goo blog サービス終了のお知らせ 

平らな深み、緩やかな時間

435.『ギンガムチェックと塩漬けライム』からジョイスとウルフを学ぶ

鴻巣 友季子(こうのす ゆきこ、1963 - )さんは翻訳家、エッセイストで文芸評論家としても活躍されている方です。彼女が『ギンガムチェックと塩漬けライム— 翻訳家が読み解く海外文学の名作—』という本を出版しました。この本はNHKラジオテキスト「ラジオ英会話」の連載「名著への招待」(2021年度~2024年度)を加筆修正してまとめたものだそうです。

NHK出版の本の紹介を読んでみましょう。

 

小説の読み解き方がわかる。知ってるつもりだったあの名作の、新たな顔が見えてくる!

『嵐が丘』は、相続制度と法律知識を駆使した「不動産小説」だった?

アトウッドの『侍女の物語』は現代アメリカがモデル?

不朽の青春小説『ライ麦畑でつかまえて』は、太宰の『人間失格』に似ている?

これからのポストヒューマン時代に必読の作家、カズオ・イシグロー

当代一の翻訳家・文芸評論家である著者が、誰もが知る名著を全く新しい切り口で解説し、小説のあじわい方を指南する大人向けブックガイド。

あの名作の知られざる“顔”が見えてくる!

 

誰もが一度はふれたことのある古典的名著から、今こそ読むべき現代作家の“問題作”まで。

著者の翻訳家としての歩みのなかで、思い出深い作品、折にふれて読み返す、大切な名著たちをここに紹介。

翻訳者ならではの原文(英語)の読み解きや、作品理解の深まる英語トリビアがちりばめられていますので、翻訳家志望の方や、英語学習者も楽しめます。

https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000819872025.html?srsltid=AfmBOor9WhpImnuVLQ-9l5PAM6uA7TLFHztw7Wam3NQGyIqtE1oO2tYX

 

今回は、この本の中から次の本を取り上げます。

 

第一章 青春の輝き 

モダニズム文学の文体七変化『若い芸術家の肖像』ジェイムズ・ジョイス

 

第五章 強く生きる女性たち 

小説の語りを一変させた名作『灯台へ』ヴァージニア・ウルフ

 

なぜ、この2冊を取り上げるのかと言えば、ジョイスさんとウルフさんは、いずれも「意識の流れ」( Stream of consciousness)というモダニズム文学の手法を駆使した作家たちで、私は以前から彼らの文学と、この手法に興味を持っていたからです。しかし、私の力量では、彼らについて、そして「意識の流れ」についてうまく説明することができません。今回、鴻巣さんの『ギンガムチェックと塩漬けライム』を読むと、この2冊について、とてもうまく解説をしていて、しかも「意識の流れ」に焦点を当てているのです。そこで今回は、鴻巣さんの解説を参照しながら、モダニズム文学の手法である「意識の流れ」について学習してみたいと思います。

 

さて、その前にジョイスさんとウルフさんについて、簡単に触れておきましょう。

ジェイムズ・ジョイス(James Augustine Aloysius Joyce、1882 – 1941)さんは、20世紀の最も重要な作家の1人と評価されるアイルランド出身の小説家、詩人です。フランスのマルセル・プルースト(Valentin Louis Georges Eugène Marcel Proust, 1871 - 1922)さんと並び称される大作家ですね。ジョイスさんの代表作は『ユリシーズ』(1922)ですが、これがプルーストさんの『失われた時を求めて』とともに、20世紀を代表する小説だと評価されているのです。ジョイスさんには、他にも短編集『ダブリン市民』(1914)、『若き芸術家の肖像』(1916)、『フィネガンズ・ウェイク』(1939)などの有名な作品があります。

一方のヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf、1882 - 1941)さんは、イギリスの小説家、評論家で、20世紀モダニズム文学の主要な作家の一人として知られた人です。いま気がついたことですが、ジョイスさんとウルフさんは生没年が両方とも同じですね。ウルフさんは姉のヴァネッサ・ベル(Vanessa Bell, 1879 - 1961)さんらとブルームズベリー・グループという芸術家、学者のグループを結成し、そのグループには画家で評論家のロジャー・フライ(Roger Eliot Fry, 1866 - 1934)さんも含まれています。日本ではセザンヌの評論で知られた人です。このグループもたいへん興味深いので、そのうちに勉強してblogで取り上げることにしましょう。ヴァージニア・ウルフさんの最も有名な小説は『ダロウェイ夫人』(1925)だと思いますが、他にも『灯台へ』(1927)、『オーランドー』(1928)、『波』(1931)などがよく知られています。

 

ちなみに、『ギンガムチェックと塩漬けライム』の中では、ジョイスさんとウルフさんについて、それぞれの紹介の中に次のような文章があります。

 

『ユリシーズ』『フィネガンズウェイク』など言語の極北を追究する実験作を持つ、二十世紀の巨匠。

(「第一章 青春の輝き 

モダニズム文学の文体七変化『若い芸術家の肖像』ジェイムズ・ジョイス」鴻巣友季子)

 

プルーストやジョイスと並び、内面描出や意識の流れを重視した心理主義を追究し、モダニズム文学の旗手として評価される。フェミニズム文学の先駆者とされる。

(「第五章 強く生きる女性たち 

小説の語りを一変させた名作『灯台へ』ヴァージニア・ウルフ」鴻巣友季子)

 

それでは、ジョイスさんにおいて「言語の極北」と書かれ、ウルフさんにおいて「内面描出や意識の流れ」と書かれている「意識の流れ」( Stream of consciousness)という手法は、どのようなものでしょうか?とりあえず「意識の流れ」を辞書で調べてみましょう。

 

いしき‐の‐ながれ【意識の流れ】

《stream of consciousness》米国の心理学者W=ジェームズの用語で、とどまることなく絶えず流動していく人間の意識の動きのこと。文学上では、人間心理を解明する新しい鍵として、20世紀初頭の作家ジョイス・ウルフ・プルーストらの描写の対象となった。

https://kotobank.jp/word/%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AE%E6%B5%81%E3%82%8C-30527

 

「意識の流れ」は、もともと心理学者の用語だったのですが、それが人間心理を解明する鍵として文学に応用されたのです。しかし、人間の心理を描写する表現なら、ジョイスさんやウルフさんの前の文学にもあったはずです。鴻巣さんも「人物の心理を追うだけなら、19世紀の作家チャールズ・ディケンズの小説などにもありますよね」と書いています。

では、「意識の流れ」という手法は、どのような手法、表現だったのでしょうか。鴻巣さんは、その特徴を二つに分けて解説しています。まず、その一つ目を見てみましょう。

 

 たとえば、『ユリシーズ』の第十三章「ナウシカア」を見てみましょう。こんな文章があります。

「そしておれはリップ・ヴァン・ウィンクルの帰還を演じた。(・・・)バッ。何が飛びまわってるんだろう?燕?蝙蝠だろう。(・・・)どこに棲んでるんだろう。あの向うの鐘楼。(・・・)ミサは終わったらしい。(・・・)繰り返すほど効果がある。広告もだよ。当店でお求めを。(・・・)トム印刷所に勤めてたころ評価額の間違いがあったっけ。(・・・)バッ。まただ」

 話し口調で書かれていますね?「意識の流れ」の特徴の一つは、このようなモノローグ文体を用いることです(「内的独白」といいます)。地の文にこういう話し口調が直に混じってくるのは、この頃にはまだ前衛的な技法だったのです。

 昔ながらの心理描写はどうかというと、語り手が人物の心の中を覗いて、「彼はこのとき、このように思った。それで、とても落ち込んだのだ」という風に「説明」しました。しかし「意識の流れ」では、人物が思うこと、感じることをそのまま「提示」します。だから、「彼は・・・と思った」という間接話法ではなく、「燕?蝙蝠だろう」という直接話法になるんですね。

(「第一章 青春の輝き 

モダニズム文学の文体七変化『若い芸術家の肖像』ジェイムズ・ジョイス」鴻巣友季子)

 

とてもわかりやすい説明ですね。補足することは何もありません。

強いて言えば、この地の文と主人公の心理とが入り混じっている手法のゆえに、ジョイスさんの文章は読みにくく、客観的な状況が把握しにくい、ということが言えると思います。しかし、それでもこの手法を用いるだけの理由が、ジョイスさんやウルフさんの中にはあったのだと思いますが、そのことについては後で触れることにします。

さらにジョイスさんの文章が読みにくいのは、これだけではありません。鴻巣さんは、「意識の流れ」の二つ目の特徴について、次に説明しています。

 

「意識の流れ」の特徴の二つめは、かんたんに言うと、話があちこち飛ぶことです。上記の例でも、一つの理路を追うのではなく、見えたもの聞こえたものがばらばらに飛び込んできますね。これも当時は実験的な手法でした。

 もともと小説というのは「中略のアート」なのです。どういうことかというと、スカーレット・オハラが獄中のレッド・バトラーに会いに行く前に、トイレに寄ったとしても、たいていその部分はあえて省略して書かれます。あるいは、赤毛のアンがある先生の嫌いな点をあげつらう場面なら、そのトピックに集中します。「あの先生は話し方がこわいから、授業にでたくないのよ」という風に。

 けれど、現実には人間の意識というのは、もっと雑多なものをとり込んでいるはずです。アンを意識の流れ風にしゃべらせるとすれば、こんな感じになるでしょう。「あの先生は話し方がこわいのよ、あっ、蝙蝠が飛んでる、だから授業に出たくないんだけど、あら、教会の鐘が鳴りだしたから、ミサが終わったのね」

 意識というのはこうしてそぞろ歩くものなのです。

(「第一章 青春の輝き 

モダニズム文学の文体七変化『若い芸術家の肖像』ジェイムズ・ジョイス」鴻巣友季子)

 

鴻巣さんが書いている通り、現実の私たちの意識がひとつのことに集中する、それも持続的に集中する、というのはかなり難しいことです。例えば集中的に作業をしたり、勉強をしたりしようとしても、誰かから声をかけられたり、気が散ってしまって思い通りにならなかったり、ということがあります。

しかし、小説などに書かれた人物は、物語の流れに沿って、矛盾なく行動していきます。それが読者にとって読みやすく、わかりやすいからです。そのために作者は第三者の視点、あるいは神の視点をとりながら、ときに登場人物の心理に立ち入って必要な心理描写を語らせるのです。あるいは一人称で語られる小説、つまり「わたし」や「ぼく」の視点で書かれた小説もありますが、それにしてもジョイスさんの描く人物のように、言い淀んだり、視線がうろうろとさ迷ったりはしないものです。ですから「意識というのはこうしてそぞろ歩くもの」だという認識にのっとった表現は、「意識の流れ」という手法に特徴的なものなのです。

この「意識の流れ」という手法は、このような登場人物のモノローグ文体、つまり「内的独白」以外にも、さまざまな方法をとることがあります。

例えば『灯台へ』の中でヴァージニア・ウルフさんは、ある人物の内面を描出したかと思うと、別な人物のなかに移動して、その人の目と声で語る、その描写が区切りなく繋がっていく、というテクニカルな手法を駆使しています。鴻巣さんはその例として次のような文章を引用しています。

 

ラムジー夫人はそう思いながらドアに目をやり、するとその瞬間、ミンタ・ドイルとポール・レイリーと、大皿を捧げ持った女中が、一緒になって入ってきた。(・・・)「あたし、ブローチなくしてしまったんです(・・・)」ミンタがそう言って隣の席に座ってくると、男気を発揮したラムジー氏は愛想よく彼女をひやかしてやった。

おやおや、どうしてまたそんなドジな真似をしたのかね。

(ミンタは)教授に笑われたとたん、怖くなんかなくなった。(・・・)よーし、今夜は来てる、ばっちりだ。(・・・)

なるほど、どうやら事は起きたようね。ラムジー夫人は思った。あのふたりは婚約を交わしたんだわ

(「第五章 強く生きる女性たち 

小説の語りを一変させた名作『灯台へ』ヴァージニア・ウルフ」鴻巣友季子)

 

これは、映画の一場面のようですね。

ラムジー夫人のアップから、その視線を追うようにドアが映し出されて、にぎやかに三人の人物が入ってきます。その中のミンタに焦点が合うと「ブローチをなくした」と言って彼女はラムジー氏の隣に座ります。その後はラムジー氏、ミンタ、ラムジー夫人、とカメラが動き、その都度彼らはセリフを言ったり、内的独白を語ったりします。

このようにカメラがテンポよく動くような文章はそれまでになかったでしょうし、現代の小説としても説明不足で、やや読みにくく、不親切な文章のようにも思えます。しかし、それを差し引いても、このテンポの良さが重要なのです。例えば最後のふたつの文章を次のように説明すると、どうでしょうか。

 

その様子を見ていたラムジー夫人は思った。

「なるほど、どうやら事は起きたようね。」

彼女は心の中で、そうつぶやいた。

そして次のように思ったのだった。

「あのふたりは婚約を交わしたんだわ」

 

これでは、ちょっとシラけませんか?

文学作品は、ていねいに説明すれば良いというものではありません。作家の多和田葉子さんの文章をここで取り上げたときにも書きましたが、ときにごつごつと言葉の存在感を感じ取ることも大切なのです。場合によっては、何回か読み返して、やっと内容が理解できる、そして作品の良さがわかる、ということだってあるでしょう。私にとって、ジョイスさんやウルフさん、そしてプルーストさんはまさにそういう作家でした。

この例に続いて、鴻巣さんはウルフさんがイメージの断片を積み重ねてその場の状況を描写する例を取り上げています。その部分を読んでみましょう。

 

その後、ラムジー家の別荘がどんなふうに変化していったかを、誰とも知れぬ語り手が詩的に描写していきます。ちょっと引用します。

「鳥の消えゆく鳴き声や、低く鳴る船の汽笛、野に響く蜜蜂たちの羽音、犬の吠え声、人の叫び声。それらはこの虚ろな部屋で、今週もまた来週も、どんどん静寂のマントのなかに編みいれられ、沈黙する家のまわりに折り重ねられる」

 こうしてひとつのものを具体的に描写するのではなく、イメージの断片を重ねていくのです。

(「第五章 強く生きる女性たち 

小説の語りを一変させた名作『灯台へ』ヴァージニア・ウルフ」鴻巣友季子)

 

この鴻巣さんの引用した部分は、かつての生き生きとした人の気配のあった屋敷が、現在ではいかに静寂に満ちた空間になってしまったのか、を語ったとても美しい描写です。鴻巣さんは「詩的に描写」と書いていますが、まさに散文詩のような文章です。これを読むと、「意識の流れ」という手法の効用がよくわかると思います。

 

ところで、この「意識の流れ」という手法が20世紀のはじめに試みられたことを考えると、私たちはその時代の美術はどうであったのか、と考えてみたくなります。文学と美術は深く関連していますが、私の知る限り、美術運動において「意識の流れ」と称するものはなかったと思います。

しかし、例えばパブロ・ピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881 - 1973)さんとジョイスさん、ウルフさんは、たったの一歳違いの同年代です。当然のことながら、ピカソさんのキュビズムの運動とジョイスさんらの活動は同じ時期のものです。

そして『若き芸術家の肖像』(1916)と『灯台へ』(1927)が書かれた1910年代から20年代は、シュルレアリスム運動が盛り上がった時期であり、また、ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky、1866 - 1944)さんが抽象絵画を描きはじめ、その後バウハウスで教官を務めたころでもあります。

この頃の芸術は、社会的な通念や人間的な理性によって覆い隠された人間の存在の根幹を追究するような気運があったと思います。それは近代科学の「要素還元主義」的な考え方、さらにジークムント・フロイト(Sigmund Freud、1856 - 1939)さんの精神分析学、チャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin 、1809 - 1882)さんの進化論などの影響を受けたもので、よりシンプルなもの、プリミティブなもの、根源的なものを探究するという方向性を持っていたのだと思います。

そう考えると、「意識の流れ」の手法も、整然と物語を紡ぐ小説の作法を乗り越えて、生(なま)の人間心理に近づこうとする意志を持っていたことで、モダニズムの芸術運動の一角を担っていたのだと思います。そこには、ただたんに目新しい手法を試してみた、というのではなく、人間存在の普遍的なものに触れようとする意志があったのです。

 

ここまでわかってくると、「意識の流れ」という文学運動は、美術好きな方にとっても興味深いものになってくると思います。鴻巣さんの『ギンガムチェックと塩漬けライム』は、そのことに少し触れただけですが、ここに引用したように解説がわかりやすく、とりあえず入口としてはうってつけではないでしょうか。

それに、ここでは紹介できませんでしたが、『若い芸術家の肖像』も、『灯台へ』も、ジョイスさん、ウルフさんの小説のなかでも比較的読みやすく、また物語としても秀逸なのです。鴻巣さんは、その魅力について存分に書いていますので、興味のある方は『ギンガムチェックと塩漬けライム』を読んでから、それぞれの本に向かうと良いと思います。それらの本は、比較的読みやすいとはいえ、やはり鴻巣さんの解説を読んでから読んだほうがよいと思います。

 

さて、この本には、他にも魅力的な本の紹介がたくさんあるので、また別に取り上げたい本があれば書いてみたいと思います。

しつこいようですが、ジョイス、ウルフ、プルーストさんたちの本は、芸術に興味がある方ならば、読んでおいたほうが良いと思います。ちなみに、私の大好きな画家ピエール・ボナール(Pierre Bonnard, 1867 - 1947)さんの愛読書は、プルーストさんの『失われた時を求めて』だったそうです。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「日記」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事