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平らな深み、緩やかな時間

436.『ねじまき鳥クロニクル』を沼野 充義の解説で読む

『ねじまき鳥クロニクル』は世界的な作家、村上春樹(1949 - )さんが1992年から1995年にかけて発表した長編小説です。三部構成になっていて、「第1部 泥棒かささぎ編」は1992年の終わりごろから雑誌で連載されたようです。その後、書き下ろしで「第2部 予言する鳥編」と「第3部 鳥刺し男編」が書かれました。もともとは「第2部 予言する鳥編」で完結する予定だったそうですが、少し時間をおいて「第3部 鳥刺し男編」が書き継がれたということです。

 

私は初期の村上春樹さんの小説に魅かれ、新刊が出ると必ず読んでいました。しかし、自分が就職し、家庭をもって読書時間が減ったことと、村上さんの小説が少しずつ変わっていったことで、次第に熱心に読まなくなってしまいました。それでも、この『ねじまき鳥クロニクル』が発表された時には、あまり時間を置かずに読んだはずです。

しかし、残念ながらその読後感はあまりよくなかった、というふうに記憶しています。村上さんの作品を読んで、そんなふうに感じた事がなかったので、私の中でそれが違和感となって残ったのです。もう30年ぐらい前のことになりますが・・・。

 

そのときの私は、この読後感の違いが村上作品の大きな転換点に関わっているとは思いませんでした。それが先月、「100分de名著」というテレビ番組を見て、私のこの本の印象が大きく変わりました。番組の初回に、講師の沼野さんがこの本について、「ここから村上作品は大きく変わった」という趣旨のことを言っていたのです。

これは、この番組の大きなテーマとなることなのですが、例えば番組の公式サイトを見ると、次のようなことが書いてあります。

 

村上作品についての評論を多数発表してきた沼野充義さんは、「ねじまき鳥クロニクル」が、現実からの離脱を主題とした初期作品から抜け出し、より深く現実へとコミットしていこうという強い姿勢を示そうとした、村上春樹の新しいステージを象徴する作品だといいます。そこには、異なる者同士の憎悪や対立など二極に引き裂かれがちな現代社会にあって、その矛盾を引き受け、乗り越えていくためのヒントが込められているというのです。その意味で、この作品は、村上春樹の作品が「世界文学」という大きな舞台へ羽ばたく岐路となった記念碑的な作品ともいえます。

https://www.nhk.jp/p/meicho/ts/XZGWLG117Y/blog/bl/p8kQkA4Pow/bp/pEjmGA4bNK/

 

私は、こんなふうにこの作品を読まなかったので、この解釈にはちょっと驚きました。それでそのことについて触れておこうと思い、今回『ねじまき鳥クロニクル』と、この本を解説した「100分de名著」を取り上げることにしました。

 

さて、今回の「100分de名著」の講師は、ロシア文学が専門の沼野充義(ぬまの みつよし、1954 - )さんです。

そういえば沼野さんの配偶者である恭子さんも、ロシア文学者ですね。以前に、やはり「100分de名著」が『戦争は女の顔をしていない』を取り上げたときに、恭子さんが講師を務めていました。私はそのときの番組について、このblogで取り上げました。

 

180.『戦争は女の顔をしていない』アレクシエーヴィッチと『Chatterbox展』

https://tairanahukami.hatenablog.com/entry/2021/08/28/103600




ちょっとだけ、寄り道をします。

『戦争は女の顔をしていない』は、2015年にノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ(Svetlana Alexievitch、1948 - )さんによるノンフィクションです。日本では翻訳の本とコミック版が出版されていて、ひところはだいぶ話題になりました。

アレクシエーヴィッチさんはベラルーシとウクライナ出身の両親を持ち、ロシア語で執筆する作家ですが、ロシアのウクライナ侵攻の際に批判的な行動を取ったため、ベラルーシには居られずにドイツへと出国しました。いま、彼女がどこで何をしているのか、私にはわかりません。今年になってからのアメリカのひどい迷走ぶりを見て、彼女はどんなことを思っているのでしょうか?

 

話が横道にそれました。

沼野充義さんの村上文学とのかかわり、そして私の村上文学の読み方についても、少しだけ触れておきましょう。

沼野充義さんは、村上さんよりも5歳ほど年少で、村上さんがデビューしたときには、それまでの日本文学にはなかった小説だ、ということで衝撃を受けたそうです。

私はさらに5歳ほど年少なので、もう少し無邪気に「なんかオシャレな小説だなあ」と思いました。村上さんの小説のほとんどが都市で生活する若者が主人公で、バーでお酒を飲んでいても、自宅でスパゲッティを作っていても、どこかアメリカ的なパサパサとした感触があったのです。

後に、村上さんが当時の最新のアメリカの小説の影響を受けていたことを知りました。村上さん自身が翻訳しているミニマル文学の作家、レイモンド・カーヴァー(Raymond Clevie Carver Jr.、1938 - 1988)さんや、散文詩のような文章を綴るリチャード・ブローティガン(Richard Brautigan、1935 - 1984)さんなどが、村上文学の土台になっているような気がします。

ちなみに、このミニマルな文学の存在を知ったとき、美術におけるミニマル・アートを文学に置き換えるとこういう小説になるのか、と感心したものでした。そして、その後のアメリカ文学がジョン・アーヴィング(John Winslow Irving、1942 - )さんやポール・オースター(Paul Auster、1947 - 2024)さんらの活躍によって、新たな物語性を獲得していったことに興味を持ちました。そして村上さんも、『羊をめぐる冒険』あたりから、メタファーに満ちた新しい物語を書くようになったのです。

さらにちなみに、これらの文学における動向が、美術におけるポストモダンと時代的には並行していたのですが、芸術の質としてはかなりの落差があったと思います。1980年代の文学の活況に比べると、美術の状況はいかにも表面的、商業的で、文学の世界がうらやましく見えたものです。

そして私から見ると、村上文学の大きな転換点と言えば、この初期における物語性の獲得だと思います。彼の小説には現実離れした寓意性があり、その構造が旧套的な物語とは一線を画しているように思ったのです。ですから大ヒットした『ノルウェイの森』は、その意味でちょっと後退した作品のように思えました。

ところが沼野さんによれば、先ほども公式サイトで見たように、この『ねじまき鳥クロニクル』こそ、「初期村上から中期村上への転機となった長編である」(「NHK100分DE名著 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』」沼野充義)ということなのです。

このことについて、沼野さんがどう語っているのか、詳しい内容を確認しておきましょう。

 

それまでの村上作品は、多くの場合、作者自身を連想させる30歳前後の独身男性や子どものいない若いカップルが、都会でファッショナブルな生活をしている都市小説で、現代日本の風俗の表層をすべっていくようなところがありました。それに対し『ねじまき鳥クロニクル』は、初めて本格的に、現代日本の奥底—たとえば満州や外モンゴルでの戦争、あるいはそこに秘められた巨大な悪や暴力—につながっていることを示した小説です。村上自身の言葉で言うところの「デタッチメントからコミットメントへ」という変化が、この作品ではっきりと示されています。

(「NHK100分DE名著 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』」沼野充義)

 

「デタッチメントからコミットメントへ」という、有名ですけど、ちょっと難しい言葉が出てきました。ネット上の辞書で引いてみましょう。

 

デタッチメント【detachment】 の解説

《原義は、分離の意》かかわりがないこと。超然とした態度。また、無関心。「作品の傾向が—からコミットメントに転換する」

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88/

 

コミットメント【commitment】 の解説

1 約束。誓約。公約。確約。「近隣諸国との—を守る」

2 かかわり。かかわりあい。関与。介入。「政治への—の意思を明確にする」

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88/

 

確かに、村上さんのこれまでの作品では、主人公は「超然とした態度」あるいは「無関心」を装って、物語の世界にかかわらないように、はじめのうちはふるまいます。しかし、「やれやれ」なんて言いながら、結局、事件に巻き込まれ、何らかの解決を試みるのです。

一方、『ねじまき鳥クロニクル』の主人公の岡田トオルは、決然と行動します。配偶者であり、失踪者であるクミコを連れ戻そうと、自ら暗い井戸の底に降り、そこから謎の壁を抜けて不思議な暗闇の世界へと入っていくのです。そこでクミコらしき女性と会いますが、そこで何者かがドアをノックして、その暗闇の部屋に侵入しようとします。

明らかに危険な状況ですが、そこで岡田トオルはクミコにはっきりと、次のように告げるのです。

 

そのとき、ドアにノックの音が聞こえた。壁に釘を打ち込むような硬い、乾いたノックだった。二回。それからまた二回。前のときと同じノックだった。女が息を呑んだ。

「逃げて」、はっきりとしたクミコの声が僕に言った。「今ならまだあなたは壁を抜けることができる」

僕の考えていることが本当に正しいかどうか、僕にはわからない。でもこの場所にいる僕はそれに勝たなくてはならない。これは僕にとっての戦争なのだ。

「今度はどこにも逃げないよ」と僕はクミコに言った。「僕は君を連れて帰る」

僕はグラスを下に置き、毛糸の帽子を頭にかぶり、脚にはさんでいたバットを手に取った。そしてゆっくりとドアに向かった。

(『ねじまき鳥クロニクル』「第3部 鳥刺し男編」村上春樹)

 

このように『ねじまき鳥クロニクル』の主人公は、自ら決然と危険な状況に身を置き、失踪したクミコを取り戻そうとするのです。

この点で、これまでの村上春樹さんの作品と『ねじまき鳥クロニクル』では、主人公の態度が異なるのです。それを頭に入れて、この物語のあらすじを見てみましょう。


先ほどのNHKの「100分de名著」のサイトから抜粋します。


「僕」こと岡田トオルがクミコと結婚して6年後、大切にしてきた飼い猫が突然失踪する。猫の捜索をきっかけにトオルは次々に奇妙な人物たちと出会う。過去の事件にトラウマを持つ女子高生・笠原メイ、特殊能力を持つ加納マルタとその妹クレタ、国際紛争の地ノモンハンでの悲惨な体験を語る間宮中尉……。

トオルが失業して3か月がたったある朝、クミコは雑誌編集の職場に出かけたきり、失踪した。トオルはクミコを探し始めるが、近隣の空き家にある井戸の底での不思議な出来事など様々な事件を通じて、いかに自分がクミコのことを何一つ知らないかを思い知らされていく。そんな中、クミコから届いた手紙には「もう探さないでほしい」と書かれていた。

クミコを取り戻すカギが近隣の空き家の井戸にあると考えたトオルは、埋め戻された井戸を取り戻すべく、街で出会った赤坂ナツメグとその息子シナモンに援助を頼む。クミコ捜索を阻んでいるのが彼女の兄である綿谷ノボルであることに気づく。やがて綿谷から連絡が入り、パソコン通信でクミコと会話することを許される。だが彼女の心には深い闇が存在し、それが二人の間を阻んでいることが明らかになる。

戦場で悲惨な体験をした間宮中尉から再び手紙が届く。戦地でこの上ない悪に出会ったとの告白が書かれたその手紙は、根源的な悪が歴史を通じて存在することを証し立てていた。悪の正体を突き止めるべく再び井戸に潜るトオル。彼は壁を抜けて異界へ侵入するが、そこでは既に綿谷ノボルが何者かにバットで殴られて重体に。逃げ込んだホテルの一室には、闇にとらわれた謎の女性がいた。その女性にバットを手渡されたトオルは、襲い来るおぞましき者を打ちのめす。


もう少し、こまかく内容を知りたい方は、直接次のリンクを確認してください。

もちろん、原書を読むのが一番ですけど・・・。


https://www.nhk.jp/p/meicho/ts/XZGWLG117Y/blog/bl/p8kQkA4Pow/bp/pEjmGA4bNK/

 

このあらすじを読んだだけでも、「悪」と「暴力」の存在が目につくのではないでしょうか。

この小説は、さまざまな人物が登場し、それぞれの物語を語るのですが、とりわけ間宮中尉の「国際紛争の地ノモンハンでの悲惨な体験」や、「戦地でこの上ない悪に出会ったとの告白」は、胸が悪くなるような話です。

さらに主人公のトオル自身が「襲い来るおぞましき者を打ちのめす」のですから、これでは暴力の肯定のように読めてしまいます。

私が、この本の読後感が良くなかった、と感じたのは、これほどの残酷な描写が必要なのか、ということと、暴力が悪を打ちのめしたかのように読むこともできる、という二点によるものだったと思います。

しかし、この私の単純な読み方に対して、沼野さんは次のように解説しています。

 

岡田トオルは綿谷ノボルからクミコを救おうとした。しかし、悪と闘うには同じ悪に染まらないと闘えなかった。そうなると、どちらが本当に正しいのかわからなくなる―。ここでいささか唐突かもしれませんが、ドイツの哲学者ニーチェの言葉を引きたいと思います。ニーチェは『善悪の彼岸』で「怪物と戦う者は、自分もそのため怪物とならないように用心するがよい。そして君が長く深淵を覗き込むならば、深遠もまた君を覗き込む」(木場深定訳、岩波文庫)と言っています。じつは村上はデビュー作『風の歌を聴け』でもニーチェを重要な箇所で参照しており、もともとニーチェの著作にも親しんでいたものと思われます。

(「NHK100分DE名著 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』」沼野充義)

 

このように、単純に善と悪が見分けられないことや、この世界にはそんなに簡単な解決方法が存在するわけではないことをこの作品は語っているのだと、沼野さんは解釈します。

沼野さんは続けて問いかけます。

「岡田トオルが綿谷ノボルを倒すことは何を意味するのでしょうか」、「善とは、そして悪とは何なのでしょうか」と、答えが書かれていない問いを問いかけるのです。

そして、最後に次のような解釈を告げて、この講義を終えています。

 

世界はまだまだ謎に満ちている。結局、『ねじまき鳥クロニクル』は最後まで閉じない小説なのです。

(「NHK100分DE名著 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』」沼野充義)

 

うーん、この本を読んだときは、こんなふうには思えませんでした。

この本が書かれた30年前は、まだ東日本大震災もなく、新型コロナウイルス感染も、ロシアのウクライナ侵攻も、イスラエルのガザ攻撃もありませんでした。阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件はちょうどこの頃ですが、おそらくこの本が書かれた後に起こったものだと思います。つまり、世界は今ほど悲惨な状況ではなく、正義が悪に染まるほどの絶望も私には感じられなかったのだと思います。

しかし、沼野さんの解説を読むと、これは複雑で悲惨な未来を予言した小説なのかもしれない、という気がしてきます。優れた芸術は、ときにそんな奇跡を起こします。現実は複雑に入り組み、現在の正しいことは次の瞬間にはそうでなくなります。今から30年前に、村上さんはそんな現実を予見していたのかもしれません。

 

思い出してみてください。

東日本大震災のときに、私たちは災害に対する備えがどれほど大切かを学び、原子力の取り扱いには慎重であるべきだと思い知ったのではないでしょうか。それが今では、老朽化した原発を次々と稼働しようとしています。

新型コロナウイルスの感染の時に、私たちのコミュニケーションの方法の多様性に気づき、満員電車に押し込められてオフィスや学校に通う生活の異常さに気づいたのではないでしょうか。それが今では、淡々と、そして一律に煩雑な日常を取り戻しています。

そして人間の多様性、さまざまな立場の人たちの人権に配慮する方向に向かっていたはずの世界は、この数年のうちに独裁者による偏狭で残虐な政治によって、すべてが後戻りしようとしています。

このような世界において、今や私たちは傍観しているわけにはいきません。

「デタッチメントからコミットメントへ」というメッセージを、村上さんはすでに30年前に私たちに送っていたわけですが、私のような迂闊な人間は、今になってそのメッセージの価値に気がつくのです。

 

さて、このような物語の解釈を教示されると、私たちは村上春樹さんの小説を読み直さないわけにはいきません。

正直に言うと、『ねじまき鳥クロニクル』もうろ覚えで、今回、これを書くにあたって、慌てて図書館から本を借り出して、パラパラとページをめくった次第です。『騎士団長殺し』など、まだ読んでいない本もあります。さっそく、連休中に読んでみることにします。

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