今日、出勤途中に捨て猫を見つけました。
ダンボールの中に餌と一緒に入っているという、まさに基本の形の捨て猫で、黒と灰色の縞模様の子猫です。
僕が見つけたときには既にもう弱っている状態で、呼吸は荒く、目は開いたままで焦点があっていません。素人目に見ても、瀕死の状態でした。
僕は出勤中だったのだけど、このまま放っておいて仕事に行けるほど、人間として強くありません。
というわけで、まずは何とかして子猫ちゃんに元気になってもらわねばと、近くのスーパーにて牛乳を購入し、ストローを使って口に流し込みました。ところが、子猫のほうには牛乳を飲む力も残っていないようで、虚しく流れるだけでした。
こうなると、もはや僕には、頭や首を優しく撫でてやることしかできません。
このまま放置することだけはしたくなかったので、まずは近くにある市の出張所のようなところで相談をしてみました。
その結論としては、ゴミとして扱うことになり、市の収集課というところに連絡をして、引き取りにきてもらうという結論でした。
まだ生きているのに。
とても悲しくなり、できる限りのことはしてあげようと心に決めて、近くに動物病院がないかと聞くと、意外と歩いて1.2分のところにあることを教えてもらえました。
その足でそのまま動物病院に向かったのですが、ちょうどお昼の休憩時間。電話をかけても留守番電話になってしまって繋がらない状態です。
とにかく、そのまま動物病院の前に立っていても事態は改善しないわけで、子猫のところに戻りました。
子猫は、死んでいました。
ちょっと前までは呼吸の度に大きく上下していたお腹が少しも動いてなく、目は開いたままでした。
僕は市の出張所で教えてもらった収集課に電話をかけ、事情を話し、引き取りにきてもらうようにお願いして、会社に向かいました。
僕はひねくれた人間です。
牛や豚は平気で食べるのに、子猫の死には心を痛めるなんておかしいという気持ちもあります。
でも、僕はとても悲しかったんです。
心の底から悲しく、胸が痛みました。
世の中は矛盾に満ち溢れていて、僕自身も矛盾の塊です。どうして見ず知らずの子猫の死が、こんなにも僕の胸を苦しくさせるのか、説明することができません。
でも、それが僕という人間なのです。
説明する理由なんてありません。
僕は牛も豚も食べるけど、子猫には死んでほしくないと思う人間なのです。
ペットは人間の心を癒すための道具です。心があって、魂があっても、それを人は道具として使います。
だからこそ、最後まで責任を持つべきです。
あの場所に子猫を捨てた人は、「きっと誰かが拾ってくれて、幸せに生きていくんだろう」などと、淡い幻想を抱いて、自分の心を痛めることはないでしょう。
ダンボールの中にはバスタオルがひかれいました。缶詰のエサも置いてありました。
猫が嫌いなのではないのだけど、どうしても飼うことができなくて、誰かに拾ってもらうことを願って、子猫を捨てたのでしょう。
ですが実際には、子猫は死にました。
薄汚れたダンボールの中で、すぐそばを走る電車の騒音の中で、誰にも見取られることなく、子猫は死にました。
子猫を捨てた人は、その事実を知るべきです。
どうしても飼うことができないのであれば、自分の手で殺すなり、保健所なりに持っていって処分してもらうなり、最後まで責任を持つべきです。
そして、自分が子猫を殺したんだという事実を受け止めるべきです。
僕が子猫を撫でたときに、少しでも子猫に意識があって、少しでも僕の温もりを感じていてくれたらと願います。
自分が死んだことで、こうして心を痛めている人間がいるということが、子猫に伝わることを願います。
理由を説明することなんてできないけど、僕は子猫の死が無性に悲しいのです。
子猫を殺しておいて、その事実すら知らない人間がたまらなく憎いのです。
ダンボールの中に餌と一緒に入っているという、まさに基本の形の捨て猫で、黒と灰色の縞模様の子猫です。
僕が見つけたときには既にもう弱っている状態で、呼吸は荒く、目は開いたままで焦点があっていません。素人目に見ても、瀕死の状態でした。
僕は出勤中だったのだけど、このまま放っておいて仕事に行けるほど、人間として強くありません。
というわけで、まずは何とかして子猫ちゃんに元気になってもらわねばと、近くのスーパーにて牛乳を購入し、ストローを使って口に流し込みました。ところが、子猫のほうには牛乳を飲む力も残っていないようで、虚しく流れるだけでした。
こうなると、もはや僕には、頭や首を優しく撫でてやることしかできません。
このまま放置することだけはしたくなかったので、まずは近くにある市の出張所のようなところで相談をしてみました。
その結論としては、ゴミとして扱うことになり、市の収集課というところに連絡をして、引き取りにきてもらうという結論でした。
まだ生きているのに。
とても悲しくなり、できる限りのことはしてあげようと心に決めて、近くに動物病院がないかと聞くと、意外と歩いて1.2分のところにあることを教えてもらえました。
その足でそのまま動物病院に向かったのですが、ちょうどお昼の休憩時間。電話をかけても留守番電話になってしまって繋がらない状態です。
とにかく、そのまま動物病院の前に立っていても事態は改善しないわけで、子猫のところに戻りました。
子猫は、死んでいました。
ちょっと前までは呼吸の度に大きく上下していたお腹が少しも動いてなく、目は開いたままでした。
僕は市の出張所で教えてもらった収集課に電話をかけ、事情を話し、引き取りにきてもらうようにお願いして、会社に向かいました。
僕はひねくれた人間です。
牛や豚は平気で食べるのに、子猫の死には心を痛めるなんておかしいという気持ちもあります。
でも、僕はとても悲しかったんです。
心の底から悲しく、胸が痛みました。
世の中は矛盾に満ち溢れていて、僕自身も矛盾の塊です。どうして見ず知らずの子猫の死が、こんなにも僕の胸を苦しくさせるのか、説明することができません。
でも、それが僕という人間なのです。
説明する理由なんてありません。
僕は牛も豚も食べるけど、子猫には死んでほしくないと思う人間なのです。
ペットは人間の心を癒すための道具です。心があって、魂があっても、それを人は道具として使います。
だからこそ、最後まで責任を持つべきです。
あの場所に子猫を捨てた人は、「きっと誰かが拾ってくれて、幸せに生きていくんだろう」などと、淡い幻想を抱いて、自分の心を痛めることはないでしょう。
ダンボールの中にはバスタオルがひかれいました。缶詰のエサも置いてありました。
猫が嫌いなのではないのだけど、どうしても飼うことができなくて、誰かに拾ってもらうことを願って、子猫を捨てたのでしょう。
ですが実際には、子猫は死にました。
薄汚れたダンボールの中で、すぐそばを走る電車の騒音の中で、誰にも見取られることなく、子猫は死にました。
子猫を捨てた人は、その事実を知るべきです。
どうしても飼うことができないのであれば、自分の手で殺すなり、保健所なりに持っていって処分してもらうなり、最後まで責任を持つべきです。
そして、自分が子猫を殺したんだという事実を受け止めるべきです。
僕が子猫を撫でたときに、少しでも子猫に意識があって、少しでも僕の温もりを感じていてくれたらと願います。
自分が死んだことで、こうして心を痛めている人間がいるということが、子猫に伝わることを願います。
理由を説明することなんてできないけど、僕は子猫の死が無性に悲しいのです。
子猫を殺しておいて、その事実すら知らない人間がたまらなく憎いのです。