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平らな深み、緩やかな時間

433.ミロに関する批評について

年度末から年度初めにかけては、仕事がとても忙しいです。「超多忙」といっても良いような状態です。昨日の土曜日も平日同様に、きっちりと働きました。

 

そんな中ですが、尊敬する作家の作品集や、私も参加する企画展のカタログに文章を書かせていただくことになり、何とか先月までに入稿しました。

それらが発行されたら、またご案内します。

この困難な時代に、作家として表現活動を続けている人たち、その表現を見てくださる鑑賞者の人たち、いずれの方々もそれだけで祝福されるべきだと、私は考えています。だからといって、甘い評価や忖度はしませんが、肯定すべきことはしっかりと肯定しなくては・・・、という思いで文章を綴っています。現在を生きている人たちの力に少しでもなれれば、と願っています。

 

また、私自身は6月の末から個展を開催します。東京・京橋のギャラリー檜での開催ですが、すでに案内状が出来ています。いずれ私のホームページに資料を掲載しますが、とりあえずギャラリー檜の公式サイトにアップされていますので、こちらをご覧ください。

 

https://hinoki.main.jp/img2025-6/exhibition.html

 

https://hinoki.main.jp/img2025-6/e-5.jpg



画像の大きさに制限があるので、ちょっと見づらいかもしれませんが、文字が読める程度には調整しています。ここで言葉を引用した作家は、多和田葉子さんです。ちょっと前にこのblogで学習した成果を、さっそく個展の案内状として使わせていただきました。興味のある方は次のblogをお読みください。

 

431.『パウル・ツェランと中国の天使』多和田葉子を読む

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/f897ac4eabad736801af2169da773665

 

多和田さんの文学をどのように私の表現に生かすのか、あるいは多和田さん以外にも力をもらった人たちがいるので、そんなことをいつもの小冊子の形でまとめられれば、と考えています。そんな時間があるのかどうか、今回は少々怪しいところですが、まあ何とかなるでしょう。

 

さて、そんな多忙な状態なので、見に行きたい展覧会にもなかなか出かけられません。そこで今回は、時間ができたら見に行くはずの展覧会の予習をしておきましょう。

 

気になっている展覧会はいくつもあるのですが、とりわけジョアン・ミロ(Joan Miró i Ferrà, 1893 - 1983)の大規模な展覧会が気になります。展覧会の公式サイトは次の通りです。

 

『ミロ展』

https://miro2025.exhibit.jp/

 

ミロのすべてがここに。

初期から晩年まで、空前の大回顧展!

1893年にスペイン、カタルーニャ州に生まれたジュアン・ミロ(1893~1983)は、同じスペイン出身のピカソと並び20世紀を代表する巨匠に数えられます。太陽や星、月など自然の中にある形を象徴的な記号に変えて描いた、詩情あふれる独特な画風は日本でも高い人気を誇ります。そんなミロの創作活動は、没後40年を迎えたいま、世界的に再評価されています。本展は、〈星座〉シリーズをはじめ、初期から晩年までの各時代を彩る絵画や陶芸、彫刻により、90歳まで新しい表現へ挑戦し続けたミロの芸術を包括的に紹介します。世界中から集った選りすぐりの傑作の数々により、ミロの芸術の真髄を体感できる空前の大回顧展です。

(『ミロ展』公式サイトより)

 

そこに書かれているように、「星座」シリーズがやはり見どころですね。それに公式サイトに図版が大きく掲載されている『オランダの室内Ⅰ』(1928)も見たいです。この絵は美術の教科書(副読本)に掲載されていたので、私がはじめて「ミロ」という画家を意識したきっかけになった作品です。さらに初期の『ヤシの木のある家』(1918)の細かな描写も、実物の作品を見てどれほど実感のある描写なのか、確認したいものです。

このように、ミロさんは巨匠と言われた人だけに、有名な作品がたくさんあります。その一方で「詩情あふれる独特な画風は日本でも高い人気を誇ります」と上記の説明にあるように、親しみやすさも魅力です。現代絵画というと、深刻な作品、理屈っぽい作品が多いのですが、ミロさんはそんなイメージからも自由です。

そのミロさんについて、公式サイトでは次のように説明しています。

 

1893年にバルセロナで生まれる。1920年代にシュルレアリスムの画家として名声を得るが、それに留まらずさまざまな表現を試みた。彼の作品には、周囲の政治的・社会的出来事への強い感受性と反骨精神が反映される。90歳で亡くなるまで、特定の運動に属することのない純粋で普遍的な芸術を追求し、20世紀で最も影響力のある芸術家の一人となった。

(『ミロ展』公式サイトより)

 

ここに書かれているように、「1920年代にシュルレアリスムの画家として名声を得るが、それに留まらずさまざまな表現を試みた」のがミロさんです。現代美術でミロさんについて語るときに、一応「シュルレアリスム」の画家として分類するのですが、そのイメージでくくれないのがミロさんなのです。

ちなみに「シュルレアリスム」とはどのようなものなのか、次の『美術手帖』の説明をご覧ください。

 

シュルレアリスム

Surrealism

 フランスの詩人アンドレ・ブルトンが、『シュルレアリスム宣言/溶ける魚』(1924年)において、理性や道徳による統制を外れた思考の書きとりの実践と定義した芸術運動。両大戦間の芸術運動としては最大規模を誇り、世界各地にその影響を及ぼした。当初は文学における思考やイメージのふいの到来という自動性(オートマティスム)を重視したシュルレアリストの実践は、次第にその領域を絵画や映画、写真、そしてオブジェへと拡張していく。視覚的なイメージを言語との類比によってとらえるマックス・エルンストやルネ・マグリット、キュビスムの徹底した刷新を目論むジュアン・ミロやアンドレ・マッソン、偏執狂的・批評的方法や象徴機能を持つオブジェといった現実解釈の新たな手段を見出したサルバドール・ダリなど、この運動にかかわった美術家たちの出自や表現の外見は、特定の技法や思想に収斂することなくじつに多様である。

https://bijutsutecho.com/artwiki/67

 

上の説明では「キュビスムの徹底した刷新を目論むジュアン・ミロやアンドレ・マッソン」と書かれていますが、分かりにくいですね。実はミロさんの作品には「オートマティスム」の要素もありますし、「偏執狂的」な「現実解釈」という要素もあるのです。

このように、ミロさんについては、その作品から親しみやすく、分かりやすい画家のような印象を持ちますが、彼についてちゃんと語ろうとすると、結構難しいのです。

こういうときに頼りになるのが美術史家で美術評論家の高階 秀爾(たかしな しゅうじ、1932 - 2024)さんの一般向けの概説書です。『近代絵画史(下)』でミロさんについて、高階さんは次のように書いています。

 

ピカソ、ダリと並んで20世紀スペイン絵画を代表する巨匠ホアン・ミロ(1893 - 1983)は、初期シュルレアリスム・グループの重要な仲間のひとりで、事実1924年の「シュルレアリスム宣言」にも名を連ねているし、ブルドンをはじめ多くのシュルレアリスムの詩人たちと親交があったが、しかし単純に彼をシュルレアリストと規定してしまうのは、いささかためらわれるようなものを持っている。それはひとつには、彼がほとんど完全に抽象画と呼んでもよいような作品を描いているからでもあるが、それ以上に、彼の芸術全体が、ひとつの美学、特にシュルレアリスムのようにかなり明確な方法意識にもとづく美学の枠を越えるような拡がりを持っているからである。

(『近代絵画史(下)』高階秀爾)

 

なるほど、ミロさんはシュルレアリスムと深くかかわったこと、そこから逸脱した画家であったことが、これでわかりました。しかし高階さんが書いている「彼の芸術全体が、ひとつの美学、特にシュルレアリスムのようにかなり明確な方法意識にもとづく美学の枠を越えるような拡がりを持っている」という点については、残念ながらこの概説書ではよくわかりません。

そこで、次に美術評論家の藤枝 晃雄(ふじえだ てるお、1936 - 2018)さんが書いた『絵画論の現在』の中の「ホワン・ミロ『世界の誕生』」を参照してみましょう。

この本を私はたびたび取り上げていますが、今では中古本でしか入手できないようです。しかしこの著書がまるごと『藤枝晃雄批評選集 モダニズム以後の芸術』に入っていますので、ぜひ入手して読んでみてください。藤枝さんは現在の美術について強烈な批判意識を持っていたので、つい「文句ばっかり言ってる人だなあ」と思っていしまいますが、この『絵画論の現在』では近代から現代の美術について濃密に語っていて、読みごたえがあります。(これも私は何回か書いていますね。)できれば、もっとこんな本を残してほしかったです。

それはともかく、その『世界の誕生』という作品を確認しておきましょう。

 

『世界の誕生』

Joan Miró

The Birth of the World/Montroig, late summer-fall 1925

https://www.moma.org/collection/works/79321

 

この作品について、あるいはミロさんについて、藤枝さんは次のように解説しています。

 

ミロは、オートマティスムの方法をふたつの段階に分けている。第一段階は、もっぱら自由で無意識的に描こうとすることから出発する。「私は描くことから始めるが、描いているうちに、絵画は自己主張し始める。あるいは私の絵筆のもとで自己暗示をなす。制作していると形体が女性とか鳥の記号となる」。

<中略>

1920年代の中頃、ミロはオートマティスムの実験を実施し、これによってイメージの発見、再発見を試みた。それはアンドレ・マソンの影響によるところが少なくないだろうし、先にあげた陳述もマソンの高名なオートマティスムの制作方法についての所見にきわめて類似している。しかし、ミロは、オートマティスムの第一段階がただちに作品になるのではないことを知っていたのであり、この段階の後、「入念に計算」されて描かれるべき第二段階を必要としたのである。『世界の誕生』(1925、タイトルはブルトンかポール・エリュアールの命名によるという)という作品は、そうしたオートマティスムのふたつの段階から制作された絵画の代表作のひとつである。

(『絵画論の現在』「ホワン・ミロ『世界の誕生』」藤枝晃雄)

 

このように書いた後で、藤枝さんはこの『世界の誕生』には原型となるデッサンがあることを指摘し、その図版とも比べながら2ページ以上にわたって詳細な作品分析を書いています。それは表面的な、あるいは形式的な作品批評ではなく、作品の制作過程をも推測して語るものです。この『絵画論の現在』を読むと、一般的な「フォーマリズム」批評に対する批判がこの人には当てはまらないことが分かるでしょう。そのはじめのところだけ、引用してみます。

 

ミロはカンヴァスに礬砂(どうさ)をわざと不規則に施し、そこに墨色がかった黒と濃いグレーズをかけた。この場合、上方はぬれた布きれで広げられ、その上に褐色が加えられている。黒は下方では、一見なるにまかせた細い幾本もの滴りの線条を生じているが、この箇所の一部に褐色が絵筆で軽くたたかれ、飛沫状の線が何本か斜めにつけられる。しかしながら、これらはまったくオートマティスムによって描かれているのではないだろう。画面はミロの他の明快な色面分割による作品ほどではないにしても、上方の三分の一は褐色が支配的であり、下方、三分の二は黒が支配的であり、不規則な区分がなされている。これは色彩の強さの関係に由来する配合である。

(『絵画論の現在』「ホワン・ミロ『世界の誕生』」藤枝晃雄)

 

この数行の文章から、ミロさんが絵の具の拡がりや滴り、飛沫などのオートマティスム的な手法を用いながら、それらを意図的にコントロールしていたことが分かります。これはオートマティスムの「自動記述」、「自動現象」といった理念からは逸脱していますが、ミロさんにとっては、それよりも良い絵を描くことの方が重要だったのでしょう。

ちなみに「オートマティスム」という概念について、徳島県立美術館の解説のリンクを貼っておきますので、よかったら参照してください。

 

https://art.bunmori.tokushima.jp/srch/srch_art_detail.php?pno=3&no=24

 

このように、ミロさんの芸術はシュルレアリストとしては不徹底であり、ゆえにシュルレアリスムの範疇では語り尽くせないのですが、そのことがミロさんに関する批評を難しくしているのかもしれません。

 

さて、それともう一つ、ミロさんの芸術への批評を難しくしている要素として、ミロさんの絵のイメージの親しみやすさがあると私は思っています。先ほども書いたように、現代美術の作品がやたらと難解であるのも問題ですが、その一方で一般受けするような甘いイメージがあると、そればかりの作品との見分けがつかなくて語りにくい、ということがあると思います。例えば日本のアニメのキャラクターに似せたイメージを大画面に描いたり、大きな張りぼてで作ったりした作品がもてはやされる現状がありますが、それらはそれ以外に何もない、空っぽの作品です。

ミロさんには、そういうところはないのでしょうか。藤枝さんの意見を聞いてみましょう。

 

ミロは「世界の誕生」以後、以前と同じように彼の欠陥である漫画的な、あまりに漫画的といい得るイメージを誇示する作品や、水平線や分割によってイメージをたやすく効果づける作品を描いた。しかし、1933年頃の絵画はそれから脱却しイメージと空間が絵画として説得力を有するものになっている。これに関して、オートマティスムは、背景の表面性をミロに示唆したにちがいない。そしてこの場合、ミロは主として彩度の高い色相の対比、そしてこれとむすびつく明度の諧調による重要な色彩表現を獲得したのである。オートマティスムは、イメージを湧出させる源泉であると同時に、イメージを抑制する役目をになっているが、これに気づくことは、作家如何による。

(『絵画論の現在』「ホワン・ミロ『世界の誕生』」藤枝晃雄)

 

この「彼の欠陥である漫画的な、あまりに漫画的といい得るイメージを誇示する作品」というのは、年代的に『オランダの室内』のシリーズも含まれているのでしょう。そして「1933年頃の絵画はそれから脱却しイメージと空間が絵画として説得力を有するものになっている」というのは、年代的に「星座」シリーズのあたりを指しているのでしょう。

うーん、そうでしょうか・・。私は晩年のミロさんの作品について、「漫画的といい得るイメージを誇示する」傾向があると感じますし、オートマティスム的な手法を安易に用い過ぎるとも感じます。しかし、若い頃のミロさんには、多少のイメージの甘さはあるかもしれませんが、それも作品の楽しみとして受け入れてよいような緊張感があると思っています。

以前にミロさんの作品を見た印象では、藤枝さんが書いている通り、確かに「星座」シリーズには何か特別なものを感じました。それは「イメージと空間が絵画として説得力を有するものになっている」ということだったのかもしれません。これも、今度の『ミロ展』で確認しておかなくてはなりません。

 

ちなみに、ミロさんと同様に親しみやすいイメージを持つ同時代の現代画家として、パウル・クレー(Paul Klee, 1879 - 1940)さんがいます。藤枝さんは、クレーさんについてもこの本の中で取り上げていて、クレーさんの絵の親しみやすいイメージについて次のように書いています。

 

たしかにクレーは、こうしたイラストレーションとしての絵を多く描いたし、その要素は後にA.R.ペンクからキース・へリングにいたって拡張する。あるいは詩人たちによるクレーに対する歯の浮くような讃美は、彼の素人性と適合している。しかしながら、クレーはただ素人とよばれるような絵のみ描いたのではない。「本道と間道」、「夕べの火」などの作品は、趣味を超越する趣味、すなわち趣味の至上性によってイラストレーションを免れている。また興味深いことに「黄色い鳥のいる風景」(1923)のように、具体的なイメージを有する作品では、逆に中心的な構造が稀薄になっている場合があり、あるイメージが突出することがない。この点で、ローゼンバーグは否定的だが、クレーの幾点かの絵画は重要な影響力をもったといわねばならない。

(『絵画論の現在』「パウル・クレー『夕べの火』」藤枝晃雄)

 

文中の ローゼンバーグ(Harold Rosenberg、1906 - 1978)さんはアメリカの文芸・美術批評家で、1952年に画期的な論文「アメリカのアクション・ペインター」を発表し、戦後におけるアメリカ美術の重要性を最初に主張した人です。彼はクレーさんのことを「クレーは絵画上の考えを素人に受け入れ易いイメージに変形した」と批判したのでした。その発言を受けて、藤枝さんはこの引用部分を書いたのです。

ここで藤枝さんが語っている事の後半部分、すなわち「具体的なイメージを有する作品では、逆に中心的な構造が稀薄になっている」という分析は、いかにも「フォーマリズム」批評家らしい意見だと思います。しかし、その前の「趣味を超越する趣味、すなわち趣味の至上性によってイラストレーションを免れている」という部分は、きわめて興味深い意見です。藤枝さんは、クレーさんを讃美する詩人たちに対して「歯の浮くような」という言葉で批判していますが、その一方で「趣味を超越する趣味」、「趣味の至上性」ということを認めているのです。

この「歯の浮くような讃美」と「趣味の至上性」との間には、どのような差異があるのでしょうか?もしも、藤枝さんがこのことを徹底的に考えていたのなら、フランスの哲学者、ガストン・バシュラール(Gaston Bachelard, 1884 - 1962)さんに繋がるようなイメージの詩学を語り得たのではないでしょうか。ミロさんにおいて「イメージと空間が絵画として説得力を有する」という分析、そしてクレーさんにおいて「趣味の至上性によってイラストレーションを免れている」という意見など、私には何となく分かるような気がします。甘いだけのイメージではなく、確かにイメージには絵画としての創造性を触発するものがあり、それは絵画の構造的な造形性と不可分なものだという認識が私にはあります。

これは、いつかじっくりと考えてみなくてはなりません。

 

さて、このミロさんの芸術の特徴であるイメージの問題について、藤枝さんはこのように分析しているのですが、もっとミロさんの出身地やその郷土に対する思いから考えて、次のような高階さんの解説が、一般的には分かりやすいのではないでしょうか。

 

彼は早くから、故郷のカタロニアの風景、大地、農場、さらには太陽、月、星などの自然の存在を好んで取り上げ、奔放な造形力を駆使しながら、自己の見出した自然の世界を、画面に翻訳していったのである。事実、彼の作品では、一見きわめて抽象的に見えるようなものにおいても、しばしば日月星辰(じつげんせいしん)や、あるいは女性、動物などを象徴する形が登場して来るが、ほとんど記号化されたそれらの形は、ミロにとって、自然とのつながりを保証してくれるものである。彼はいわば天成の自然詩人であって、ただその自然を歌うのに、誰のものでもない彼特有の造形言語を生み出したとも言えよう。

(『近代絵画史(下)』高階秀爾)

 

このことに関連して、私はミロさんの初期の絵画における細部表現、今回の展示で言えば『ヤシの木のある家』の描写に興味があると先に書きました。この偏執的な描写表現にシュルレアリスム的なものを感じるのです。そこに自らの意識下にあるものを無理やり可視化するような、そんなミロさんの「凄み」を感じるのです。実際の作品を見ないと何とも言えませんが、そのミロさんの異常性が彼の芸術性と結びついて、彼を「天成の自然詩人」としているのではないか、と私は推察するのです。その「凄み」とは裏腹に、ユーモアがあって作品が明るいところにミロさんの魅力があるのです。



話は飛びますが、この「イメージ」の力と絵画の造形性との関連性を考える時、これも未見ですが、いま同時に開催している『ヒルマ・アフ・クリント展』が何だかとても面白そうです。次のリンクをご覧ください。

 

『ヒルマ・アフ・クリント展』

https://www.momat.go.jp/exhibitions/561

 

こちらも見逃せませんね。

とにかく、展覧会を見ていないので何とも言えませんが、このイメージの問題はモダニズムの限界を越えて、直接現在へと繋がるような予感がします。

いずれその感想をここに書いてみたいと思います。

これらの展覧会を見るのは、いつになるのかわかりませんが、皆さんはどうか見逃さないようにしてください。

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