ヤンディーズ

現在闘病中で「病んでいる」ボーカル&ギタリスト、「太郎」の独り言

東京12チャンネル時代の国際プロレス

2022年10月28日 | プロレス

かなり前に購入したこの本。
アメリカで権威の有る賞のライター部門殿堂入りした
国際プロレス愛が強い流智美氏の本です。
他の国際プロレス本と悩みましたが
まだまだ関東ローカル局の東京12チャンネル「現テレビ東京」時代に
スポットを当てた本です。TBSから放送打切られ
早稲田大学同窓生の12チャンネル運動部長と吉原社長の
太い絆から放送開始(昭和49年~)まだまだ地方局の
12チャンネルが、局としてはかなりの放映料、制作予算を捻出し
放送されるも、厳しい現状に苦悩する田中ディレクターのメモと
国際愛から、気がつけば大学時代、社会人前半と国際プロレスの
お手伝いをする事になった著者の経験と考察、現場の声、
その他を元に構成されています。
興味深く、視力が悪化する勢いで読み、改めて読み直し
それでも相当、内容が濃い。私には結構ショックな現実が書かれておりました。

私が特に感じたのは人情厚い吉原社長のやり方、強い持論が
国際を崩壊へと導いた…そう思える経営、というより
思想だったのだなぁ…と。かなり厳しいですね。
最終的にはエースのラッシャー木村、前エースのストロング小林を守らなかった、と感じました。
勿論、営業本部長取締役のグレート草津のパワハラとマッチメイクも。
草津の悪評は日プロ入門前から既に語られ国際内部でも草津への批判は多い。
しかし、会社の為、社長の為と頑張った選手や社員は吉原社長のやり方では報われないだろうと。
TBS時代とは違い、草津のパワハラ苛めで孤立した小林が
国際の代表タイトルIWA世界王者のまま退団、そして
アントニオ猪木と日本人エース対決で破れた事は国際崩壊への
致命的且つ、序章。

歴史的な一戦、そして名勝負でしたね。
名勝負だからこそ、猪木に破れた代償は破滅的。
馬場、猪木と張れるスター選手が居なかった国際ですが
選手の質は決して他団体に劣らない。レベルは後の
FMWから広まったインディープロレスのレベルとは
天と地の差。グレート東郷のアメリカ路線、切替えたヨーロッパ路線、
高額なAWA路線とビッグネームが多かった外国人招聘路線から
ギャラは抑えられラフに強いカナダ路線へシフトしインディー化へ。
吉原社長が持っていた持論が「結果より内容!」これが団体と
12チャンネルスタッフを苦しめ、全日本プロレスとの対抗戦で
エース木村が馬場に2連敗、オープンタッグトーナメントも木村、草津と
トップ2が出場するも、馬場の策士ぶりに国際側は術中にハマり
「結果より内容持論」の吉原社長は、それでヨシとしまった。
今の時代では通用しても当時は「勝負」「結果」が第一。
こういう交渉に応じてしまった事。12チャンネルは血の涙を流して観ただろうと。
そして関東ローカルであった国際の立場の弱さに対して吉原社長は傲慢になってしまった。
ディレクターが必死に説得するも意に介さない吉原社長。
後で正式入団するメキシコ帰りのマッハ隼人は田中ディレクターに良くてし貰ったと
そんな田中氏に吉原社長、選手達は威張るんです、と語っていたり。
身の丈に合った運営、日テレ、テレ朝とは当然劣るものの
身の丈以上の予算を出し番組製作した12チャンネル、身の丈に合った経営をするも
日テレ、テレ朝が大きな影響力を持つ事で団体内で権力をある程度渡した新日、全日と違い
地方局、それでも大きな予算を出し続けた12チャンネルに対し
慢心、いや勘違いしてしまった社長。
「予算は出せ、けど経営や運営に口を出すな」これでは傲慢を超え視聴が微妙なテレビ局からすると
放送商品価値が無くなってしまう。それでも崩壊一年前まで諦めなかった田中ディレクター。

団体対抗戦に味を占めてしまい、小林、剛竜馬と
大きな戦力を引き抜いて行った新日本と対抗戦
そして、新日本から派遣されて中堅レスラー、
そして事実上、お祓い箱のジョニーパワーズに
やられてしまった木村。

(パワーズに「ヤレ!」と新間氏から司令が行ってたかも)
ただでさえ新日本のエゲツなさに拒否反応を持つのに
下の木村vsパワーズ、悲しい程パワーズにヤラれてしまっている。



以前記事にしたM井上、A浜口vs永源、木村健悟のIWA世界タッグは
新日本2人に本当にヤラれてしまった。浜口は失神、骨折の3ヶ月欠場ですからね。
トータルで新日勢に完璧にやられてしまいました。

国際ではトップ選手達が
全日本、新日本中堅選手達とタイトルマッチですしね。
海外タイトルなら体面上ダブルタイトルマッチで体面上通じても
世界タッグ王座がインタータッグでは無くアジアタッグのダブルタイトルマッチですからね、
国際の立ち居地は証明され、ファンも離れて行く。
売出し中でキャリア2年の阿修羅原を新日本の次期エース
藤波辰巳に当ててしまったのも痛い。コレが無ければ
原の将来のポジションは違ったでしょうね…。何せラグビー世界選抜の大スターでしたしね。
ただ、スケールが違うとは云えジプシージョーという掘出し物が有った事
米マットでトップ選手のバーン・ガニア、ニックボックウインクル、
スーパースタービリー・グラハム、モンゴリアン・ストンパーという
超大物選手を招聘した事は大きいですね。
しかし、ガニアとストンパーの使い方は間違えたというか…。
大金を払い招聘したのに。
そして、因縁の無い選手同士が闘う金網デスマッチ連発も痛い。
後のインディーで有刺鉄線でもえげつなかったのに今は
ガラス、蛍光灯、画鋲、ブロック、串ですもんね。
(今のデスマッチは夢が有る)

かなり厳しかった現状を改めて知りました。
大きな選手は少なくともレベルは高い。
国際の試合は今観ても面白い。クオリティーも高い。
しかし対抗戦の結果、特に吉原社長のモルモット状態と称された
木村の敗退は大きい。結局、選手の守り方の方針が違ったというか。

私個人、経営トップに立った事など無いので興行会社としての苦労は図り知れない。しかし、後の全日本、新日本での元国際勢の立ち位置はかなり厳しい。

国際から話しはズレますが、70年代には米マットが衰退へ。
超トップ選手以外は家族を食わせるのに精一杯。
華やかな外国人選手を呼んでいた全日本プロレスは外国人選手からすると
絶好の稼ぎ場。全日本プロレスの経営も苦しく馬場は社長から退く状態へ。
それも有り、あの衝撃的なスタンハンセンの全日本登場となったのかしら。
あの頃、日本のプロレス3団体は華やかに観えて、実はどこも
経営状態が厳しかった事も意外でした。

結果的に時代の先を行き過ぎた国際プロレス。
ヨーロッパマットの華やかさを手本に日本マットにいち早く
入場テーマ曲を持ち込みました。
上の木村、ジョニー・パワーズ戦。
ラッシャー木村がデオダードの「ツァラトゥストラはかく語き」
又はグレート草津のジェフ・ベック「レッドブーツ」は
イメージが…合わないなぁ…かなり。
オリジナル曲は阿修羅原だけだったのかしら?

内容は厳しい実情でしたがとても面白く生で国際プロレスを
味わえなかった世代としては物凄く興味深く
内容の濃い「東京12チャンネル時代の国際プロレス」でした。

凄く面白かったです。哀愁の国際プロレス…。


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2 コメント

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国際プロレス哀歌Ⅱ(?)…。 (凸椪)
2022-10-29 19:17:37
日プロの元営業部長だった吉原功氏が遠藤幸吉取締役との確執から国際プロレスリングを創立したと聞きました。ただヒロ・マツダをエースとして立ち上げた当初から、ノーTVだったこともあり興業は苦戦を強いられ、同様に豊登により起業された旧・東京プロレスとの合同興行となった途端に、A猪木が日プロに復帰した挙句に東プロの残党を引き取らされるという悲運に見舞われたようです。その後経営上の行き違いもあってエースのマツダが離脱。TBSが放映権を得たのちも、僅か3ヵ月弱でブッカーG東郷とトラぶって、急遽、アマレス界の大立者だった八田一郎氏の支援を得て欧州路線へと、この辺りから吉原はワンマン体制に方針転換したのではないかと思います。私が国プロをテレビ観戦したのは、TBSプロレスと称した頃ですが、吉原氏はいつもリングサイドに陣取って(時には解説で放送席に)いたのが画面にありました。吉原氏は日プロとは差別化の意味からも、国際はスポーツライクな試合を提供する団体を志向していたようで日プロを放映していたNTVとの視聴率合戦については知りませんが、馬場&猪木を擁する日プロに比べ、スター性に欠ける布陣だった理由はこの辺りだったと思います。豊登はともかく(笑)、G草津もT杉山もアマチュアスポーツ界ではエリートで、実績では馬場・猪木を凌ぐものがあり、試合内容で日プロと対抗しようという意図もあったかと思います。
ただ残念なことにテレビ受けする知名度やスター性の面と視聴率の点で、数年を経てTBSが撤退。あとを引き受けた(??)東京12chでは放送エリアが限定され(私は東京で観た試合を、当時、赴任していた名古屋で数週遅れの放映されたのを視ていました)、愛知県体育館での興行ではドル箱(?)の「金網マッチ」があっても客足は新日・全日の半分以下という有り様でした。悲しいかな吉原氏も“武家の商法”では太刀打ちできないことを自覚され、崩壊する数年前から廃業を考えていたそうですが、社運を賭けた「日本リーグ争覇戦」以降、創業時に惜しまず協力した全日との友好関係を断ち切って、新日との提携を結ぶに至った頃から、経営面での迷走が明らかになったのかと思います。
北海道羅臼で終焉後に、有名なコンバンワ事件を経て、観戦に行った旧蔵前国技館でのリングに上がった木村・浜口・寺西の気持ちは如何ばかりかと考えると気の毒になりました。実際に聞くに堪えないヤジが地元在住の浜口に浴びせられていたし、「対抗戦」とは名ばかりの試合ぶり。
会場で観戦していた時には、G草津はケガ等ですでにセミリタイア状態でしたが、彼の練習嫌いでプライドの高かった人間性はともかくとして、もっとも身体能力が優れているように見えたG草津が初戦のテーズ戦にめげることなく頑張っていたら、国プロのその後は変わっていたと思います。全体的に吉原氏を筆頭に木村も小林も善人に過ぎたのもアダとなったのかと思いました。
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Unknown (太郎)
2022-10-30 22:23:50
凸樫さん

吉原社長は力道山が残した莫大な借金、リキパレス等の売却等を主張した
そこで日プロと揉めて辞めたと聞きました。
実際、息子の百田光雄は力道山時代の膨大な財産は
膨大な借金で失った、とTVでやっていましたな。
放漫経営だった日プロフロントよりしっかりした常識人だったでしょうね。
TBSプロレスは、TBS側はかなり傲慢だったと聞きますね。
秒でエースを造れると思っていたそうですし。
金網デスマッチは放送出来なくなった事で集客効果抜群だった様ですし。
昭和40年代は知名度が有る外国人が呼べていたのですし。
時代も関係有りますが、馬場、猪木というエースで有り
プロレスの天才2人が小さな日本に、
しかも皆がTV全盛期に居た訳で、ここにもし
天龍や長州がエースの国際プロレスでも
同じ道であったかも知れない、とも思います。
「普通の人が変人扱い」のプロレス界で
木村や小林では心優しき人達で
海千山千、自分が一番じゃ!なプロレス界の人間として
大変だった事でしょう。
ただ、元々腕に自信が有る輩ばかりのプロレス界ですし。
ただ12チャンネル時代のエースは木村だから持った、
これは流氏を始め、竹内、菊池、門馬氏と
プロレス界の重鎮ジャーナリスト達が言い切ってますね。
最終的にメインイベンターとして後々、良い形で
トップに君臨出来たのは、短期間ですが天龍の女房役ですが
阿修羅原だったのかな?と。
ただ、今回は吉原社長の運営、思想、交渉が
国際を崩壊へと導いた、それを証明する田中メモが
かなり衝撃的でした。
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