平らな深み、緩やかな時間

276.國分功一郎『スピノザ』③と現代絵画の可能性、宮塚春美展

まず、お知らせです。

12月17日(土)まで東京・京橋のギャラリー檜で『宮塚春美展』が開催されています。

http://hinoki.main.jp/img2022-12/f-3.jpg

宮塚さんはキャリアも実績も十分にあり、アメリカでも勉強されたということですが、展覧会場では私のような者にも気さくにお話をしてくださいました。宮塚さんに関する資料は次のリンクから見ることができますので、興味のある方はギャラリーに足を運んでみてください。。

https://jsbachbwv.wixsite.com/miyatsuka-harumi/information

宮塚さんの作品は、アメリカのカラーフィールド・ペインティングを彷彿とさせるものです。現在の状況で、抽象的な絵画をこころざしながらキャリアを積んだ画家であれば、洋の東西を問わずアメリカの抽象表現主義の絵画からミニマルアートまでの流れを意識しないわけにはいかないでしょう。

アメリカの絵画は、一見すると大画面で奔放な表現を楽しんでいるように見えますが、実は平面性への指向性の中で、極めて狭い領域での表現を強いられていると私は考えています。いわゆる「フォーマリズム」と呼ばれる現代絵画の傾向です。

日本の画家の中には、あえて「フォーマリズム」絵画の限定された条件の中で、表現の差異を競っている優秀な人たちがいます。画面から数ミリしかないような奥行きの中で、構成的に見えないような微妙な色彩の変化に腐心している画家や、大きな画面上で、さらに手前に突出するような色彩表現を駆使してバーネット・ニューマン(Barnett Newman、1905 - 1970)ばりの「崇高さ」を演出する画家などを見かけることが多々あります。もともと技術のある人たちですから、目的さえ定まっていれば質の高い絵を描くことができるというわけで、そういう方が美術大学で職を得ているというのも、ある意味では当然でしょう。

しかし、本当にそれで良いのでしょうか?私には、ニューマンの崇高さを表現した絵画や、ヘレン・フランケンサーラー(Helen Frankenthaler, 1928 - 2011)の美しい画面を見た後で、さらにそこに付け加えることがあるのかどうか、疑問に思えてなりません。例えば海の向こうでは、ブライス・マーデン(Brice Marden)というミニマルアートの画家として優れた実績を残した人が、その表現を捨てて新たな方法を試みています。私は彼の本物の作品をそれほど見ていないので、その良し悪しを判断できませんが、彼の気持ちについてならばわかる気がします。

今回拝見した宮塚さんは、明らかにカラーフィールド・ペインティングの影響下にありながら、例えば溶き油をたっぷり使った絵の具と、吸水性のある下地を掛け合わせるなどして、独自の表現を試みています。また、全体としては画面の平面性を指向しながら、あえて奥行きを誘発するような色彩表現を試みた作品も展示されていました。このように探究する要素が多いほど、展覧会としてはまとまりを欠いたものになりますが、宮塚さんはあえてそのリスクを選択しています。つまり、自分の表現の揺れをそのまま展示することを選んだのです。

見る人によっては、展示としての統一した見栄えを大切に思う方もいらっしゃるのかもしれませんが、私は宮塚さんのような作品の見せ方を支持します。重要なことは、宮塚さんが作品を通じて何かをつかみたいと思っていることですから、多少の欠点が見えたとしても自分の表現の核心を可視化することに重きを置くべきでしょう。問題なのは、そういう作家の試みを評価する適切な言葉を、今の評論が持ち得ていないということです。

ちょっと大袈裟な言い方に聞こえるかもしれませんが、これは美術評論全体の問題として、アメリカの現代絵画以降、その動向を更新するような作家の営みに対して、その核心に迫るような批評の言葉、あるいはその営みを牽引するような批評の言葉が不足しているのではないでしょうか?そしてさらに話を大きくすると、これは近代以降の芸術や哲学、思想の問題でもあって、例えば日本の若い学者の中でも前回まで著作を読んできた國分功一郎さんをはじめ、『人新世の「資本論」』で大きな話題になった斎藤幸平さんや『現代思想入門』が現在も話題の千葉雅也さん、「身体論」を身近な介護の問題などを通して研究している伊藤亜紗さんなど、現代思想の革新、もしくは更新を試みている動向が至るところで見られます。私は専門書を読むほどの教養がないので、一般書として出版されている範囲でしかこれらの動向を追うことができませんが、それにしても以下のようなblogで彼らのことを追いかけています。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/c692631a49e5a9881aa41b1717c7e409

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/154614497f15db3772fb904a3a1b14af

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/8f0cd919dcea13ce56408a0b98106ed9

これ以外にも、たぶん数十本の関連するblogを上げていますので、お暇なときに参照していただけるとうれしいです。そして興味がある著作があったら、ぜひとも原本にあたってみてください。

 

さて、それでは、宮塚さんの作品に刺激を受けながら、前回までの勉強を続けていきたいと思います。

私が書いたように、もしも今、現代思想や評論の転換、更新が必要であるとしたら、これは小手先のものであってはいけません。目先の帳尻合わせをした結果、堂々巡りで終わってしまう、ということもありがちなことです。現在においては、根本的な思想や考え方の変更が求められているのです。この数回のblogで学んできたスピノザ(Baruch De Spinoza 、1632 - 1677)の場合には、頭の中で起動しているOSを変えるような、そんな思考の転換を求める思想らしい、ということがわかりました。このことの重要性について、あるいはその困難度について、ここでもう一度確認しておきましょう。

このblogでは、このところ連続して國分功一郎さんが岩波新書として出版した『スピノザ 読む人の肖像』を参照して勉強してきました。しかし彼は、その前にもNHKのテレビ番組『100分DE名著』でもスピノザを取り上げ、それを本として出しています。私は以前に、その本を取り上げました。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/59200a3c5c113d48b1674c8912f69c79

実は國分さんにはもう一冊、一般向けの新書としてスピノザを取り上げた本がありました。それは講談社新書から出版された『はじめてのスピノザ』です。この講談社新書は『100分DE名著』の内容をすこし補うような形になっています。その講談社新書の『はじめてのスピノザ』と『100分DE名著』の冒頭部分に、國分さんは次のような趣旨のことを書いています。実はこれは前々回のblogでも引用したものです。しかし、先程も書いたように、これは重要なことだと思うので、再び引用してみます。

 

私はスピノザ哲学を講じる際、学生に向けて、よくこんなたとえ話をします。

ーたくさんの哲学者がいて、たくさんの哲学がある。それらをそれぞれ、スマホやパソコンのアプリ(アプリケーション)として考えることができる。ある哲学を勉強して理解すれば、すなわち、そのアプリはあなたたちの頭の中に入れれば、それが動いていろいろなことを教えてくれる。ところが、スピノザ哲学の場合はそうならない。なぜかというと、スピノザの場合、OS(オペレーション・システム)が違うからだ。頭の中でスピノザ哲学を作動させるためには、思考のOS自体を入れ替えなければならない・・・。

「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」と言う時、私が思い描いているのは、このような、アプリの違いではない、OSの違いです。スピノザを理解するには、考えを変えるのではなくて、考え方を変える必要があるのです。

(『100分DE名著「エチカ」スピノザ』國分功一郎)

 

このOSの違い、というのはどれほどの相違なのでしょうか。國分さんは、この説明の前に次のようなことを書いています。

 

現代へとつながる制度や学問がおよそ出揃い、ある一定の方向性が選択されたのが17世紀なのです。

スピノザはそのように転換点となった世紀を生きた哲学者です。

ただ、彼はほかの哲学者たちと少し違っています。スピノザは近代哲学の成果を十分に吸収しつつも、その後近代が向かっていった方向とはべつの方向を向きながら思索しているからです。

やや象徴的に、スピノザの哲学は「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」を示す哲学である、と言うことができます。

(『はじめてのスピノザ』國分功一郎)

 

上の文章の中の「もうひとつの近代」というのは、どのようなものでしょうか?もうおわかりだと思いますが、今回はそのことについて考えていきたいのです。そして「もうひとつの近代」について考えるなら、現実に実現している「近代」について知っておく必要があります。現実の「近代」がどんなもので、それが私たちの興味の対象である美術や絵画とどう繋がっているのか、ざっくりと説明してみます。

 

まずは「近代」の思想についての話です。

近代以降の思想を語る際に、そのおおもとになっていると考えられているのが、フランスの哲学者デカルト(René Descartes、1596 - 1650)です。スピノザよりも40歳ぐらい年長の学者になりますが、なぜデカルトが近代思想の基礎になると考えられているのでしょうか?

それは彼が、学問において確実な基礎を打ち立てようとしたからです。デカルトは、疑わしいものをすべて疑ってみる、ということを試みた人でした。そして世界におけるすべての物の存在を疑わしいと考えましたが、そのように考えて疑っている自分自身の存在は疑うことができない、という結論にいたりました。これが「われ思う、故にわれ在り(あり)」(コギト・エルゴ・スムcogito ergo sum、ラテン語)という、デカルトの根本原理です。その根本原理の徹底性の故に、デカルトは近代の礎とされたのです。

そして、ものすごく大雑把な話になりますが、このデカルトからカント(Immanuel Kant 、1724 - 1804)、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770 - 1831)という二人の哲学者を経て、現代思想へとつながる一本のラインを引くことができます。そのカントには『判断力批判』、ヘーゲルには『美学講義』という美術に関わる重要な著作、講義録がありますが、私がこの二人の名前を挙げたのには、それ以外にも理由があります。

そのカントですが、アメリカの現代美術の評論家グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)は、彼の主要論文である『モダニズムの絵画』の中で、「私はカントを最初の真のモダニストだと考えている」と告げた上で、カントの批判的な哲学を引き継いでいく姿勢を見せています。

また、ヘーゲルは『美学講義』のなかで「芸術の終焉」ということについて語っているのですが、その概念がアーサー・コールマン・ダントー(Arthur Coleman Danto, 1924 - 2013)によって現代美術の文脈に置き換えられ、美術評論の世界に大きな影響を与えました。

私はグリーンバーグやダントーの言っていることに賛同はしませんが、このようなことからデカルト、カント、ヘーゲルは現代美術においてとくに重要な思想家である、という一筋の線を引くことができる、と考えたのです。そして、このグリーンバーグとダントーの言っていることが、現代代美術の批評において、とても厄介な問題となりました。これもごく大雑把に説明しておきましょう。

まずはカントに影響を受けたグリーンバーグですが、彼は先ほども触れた主要論文の中で、絵画表現の特質について、その「平面性だけが、その芸術にとって独自なものである」と強調しました。その結果として「モダニズムの絵画は、他には何もしなかったと言えるほど平面性とむかったのである」と書いています。その論理的な展開は、カントの批判哲学の手法によるものです。このグリーンバーグの主張によって、その後の絵画は完全な平面に、つまりミニマル・アートの絵画へと突き進みました。グリーンバーグは「モダニズムの絵画が自己の立場を見定めた平面性とは、決して全くの平面になることではあり得ない」とも書いていますが、現実には平坦な色面で画面を覆う絵画が、一時期主流となりました。

またダントーがヘーゲルから受け継いだ「芸術の終焉」論ですが、その言葉のショッキングな意味合いが誇張されて、現代美術の世界に厭世的な気分をもたらしました。それがポストモダニズムの思想と相まって、それまで蓄積された知性や技術を放棄した作品の流行に一役買った面があったのです。

これらの結果、現在の私たちはまったく平らに絵の具で画面を塗るか、芸術は終わった、とつぶやいて描くことをやめるか、極端なことをいえばそのいずれかしか選択肢がない状態に置かれています。このような状況で、誰が真剣に絵を描いたり、絵について語ったりしたいと思うでしょうか?

この私の話は大雑把で、ちょっと大げさだとあなたは思われるでしょう。大雑把であることは認めますが、大げさな話ではありません。現在では一見すると、いろんな絵が世の中に溢れているように見えます。しかしそれらをよく見ると、アメリカ抽象表現主義からミニマルアートの絵画へと至る過渡期の絵画の焼き直しであるか、あるいはポストモダンの時期のニューペインティングとか、トランスアヴァンギャルトなどと呼ばれた傾向をさらに商業主義のもとで大衆化したものであるか、いずれかのタイプに収まってしまうものが多数を占めています。

私たちは、そんな現在の現代美術の文脈を超えて、今でも生き生きと絵を描くことができる道を探らなくてはなりません。

というふうに書くと、何か困難なことのように思われますが、実はそうでもありません。実際にそれを実践している画家たちがたくさんいるからです。そのうちの私の視野に入る人たちについて、このblogでも随時取り上げています。ただ、彼らは既成の現代美術の文脈を超えていますから、美術評論家は彼らを語る言葉を持っていませんし、そのせいかジャーナリズムに取り上げられることも少ないのです。これは先程書いたとおりですが、これは批評の怠慢です。なぜかといえば、これも先程書いたとおり、美術批評の世界から一歩出て、広く哲学や思想の世界を眺めると、現在のモダニズムの行き詰まりを克服する意欲に溢れた試みが、次々となされているからです。説明が長くなって申し訳なかったのですが、國分功一郎さんがスピノザを取り上げて「もうひとつの近代」と言っているのは、まさにその試みなのです。行き詰まってしまった現在のモダニズム社会にとって、「もうひとつの近代」があり得たとしたら、あるいはこれからあり得るとしたら、これはとても興味深い話ではありませんか?

 

それでは、スピノザが指し示す「もうひとつの近代」から、現代芸術はどんな可能性を見出せるのでしょうか?そんな思いを抱きながら、『スピノザ 読む人の肖像』や、その他の國分功一郎さんの著作を見ていきましょう。

まず、スピノザは、当時は最新の思想であったであろうデカルトについて、『デカルトの哲学原理』という本を1663年に書いていて、そこでデカルトの思想を批判的に検討しています。その内容について國分功一郎さんは順序立てて説明しているのですが、ここでその詳細を書くことはできません。しかし、デカルトの疑いようのない「コギト」のどこをスピノザは批判したのか、ということについて端的に書いておきましょう。

スピノザは「我思う故に我在り」というデカルトの思想は、「私は存在する」ということを前提にしてしまっている、と考えたのだそうです。たとえば「考えるためには存在しなければならない」とか「考えるものは存在する」ということが、問いを発する前から前提とされているというのです。これでは根本的に問うことにならない、とスピノザは考えて、さまざまな翻案を試みています。

ちなみに、スピノザのこのような徹底した「読む」態度に感銘を受けて、國分功一郎さんは「読む人の肖像」というタイトルをつけたようです。

ここで、デカルトに対してスピノザが考えたことを、國分功一郎さんが『100分DE名著』の中でわかりやすく解説していますので、ちょっと長くなりますがその部分を引用しておきます。

 

「私は考えている、だから私は存在している」を口先では疑うことができます。しかし、「私は考えている。考えているならば、その考えている私は存在しているということではないか」と言われれば反論できない。デカルトの考える真理は、その真理を使って人を説得し、ある意味では反論を封じ込めることができる、そういう機能をそなえた真理なのです。

それに対してスピノザの方はどうでしょうか。スピノザの考える真理は他人を説得するようなものではありません。そこでは真理と真理に向き合う人の関係だけが問題になっています。だから真理が真理自身の規範であると言われるのです。いわば、真理に向き合えば、真理が真理であることは分かるというわけです。スピノザの真理観を伝えるもう一つの定理を見てみましょう。

 

真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。(第2部定理43)

 

ここでターゲットになっているのはおそらくデカルトであろうと思います。デカルトはどんなに真であると思える観念であろうとも、それを疑わざるをえませんでした。

<中略>

デカルトは誰をも説得することができる公的な真理を重んじました。実際にはそこで目指されていたのはデカルト本人を説得することであったわけですが。それに対してスピノザの場合は、自分と真理の関係だけが問題とされています。自分がどうやって真理に触れ、どうやってそれを獲得し、どうやってその真理自身から真理性を告げ知らされるか、それを問題にしているのです。だから自分が獲得した真理で人を説得するとか反論を封じるとか、そういうことは全く気にしないわけです。

(『100扮DE名著 スピノザ』國分功一郎)

 

このように読んでいくと、近代思想の「真理」に対する考え方が、他人の批判を封じることに重きを置いていることがわかります。反論を許さないことによって、自分のほうがより「真理」に近い、という言い方なのですが、考えてみると私たちは自然とそんなものの見方をしているのではないでしょうか?

そこでまっさきに思い浮かぶのが、先程も例示したグリーンバーグの「絵画の平面性」を強調した言い方です。絵画が平面であることは誰もが否定できない、他の芸術表現との違いを考えたときに絵画は平面であることがその特徴であると誰もがわかるだろう、だからこそ現代の絵画は平面性へと向かったのだ、という言い方になるのです。しかし、よく考えてみるとこれはかなり変な理屈です。

そもそも私たちは「絵画の平面性」を求めて絵を描く、なんてことがあるでしょうか?私たちは絵を描くことが楽しいから絵を描きます。楽しい、というのはもちろん、「面白おかしい」という意味ではなくて、そこに興味深いなにかがあるから絵を描くのです。そこで私ならばこう言います。「ただの平面上に、私たちは奥行きや広がりを見出してしまう、その不思議さと無限の可能性に魅了されたがゆえに、私たちは絵を描く」、こんな感じでいかがでしょうか?それは厳密な平面でなくても、まったく構いません。絵画を見ることの面白さ、興味深さがあればそれでよいのです。ちなみにグリーンバーグは、『モダニズムの絵画』の中で次のようなことも書いています。

 

絵画平面における感性の高まりは、彫刻的なイリュージョンもトロンプ・ルイユももはや許容しないかもしれないが、視覚的なイリュージョンは許容するし許容しなければならない。表面につけられる最初の一筆がその物理的な平面性を破壊するのであり、モンドリアンの形状も依然としてある種の三次元のイリュージョンを示唆している。ただ今にして見れば、それは厳密に絵画としての、つまり厳密に視覚的な三次元性なのである。古大家たちは、人がその中へと入っていく自分自身を想像し得るような空間のイリュージョンを作り出したが、一方モダニストが作り出すイリュージョンは、人がその中を覗き見ることしかできない、つまり、眼によってのみ通過することができるような空間のイリュージョンなのである。

(『グリーンバーグ批評選集』「モダニズムの絵画」グリーンバーグ、藤枝・川田共訳)

 

このグリーンバーグの文章に比べると、私の文章は厳密さに欠けると言われるかもしれません。それはそのとおりです。

しかし、それが問題でしょうか?

もちろん、私の話はこの説明だけで尽くされるものではありません。スピノザが「自分がどうやって真理に触れ、どうやってそれを獲得し、どうやってその真理自身から真理性を告げ知らされるか」を問題としたのように、私は私が描く一枚一枚の絵、同様に私が感動した一つ一つの作品について、私がどのようにその作品の核心に触れ、そこからどのような感動を受けたのか、じっくりと語らなくてはならないでしょう。「これは平面的ではない」などということで、門前払いをすることはいっさいありません。

もしもデカルトのコギトではなく、スピノザの思想を基礎として現代絵画を論じた時、私のような方法がひとつの可能性としてあるのではないでしょうか?

グリーンバーグは絵画について批判的に語り、フォーマリズムの視点からモダニズムの絵画が許容するものについて語りました。しかし、そこには画家がどんな絵を描きたいと思ったのか、その作品を鑑賞することにどのような喜びがあるのか、ということについては、禁欲的にしか語っていないように思います。しかしどうやら、スピノザの思想はそもそも視点が違っているようです。

だいぶ長くなりました。それではスピノザ的にはどのような批評が可能なのか、次回以降で考えてみましょう。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「日記」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事