の外部からの光について言えば、カラヴァジオから印象派まで、かなりの蓄積があります。しかし、画面の内部からの光については、あまり意識していない人が多いのではないでしょうか?だからこそ、可能性があるのです。

実は私も、画面の内部からの光に絵画の可能性を感じて制作しています。

 

さらにもう一つだけ。

大竹さんの展覧会を見に行ったら、水彩画の美しさをよく見てください。小さな作品ですが、息を呑むほど美しい作品があります。大竹さんは「水彩画は勝手にキレイになる」と言っていましたが、そんなはずはありません。作品の構造的には、油絵のタブローと同じですが、作品が小さいことと水彩絵の具の性質が相まって、一気に仕上がる面白さがあります。そのせいか、大竹さんの色彩感がよりわかりやすく表れているようにも思えます。大竹さんは優れた色彩画家でもあります。これらの作品も、今後発展していくのでしょうか?

大竹さんは、自分にとって必然性のあることしかやらない人ですから、こちらの予想通りにはならないでしょう。それはそれで楽しみです。

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